ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

2018-01-01から1ヶ月間の記事一覧

使徒的であるとは。新使徒運動は聖書的か?

母教会を牧師批判をして出て行った兄妹姉妹3人は、今は自分達で単立教会を 起こし、新使徒運動の流れを汲む組織に関わっている。 自分達は新使徒だと言っている。 今朝、「使徒的」であることについて、とても有益な記事を読んだ。 「使徒的」であることにつ…

主イエスが譬えで語る理由は?

「種まきのたとえ」の解説を色々聴いた事がありますが、その中に 弟子たちの「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」という質問に イエスさまは驚くべき解答をしている。 「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、…

詩篇23編(からしだね訳)

【詩篇23編 からしだね訳】 イエスさま あなたは うちの羊飼いです うちは あなたに守られている ちっちゃい 羊です あなたのそばにいて「何かたりないきがするなあ」と 思ったことは一度もありません イエスさまは うちを 青々とした草がいっぱい生えてい…

肩書き、立場へのこだわり

1コリント12章には「御霊の賜物」9つと ミニストリーについて書かれています。 ミニストリーは 「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。 すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行なう者、それからいやしの賜物を持…

十字架につけられたキリストを本当に信じているか?

昨年、以下の聖句に目が開かれました。 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を…

命に至る狭き門を見つけたか?

あなたは「命に至る狭き門」を見つけたでしょうか? 以下の記事に目が開かれ、命の光に包まれます。 命に至る狭き門 http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/07/07/213440

弱さのうちに顕れるキリストの力とは?

Ⅱコリント12章 「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。 」とは、どういう事なのか、以下のブログ記事に詳細に、素晴らしく書かれているので紹介させて頂きます。 弱さのうちに顕れるキリストの力 http://eas…

死んでいた

+++++++++ ★今日のみ言葉★ +++++++++ 「死んでいた」 人と比べたくなることはありますか。 どういう場合ですか。 もう一つ、比べる必要のあることがあります。 主イエスを信じる以前の自分と今の自分を比べることも出来ます。 =====…

「うめき」と「産みの苦しみ」

ローマ8章 :21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 :22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 :23 そればかりでなく、御霊の初穂をいた…

救いの確かさ

我々は神さまに救って頂いたら必ず救われます。 救ってみたけれど、ものになりそうにないからダメだというような事は神さまはなさいません。 神さまが救って下さったら、必ず救いを完成して下さる。 神さまの確かさがそこにあります。 小さな子どもが親と一…

キリストの復活のいのちの力

以下は、「キリストの復活のいのちの力」を日々経験することができる『信仰の基礎』として、非常に重要な聖句です。 【Ⅱコリント12章】 :9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるから…

安っぽい福音

神の愛に対して完全に信頼できないこと、神の前で自分が完全に「失格」だと思え切れないことが、「安っぽさ」を生み出しているのだと自省しています。 十字架の愛を知れば知るほど、パウロのように自分の命など惜しくはなくなり、より気高く生きることができ…

本来あるべき姿

時代は、凄まじい勢いで変化している。 教団や教派などの公的正統性などはただの幻想に過ぎない。 個人が神の前でどう歩むか、それだけである。 またそれが本来あるべきスタンスである。 http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/06/21/153545

聖霊のバプテスマと異言

以前、「聖霊のバプテスマ」と「異言」について、敬虔なクリスチャンの兄弟に質問した際の解答を覚書に残して起きます。 聖霊のバプテスマは、十字架の体験と切っても切り離せない関係です。 ローマ6:3-5 3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリス…

キリストにある <In Christ>

私たちは罪人として生まれました。ではどのようにして、この罪の血統(※アダムの血統)から切り離されることが出来るでしょうか。私たちはアダムにあって生まれたのですから、どうしてアダムから逃れることができるでしょう。一言にして言えば、キリストの血…

「最後のアダム」 「第二の人」

主イエスの死は、「包括性」を持っています。また主イエスの復活も、同じく包括的です。 私たちはコリント人への第一の手紙の1章を見て、私たちが「キリスト・イエスにある」ことを確かめました。 https://blogs.yahoo.co.jp/jesusdiary21/43448040.html 次…