ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

キリストにある <In Christ>


私たちは罪人として生まれました。ではどのようにして、この罪の血統(※アダムの血統)から切り離されることが出来るでしょうか。私たちはアダムにあって生まれたのですから、どうしてアダムから逃れることができるでしょう。一言にして言えば、キリストの血は、私たちをアダムの領域から取り出すことはできません。

しかしただ一つの道があります。
私たちは誕生によって存在するようになったのですから、死によって存在を断たなければなりません。
私たちの罪性を処理するには、私たちの生命を処理しなければなりません。
誕生によって罪への束縛が生じたように、死によって罪からの解放が得られるのです。しかも神は、この脱出の道を備えて下さったのです。

解放の秘訣は死にあります。・・・・

しかし、どのようにして死ぬことができるでしょうか。私たちの何人かは、この罪ある生命から逃れるため、随分努力したでしょうが、それがどんなにねばり強いものであるかを発見しました。逃れる道はどこにあるでしょうか。

それは自分を殺そうと努力することではなく、神がキリストにあって私たちをすでに処理しておられるということを認識することになります。この事は使徒の次の記事に要約されています。

「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。」(ローマ6:3)

しかし、もし神が「キリスト・イエスにあって」私たちを処理されたとすれば、それが効果を持つには、私たちはキリスト・イエスにある必要があります。ところがこれは、非常に大きな問題です。私たちはどのようにしてキリストの内に入ることができるでしょうか。しかしここでもまた神は、私たちの助けとして来て下さいます。

事実、キリストに「入る」方法はありません。否、それより大切なことは、私たちはキリストに入ろうと努力しあくてもいいのです。
なぜならば、私たちはすでに「キリストにある」からです。
私たちが自分自身でできないことを、神が私たちのためになして下さいました。
神が私たちをキリストの中に入れて下さったのです。
ここで1コリント1:30を引用しましょう。私は、この聖句は新約聖書の中でも最もすばらしい聖句の一つであると思います。

「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。」

※【NKJV】1Co
1:30 But of Him you are in Christ Jesus, who became for us wisdom from God-and righteousness and sanctification and redemption-

【TEV】1Co
 1:30 But God has brought you into union with Christ Jesus, and God has made Christ to be our wisdom. By him we are put right with God; we become God's holy people and are set free.

御名はほむべきかな。「キリストにある」ために、その方法を考え出したり、あるいは努力するのではありません。どのようにして「キリスト」に入るべきか、計画する必要もありません。それは神が計画されたのであり、しかも神は、ただ計画されただけではなく、すでに成就して下さったのです。

「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。」

私たちはすでに「キリストに入っている」のであって、努力する必要はみじんもないのです。それは神のなされたみわざであり、すでに完成されたみわざであるのです。

さて、もしこのことが事実であれば、一定の事がらが続きます。先程考えたヘブル人への手紙7章の例証において、私たちは、全イスラエル民族が「アブラハムにあって」・・・従って、まだ誕生を見ないでいるレビ人さえも・・・メルキゼデクに十分の一の献げ物をしたことを学びました。
彼らはめいめい献げ物をしたのではなく、アブラハムが献げ物をした時に、アブラハムの中にあって同時に献げ物をしたのです。従ってアブラハムお献げ物は、彼の子孫全部を含んでいたのです。
これがまた「キリストにある」私たちのまことの姿です。
主イエスが十字架にかかられた時に、私たちすべては死んだのです。
個々に死んだのではありません。なぜならば、私たちはその時まだ誕生を見ていないからです・・・私たちは「キリストにある」ことによって、彼にあって死んだのです。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」(Ⅱコリント5:14)

キリストが十字架につけられ時、私たちも十字架につけられたのです。

中国の農村に福音を伝える時、神の深い真理は、簡単な例証を用いなければ理解されません。このことに注意しながら、ある時私は小さな本を取り上げ、その中に一枚の紙切れをはさみました。そして、極めて単純な頭の持ち主たちに言いました。

「さて、よくごらんなさい。私は一枚の紙切れを持っています。それはこの本と全く別な紙です。今この紙に対して特別な目的を持たないまま、この本を上海へ郵送します。私は別にこの紙切れを郵送するのではありませんが、紙切れは本の間にあるので一緒に上海へ郵送されます。
ところで、紙はどこに行ったでしょうか。本だけ上海に行って、紙はここに残っていることができるでしょうか。できません。
本の行く所に紙切れも行きます。もしこの本を川に落とせば、紙切れも川に落ちます。もし急いで川からその本を取り上げれば、この紙切れも取り戻すことができます。本がどのような経験を持とうと、紙切れも本と同じ経験を通るのです。なぜなら、それは『本の中にある』からです。」

「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神による。」

主なる神御自身が、私たちを「キリストに入れられた」のです。キリストによって、神は全人類の罪を処理されました。私たちの運命はキリストにつながれ、キリストの体験は私たちの体験となります。

なぜならば、「キリストにある」ということは、彼の死と復活の両面において彼と同一視されたことを意味するからです。

キリストは十字架につけられました。私たちはどうでしょうか。
私たちは神に、十字架につけて下さいと求めねばならないでしょうか。
その必要はありません。キリストが十字架につけられた時、私たちも一緒に十字架につけられたのです。しかもキリストの磔刑は過去のものであるために、私たちの磔刑も未来のものではあり得ません。私たちの磔刑が将来にあると記した箇所を、新約聖書の中から、ただの一箇所でもいいから探してごらんなさい。それに関するギリシャ語の動詞の時制は、すべて過去形になっています。すなわち、永遠の過去になっているのです。(ローマ6:6,ガラテヤ2:20,5:24,6:1参照)。

人は、自分の手で自分を十字架につけて殺すことはできません。このようにすることは不可能です。それと同様に、霊的な面においても、神はわたしたち自身が自己を十字架につけるようにとは要求しておられません。
キリストが十字架につけられた時に、私たちも共に十字架につけられたのです。
なぜならば、神は、彼にあって私たちをそこに置かれたからです。

「キリストにあって」(※in Christ)私たちが死んだということは、単なる教義上の問題ではなく、永遠の事実であります。

※印の箇所は引用者による追記です。

 ウオッチマン・ニー 「キリスト者の標準」 P35-39より

続きは「最後のアダム」「第二の人」