「うめき」と「産みの苦しみ」
ローマ8章
:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
何気なく読んでいた上記の聖句をよく見ると、「うめき」という言葉が3回出てくることが分かる。
そしてその「うめき」は
①被造物全体=自然
②御霊の初穂をいただいている私たち自身=クリスチャン
③御霊=聖霊
から発せられています。
その「うめき」は「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んで」発せられているのです。
私たちは、この望みによって救われており(24節)もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、「忍耐」をもって熱心に待ちます。(25節)と書かれています。
つまり、クリスチャンは、「うめく」時にも希望があり、「うめく」事で希望はさらに強くさえなる。
時に私たちが弱り果て、また罪によって祈る力を閉ざされ、束縛され、どう祈っていいか分からずもがいていたとしても、御霊が私たちに寄り添い、その重荷を担って、御霊ご自身が共に うめいてとりなしの祈りをして下さるのです。
22節には「産みの苦しみをしていることを知っています。」と書かれていますが、「産みの苦しみ」が示そうとしているのは、苦しみを越えて、そこには喜びに満ちた完成、からだの贖いがあるという事。
辛さや悲しみに打ちひしがれていることを打ち破り、必ず神が約束された事は成就し、その約束の日が近づいていることに希望を置いて前進していきたい。
「創造物と神の子たちと御霊との呻きが、最後の日の栄光を保証する 」