ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

「最後のアダム」 「第二の人」

 
主イエスの死は、「包括性」を持っています。また主イエスの復活も、同じく包括的です。
私たちはコリント人への第一の手紙の1章を見て、私たちが「キリスト・イエスにある」ことを確かめました。
次に、この意味をいっそう深く知るために、同書簡の終わりを学んでみましょう。
 
コリント人への第一の手紙15:45-47には、主イエスについて二つの注意すべき名称、ないしは肩書が用いられています。
 
それは、「最後のアダム」および「第二の人」です。
 
聖書には、キリストが「第二のアダム」ではなく、「最後のアダム」であると記されています。
 
またキリストは、「最後の人」ではなく、「第二の人」として記されています。
 
この区別に十分の注意を払うべきです。なぜならば、これは大きな価値を持つ真理を含んでいるからです。
 
キリストは「最後のアダム」として、全人類を包括したものです。
 
また「第二の人」として、新しい人類の長であります。
 
ここで私たちは、二つの結合、すなわち、一つは彼の「死」に、一つは彼の「復活」に結び付けられる「結合」を学びます。
 
「最後のアダム」としてキリストが人類と「結合」されたことは、歴史的にはベツレヘムで始まり、十字架と墓をもって終わっています。
そこでキリストは、アダムにあったものをすべてご自身の中に集め、かつそれを審判と死へ渡されました。
 
 
次に「第二の人」としてのキリストと私たちとの「結合」は、復活で始まり、永遠において終わります。すなわち永遠に終わらないのです。なぜならば、キリストはみこころに反した第一の人を死によって処理し、それから、みこころが十分に実現される新しい人類の首長として復活されたからです。
 
したがって主イエスは、十字架につけられた時に、「最後のアダム」としてつけられたのです。
第一のアダムにあったものが、すべて集められ、彼にあって処理されたのです。
私たちもそこに含まれています。
 
キリストは「最後のアダム」として、古き人類を一掃されました。
 
次に「第二の人」として、新しい人類を誕生させられるのです。
 
キリストは「第二の人」として立ち、私たちもまたそこに含まれています。
 
「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様とひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなる」(ローマ6:5)からです。
 
私たちは、「最後のアダム」であるキリストにあって死にました。同時に、「第二の人」であるキリストにあって生きるのです。
このように十字架は、私たちをアダムからキリストへと移す神の力であるのです。
 
ウオッチマン・ニー 「キリスト者の標準」(P40-42)