ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

使徒的であるとは。新使徒運動は聖書的か?

母教会を牧師批判をして出て行った兄妹姉妹3人は、今は自分達で単立教会
起こし、新使徒運動の流れを汲む組織に関わっている。
自分達は新使徒だと言っている。


今朝、「使徒的」であることについて、とても有益な記事を読んだ。


使徒信条には

「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。」とありますが、

ニケヤ・コンスタンティノープル信条(381年)は

「わたしは、聖なる、普遍の、使徒、唯一の教会を信じます。」
Πιστε?ω..ε?? μ?αν, αγ?αν, καθολικ?ν κα? αποστολικ?ν ?κκλησ?αν.
Credo..et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam.

使徒的」という言葉が入っています。

中でも、プロテスタント神学者であるR・B・カイパーの解説は素晴らしいと思いました。

まずカトリックの「使徒的であること」についての見解の誤りを指摘しています。

「十二人の使徒達を頭(かしら)として創った教会はその後継者が、途切れなく続いた教会です。カトリックの考え方として、プロテスタントの諸教会がその点について欠けていると思っています。」

カトリック教会は言っていますが、本来キリストが教会の頭(かしら)であるはずが、「十二人の使徒達を頭(かしら)として、「人や場所の継承」に重点が置かれ、「教理の継承」=「信仰義認」が蔑ろにされている事です。

※信仰義認が蔑ろにされている理由については、こちらに有益な検証がなされています。

世界福音同盟の代表団が教皇フランシスコと会合(2)

「義認は、信仰の秘跡である洗礼によって授与される。それは私たちに対する神の義を確実なものとし、御自身の憐れみの力で私たちを内面的に義とする。」とある。カトリック教義が、「義認」よりも「義化」という表現を選ぶ根拠がここでも暗示されている。つまりカトリックの教義によれば、人は七つの秘跡の一つである「洗礼」を受けることで神に「義」とされる、というのである。『カトリック教会のカテキズム』


そしてR・B・カイパーは「新約の教会の基礎が使徒的である」の正しい意味を
 以下のように定義しています。

「それは、教会が使徒たちの『教え』の上に建てられるということです。このことは、先述のマタイ福音書の御言においても明らかに含意されています。ペテロが主イエスは神の子キリストであるという教理を、たまたま述べた時にというのではなくて、正確には、彼が この教理を告白した『ゆえに』、主イエスは『わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう』と言われたわけです。その真理の告白者としての使徒たちが、教会の基礎なのです。」(同著p.54)
 
また、「教会の基礎が使徒的であるということは、『すでに据えられている土台以外のものを据えることは、だれにもできない。そしてこの土台はイエス・キリストである』(1コリ2:11)という、使徒パウロの強調的な言葉と矛盾しないだろうか?」という疑問に対してもカイパーは次のように答えています。
 
「しかし、教会は使徒たちの『教え』の上に建てられることを思い起こすなら、その問題はすぐ解決がつきます。使徒たちは、キリスト以外の何を教えたでしょうか。キリストが、彼らの教えの要点です。パウロは、イエス・キリスト、十字架につけられたキリストのほか何も知るまいと決心したと言わなかったでしょうか(1コリ2:2)。使徒たちの教えが教会の基礎であるというのは、キリストが教会の基礎であるというのと全く同じです。」(同著p.55)

私はこのカイパーの解説で、「使徒的」という意味がとても深く理解できました。
現在の「新使徒運動」の誤りもこの中に表わされていると思います。

使徒職という肩書の継承ではなく、教会が使徒たちの『教え』の上に建てられるということで、それは「主イエスは神の子キリストであるという真理の告白者としての使徒たちが、教会の基礎」であること。それは、土台であるイエス・キリスト』(1コリ2:11)が教会の基礎である事の継承でもあります。

ですから「新使徒運動」なるものは、非聖書的である事が分かります。

先日、紹介した、こちらの記事にも繋がります。
「良い忠実な『僕』」