ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

聖書を読む際に「ヘブル的視点」は欠かせないの?(※追記あり)

Q: ヘブル的(ユダヤ的)視点とは何ですか。
A: ヘブル的視点で聖書を学ぶとは、聖書の書かれた当時の人々が理解した方法で聖書を読み、学ぶということです。
神が救いの計画を私たちに啓示されたとき、神はヘブル文化を通して、それを行うことを選ばれました。それは、決してヘブル文化が他の文化よりも優れていたからではありません。神の一方的な選び、主権による選びによってそうなったということです。
ところが、聖書を読む私たちは、どうしても自分の体験や文化の枠組みの中で聖書のメッセージを理解しようとします。しかしそれでは、聖書記者たちの意図を誤解して受け取ることになります。そのため、聖書のメッセージを誤解せずそのまま受け取るには、ヘブル的視点で聖書を読むことが欠かせないのです。


私たちはプロテスタントキリスト教福音団体です。
1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する
2. 文脈を重視する
3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む
4. イスラエルと教会を区別する
この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。
聖書を読むのに、なぜ解釈学が必要ですか?より
私的解釈や異端的解釈は、すべて解釈学の原則を無視した結果生まれるものです。そういうわけで、聖書を正しく理解するためには、解釈学の原則がどうしても必要なのです。「著者は何を伝えようとしたのか」、「それを聞いた人は、その言葉をどう理解したのか」。この2つの質問を自分に課すだけで、私的解釈や異端的解釈から守られます。

上記を読んで、私が思う事がいくつかあるので挙げてみたいと思います。

① ヘブル的視点で聖書を学ぶとは、聖書の書かれた当時の人々が理解した方法で聖書を読み、学ぶということです。

→これは自由主義神学の方達が取る立場に似ていると思いました。
ウイキペディアの「自由主義神学の特徴」に「書かれた言葉が書かれた時代の人々にどう読まれたかを解釈の第一義とする。」  と書かれています。

②ヘブル文化を知らないと「聖書記者たちの意図を誤解して受け取ることになります。」

→果たして本当にヘブル文化を知らないと、聖書記者たちの意図を誤解して受け取る事になるのでしょうか。
聖書が書かれた目的は「あなたがたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせること」ですが、私がキリストの贖いを信じた時、ヘブル文化もヘブル的解釈も全く知りませんでした。一人聖書を読んでいた時に「聖霊」によって「キリストが十字架に架かられたのは私の罪の為だったのだ」と信じる事が出来たのです。

聖書を読む時に一番大切な事は、「神の霊感」によって書かれた聖書は、その著者である「聖霊」によって読む事であって、「ヘブル文化」や「ヘブライ的解釈」で読む事ではないと私は信じます。

Ⅱテモテ3章

:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、
:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。」(1ヨハネ2:20)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(1ヨハネ2:27)

③上記を考えると、この団体は「聖霊の導きや光」を「ヘブライ的解釈」に取って変えてしまっていると言えます。「聖霊の光と導き」に委ねるというのは、「人間的な手段や知恵」に死ぬということです。

「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)

「だからこのわたし達は、今からのちだれをも人間的に知ろうとはしない。たとい(以前は)キリストをも人間的に知っていたにせよ、今はもはや(そのように)知りはしない。」(Ⅱコリント5:16 塚本訳)

④この団体は「聖霊論」についてしっかり語っています。けれど「私達の聖霊に関する信条は正統的でしかも聖書的であるかもしれませんが、聖霊の臨在と御力は、信徒の生活において、みことばの説き明かしにおいて、神の約束のことばとその計画の要求する通りになっていません。」(アンドリュー・マーレー 「キリストの御霊」より)という事があり得ます。

⑤「そのため、聖書のメッセージを誤解せずそのまま受け取るには、ヘブル的視点で聖書を読むことが欠かせないのです。」

→色々な解釈方法の一つではなく、「欠かせないのです。」と言い切る時に問題が起こります。自分達のように「ヘブル的聖書解釈」をしなければ、聖書を正しく理解する事はできないというなら、一つ間違えばカルトになってしまうかもしれません。

⑥「著者は何を伝えようとしたのか」 ※追記部分
この団体は、聖書の「著者」を「聖霊なる神」ではなく、マタイやルカ、ヨハネパウロなど「聖書記者」であるという発言を常にしています。

視聴者の感想に「著者マタイが命がけで残した福音書の意味をしっかりと掴みたいと思います」などがあり、私は聖書は「聖霊」が聖書記者に臨んで書かせたのであって、「聖書記者が何を伝えようとしたのか」という人間的、肉的な観点から聖書を解釈する事は間違っていると思います。なぜなら聖書の言葉は「神の言葉」「霊」「天のことば」なのですから。

「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」 (ヨハネ6:63)

「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。」(ヨハネ3:34)

「上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。」(ヨハネ3:31-32)

イスラエルと教会を区別する

この団体は、「ヘブル文化」と「ヘブライ的解釈」をメシアニック・ジューから聞いて学んでいると思います。

ではメシアニック・ジューとはどういう方でしょうか?

既存の教派(「異邦人教会」)に属さずユダヤ人としての文化的アイデンティティを強く保持したままプロテスタント的な信仰を持つに至ったユダヤキリスト教徒」という事です。

パウロは彼らと同じ、否それ以上のユダヤ人としての文化的アイデンティティを持っていましたが、それらを「イエス・キリストを知る知識の絶大な価値」のゆえに「損」「ふん土」と思うようになったと言っています。何という違いでしょうか。
「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:3)とも言っています。

ピリピ3章
:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
イスラエル民族の選民性、優位性を前面に出している事は、聖書的ではないと思います。

また、メシアニック・ジューの方々は「既存の教派(「異邦人教会」)に属さず」という事ですが、パウロは「ユダヤ人もギリシャ人(異邦人)もなく、キリスト・イエスにあって一つだからです。」と言っています。ですからイスラエルと教会を区別するというのは違うのではないかと思います。

「福音に基づけば、現在はイスラエルも異邦人も何の区別もなく、信仰によって救いを受けるべき罪人であり、それぞれ罪の奴隷状態や地上的宗教性から贖い出され、ただ恵みによって、キリストの体の中に導き入れられ、教会として一つの民となった」のです。
ガラテヤ3章
:28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

なぜ、「イスラエルと教会を区別」する方向に向かったのかというと、「置換神学」が大きく影響しているように思います。

置換神学とは
旧約のイスラエルは見捨てられたが、教会が霊的なイスラエルとなったというのが置換神学の立場。つまり、聖書の人類救済史上のイスラエルの役割は、キリストが世に来られることで終わった。イスラエル民族はキリストを拒否したので、今やのろいの下にある。キリストを信じる異邦人教会こそが、真の神の民、霊的イスラエルであるというのです。イスラエル民族が異邦人教会に起きかえられため、置換神学という名がつけられました。

この神学は誤りです。この誤りの為に逆にイスラエルを擁護する方向に傾いているのではないかと思います。
では、どのように考えればいいのでしょうか。

福音に基づけば、現在はイスラエルも異邦人も何の区別もなく、信仰によって救いを受けるべき罪人であり、実際にただ恵みによってキリストの体に受け入れられる存在です。しかしだからといってイスラエルの民が見捨てられたわけではなく、大艱難期に特別な役割が備えられているのも確かです。それは大艱難期という、歴史上類を見ない、諸国に対する神の裁きの時において、地上において迫害を耐えてきたイスラエルに相応しいものなのかもしれません。その時期に恵みによって救われるイスラエル人も、同様にキリストの体の一部を構成することになります。だから救いに関して言えば、イスラエルと異邦人の区別は全くありませんが、神の計画という観点からみれば、イスラエル民族にはまだ特別な役割が残っていると言えるでしょう。

使徒達の時代のユダヤ人でさえ、誤った霊によって解釈していたのだから、現在のメシアニック・ジューの教師達が完全な解釈が出来るとは思えません。
→ガラテヤ2章において、メシアニック・ジューを通して働く「偽善」がパウロによって強く糾弾されています。

⑧政治国家イスラエルを支持している問題

新約聖書を信じるキリスト教徒であるならば、もともとそこに住んでいた人々から政治的、また軍事力的によって奪い取って作った「現代のイスラエル共和国」を、キリスト教徒の信仰の神の「イスラエル」と混同させてはならない。
これら2つのものは完全に対立しているものなのです。

政治国家イスラエルを支持する事は、黙示録において啓示されている、第三神殿建設を推し進める事に加担する事に繋がっていく事にも目が開かれる必要があると思います。


以上を通して考えさせられる事は、私はこれからも、今も生きておられ、聖書の言葉を「生ける神のことば」として啓示して下さる「聖霊なる神」に依り頼み、少年サムエルのように「しもべは聞きます。お話しください」と祈りながら聖書を読む事ではないかと思います。

神様は、イエス様を罪の身代わりとしたのではない?

 
4年程前、教会で牧師が語ったメッセージを紹介しているブログを読んで、動揺を覚えて夜眠れなくなってしまった事がありました。

今は、なぜ、そのように動揺したのか信じられない程、その牧師の語るメッセージが誤りである事が分かります。

「福音」の根幹となる部分が否定されていると、今ははっきりと分かるのですが、当時は自分が当然と思っていた事を真っ向から否定する牧師のメッセージにカウンターパンチを食らった感じでした。
丁度、その頃、友人を通じて知り合った家庭集会をされている方に、この方のブログを読んでもらい、相談したところ、「書かれていることに問題となるようなところはございません。」と言われて、さらに驚いてしまいました。

当時は「自由主義神学」という事も知らない無知な自分だったという事もあります。


自由主義神学」(リベラル)    ウィキペディアより一部抜粋

科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている神話的要素(天地創造ノアの箱舟バベルの塔ヨシュア記等)を必ずしも科学的・歴史的事実とは主張せず、宗教的に有益な寓話(若しくは神話・説話・物語等々)とみなす。 ②聖書本文に対する批評的な研究・解釈非神話化を支持し、書かれた言葉が書かれた時代の人々にどう読まれたかを解釈の第一義とする。各書の成立に纏わる③伝説(モーセ五書の著者はモーセ、イザヤは一人の預言者イザヤによる、など)を必ずしも採用せず、聖書無謬説逐語霊感説聖書無誤を採らない。 ④モーセ五書の記者がイスラエルの指導者である預言者モーセであるという伝統的な理解を否定し、文書仮説を支持する。 ⑤古文書学の他、考古学、史学の成果も最大限活用して古代の信仰のありようを分析し、そこから現代の課題に合わせたキリスト教信仰を再構築しようとする。

現在は閲覧する事が出来なくっていますが、ブログの中で書かれてたのは


『神様は、イエス様を罪の身代わりとしたのではなく、人間が神様から離れているのだということを知らせるためにイエス様をこの地上に送られたのです。』

パウロは、「イエス様は、人間の罪を身代わりとして負われて十字架にかかられた」  という表現を使っていますが、これは、旧約聖書の律法を犯したときに、
 その身代わりとして、動物がいけにえとしてささげられたことを用いた
 表現であって、律法が与えられたユダヤ人たちに向けて、わかりやすいように表現したに過ぎません。』
 
『そして必然的に、聖書に書かれてあることは、すべて神の言葉である、ということに矛盾が生じてくる。』

『4つの福音書を比べてみると明らかに後から、つくり話として挿入されている箇所もあります。前後の文章から比べると、その箇所だけ明らかに不自然になっています。』

上記は、「福音書には【贖罪】という概念がなく、イエスはそれを教えていない。贖罪論を取り入れたのはパウロである。」という説を説く人々がいる。そのような観点から、本来聖書には存在しない「イエス教」と「パウロ教」という区別をする解釈であり、プロテスタント自由主義神学において説かれている解釈である。」という言葉そのものだと思います。

「神はイエスキリストを罪の身代わりとしたのではない」という教えには、『罪びとが罪の赦しを受けることができる根拠が存在せず、救いの可能性がなくなる』こと。
そして、それは「御子の十字架の死を否定」するだけでなく、「父なる神が御子を地上に遣わしたことさえも無益なもの」とし、「使徒パウロの証をはじめ、聖書の主張全体を否定するものである。」という事が以下の検証記事によってとても良く分かると思います。







信仰者は


信仰者は、キリストの「十字架の贖罪」を信じた時、自分自身がどう努力しようと、
神の「聖なる要求」を満たすことができない、つまり、律法によって「のろい」と「死罪」に価する人間である事を信仰によって受け入れた事を意味します。


そして実際に、罪を犯さず、完全に父なる神の御心を行なっていた御子が、
律法の呪いの死を通った時、信仰者も死んだのです。

そしてキリストの死において、もうすでに「裁き」を受けている者には、
神はもう「律法の裁き」を適用しません。

神の「律法の義」が満たされているからです。


「an east window」より


自分は、神の「聖なる要求」を満たすことができない者で、律法によって「のろい」と「死罪」に価する人間である事を悟っているだろうか。
まだどこかで自己義により頼んでいないだろうか。

御子が十字架につけられた時、私達も共に十字架につけられたと聖書には書かれている。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

そして、キリストと共に葬られたのなら、キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストのうちにあって私達も共によみがえらされているのです。

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2:12)

「古い人」ではなく、「新しい人」、「新しいいのち」を生きているだろうか?

そして、神は今まで犯して来た私達の罪を神の忍耐をもって、見逃して来られていましたが、ご自身の義を現すために、神の怒りを御子の上に注ぎ、御子を、その血における、また信仰による、「なだめの供え物」として公にお示しになったのです。(ローマ3:25)

キリストの死において、もうすでに「裁き」を受けた私たちは、「律法の裁き」である「神の怒り」から解放されているのです。
それはキリストの十字架の贖いによって「律法の義」が満たされているからなのです。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)






罪意識と恥意識

 罪意識: 間違ったことをしてしまったと考える。
 恥意識: 自分の存在自体が間違いであると考える。
 真の恥: 罪責感
 偽りの恥: 責められる思いをもたらし、それで隠れようとする。

恥は心に守りの壁を築き上げ、それによって神と自分自身、周りの人から隠れようとする。
私達の多くは、何年もの間そういう恥という気持ちを背負ってきてしまいました。
それは神さまの見方に影響を与えますし、その恥があるために
互いの関係に悪影響を与えますし、自分の心の周りに壁を築いてしまうことにもなります。
また、恥意識というのは、「私に悪いことが起きるのは、私が悪いからなんだ」という気持ちを持ってしまいます。
しかし私の存在が間違っているとか、私は悪いっていう考え方はサタンからくる偽りです。


私が悪いから、その悪い事が起きたということは、その悪いことを隠すだけじゃなく、悪い私も隠れなければならないんだということになってしまいます
何年もかけて、恥を隠そうとすることは、とても疲れることです。

【恥のサイクル】
① 心の大きな傷となった出来事
② 人生を破壊するメッセージが入る
(私達の心に何らかの出来事が起きて傷つくことによって、敵はそこに偽りを必ず入れようとします。)
③ 恥意識が生じる
恥意識を持ったままずっと進んでいきますと、心の中に死にたい、死の願望が生まれてきます。
④ 自分に価値がないと感じる。
それが低い自己価値感を持たせます。
⑤欲求不満を解消する
その痛みを自分で治そうとする。
⑥一時的な解決を得る
⑦中毒、依存症
中毒があると、必ず死にたいという願望を伴う。ほとんどの場合、悪霊がついてきます。死への願望があるかどうか知るには、「私は生まれなければ良かった」とかそういう思いがある時。「私なんか存在していない方がいいんだ」という気持ちです。
ある人は自分の身体を切り刻んで痛めることによって、その気持ちをやわらげようとします。
中毒があると必ずそれに伴う悪い結果がある。それはさらに、罪責感を増し加えますし、恥という意識がまた増し加わります。
⑧悪い結果や報いを受け取る。
⑨罪責感
⑩恥意識の増加
⑪恥意識が毒素化して蝕み始める。
⑫孤立(家の中に閉じこもってカーテンを閉めて眠って全て忘れようとする)
⑬痛みの増加
⑭自殺願望
⑮現実離れ(精神的に異常が現れる)
⑯欺きにはまりこむ
⑰絶望感が増す

◎私達は恥の中に生きている時、自分に与えられている栄光をも隠し、その結果、神の栄光をも現わせない。



私達は「原罪」ということについてよく耳にします。
ところが「原罪」に対して、元々あった「栄光」ということについては、あまりメッセージを聴きません。
私達は神さまの姿に似せて作られたわけで、その神さまはご自分の周りに素晴らしい栄光があるわけです。
でも私達は恥を持っていると、自分に与えられている栄光をも、私達を通して現わされるべき神さまの栄光をも覆ってしまうことになる。
サタンは神さまの栄光を現わす人を大変憎みます。

◎恥の中に生きていると、愛を受け取ることができなくなってしまいます。
恥の中に生きると、自分は愛を受ける資格がないと思ってしまいます。
愛がないと私達は人に与えるものが何もなくなってしまいます。

【要塞】神の御心に反したことでありながらも、これは絶対に変えることができないという絶望的な気持ちを伴った思い込み。
恥というのは、一つの要塞であって、他の要塞とつながっていく。例えば恐れとか、怒りという要塞。

恥があると、まず神さまとの関係を遮断します。
私達と神さまとの間に一つの要塞が出来上がってしまう。
私達と他の人間の間に一つの要塞が出来てしまう。
自分と自然界との間にも一つの要塞が出来てしまい、美しい花をも楽しむことができなくなってしまいます。
自分の頭と心の間にも一つの要塞が築かれて遮断されてしまいます。
ですから、恥を砕くためには、戦いの中に入るという心構えを持たなければいけない。
私達の神さまは戦う神さまでありますから、本当に感謝したいと思います。
神さまは私達の内に築かれた要塞を砕くことのできるお方です。

【恥はどのようにして、私達に伝達されるのか?】
●最も身近な人(親や教師など)によって
学校の先生が恥を与えることによって、成績を良くしようとした。
しかし人を辱めることによって、その人の能力を増し加えるとか、他の人ともっと上手くやっていかせようとするのは間違ったやり方です。
●頻繁に批判されると、私達は恥意識を抱くようになる。
●他の人と比較されると、私達は恥意識を抱くようになる。
●心に刻まれた偽りのメッセージ
・呪い・・・親から子どもに「あなたには何の価値がない。」「あなたは何をしても上手くいかない」とかそういうことを親が言うのは事実上「呪い」と同じ。
●からかい・・・私達の姿、形のことで人からからかわれることで恥が入り込む。
●不適切なこらしめ・・・間違った仕方で懲らしめを受けることによって恥が入り込む。
●パフォーマンスに基づいた価値感・・・自分の価値というものが、自分のパフォーマンス(行い、振る舞い)によって決まるものだと考える場合、恥という意識が入り込む。
●非現実的な要求を突きつけられる。
●仕事をやり終えた後に、つりあげられた基準
●家族の問題・・・家庭の中に人間関係が上手く行かなくなってくると恥が入ってくる。
●責められる・・・自分が悪いことをしていないのに、何度も責められる。
●恥の文化・・・文化自体が恥の文化であって、恥というものがほとんど美徳に近い文化にいると恥という意識が私達の中に入り込む。

  エリヤハウス祈りのミニストリー 
        ロバート&キャシー・フェットバイト夫妻




神に満つるものの満たんことを


毎朝、この祈りを捧げたいと思う。

エペソ3章


:14 こういうわけで、わたしはひざをかがめて、
:15 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
:16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもって【わたし】の内なる人を強くして下さるように、
:17 また、信仰によって、キリストが【わたし】の心のうちに住み、【わたし】が愛に根ざし愛を基として生活することにより、
:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、【わたし】が満たされるように、と祈る。
20 どうか、【わたし】のうちに働く力によって、【わたし】が求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。  

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なぜなら

コロサイ2章
:1 わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。
:2 それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。
:3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
:9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。

主よ、神に満つるものの満たんことを祈ります。
既に「キリストのうち」(In Christ)にあって満たされている事に、霊の目が開かれますように。

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使徒パウロのこの祈り(エペソ3:14-21)は、これだけで何度もメディテーションできるほど深遠である。父なる神の私たちに対する願いや目的、手段、完成などが啓示されている。特に私たちがキリストの愛を実体験として知ることによって(「人知」を遙かに超えるキリストの愛を「知る」ことができる!)、私たちが「神に満ちているもののすべてによって満たされる」という真理は、私たちの魂を震わすほど崇高なものではないだろうか。」
より




光によって私の『心』を照らしてください


私の信じる「主なる神」は、天地とその中にある人間、動植物、被造物を全て創造されたという認識はありました。

「しかし創造主なる神は『心』という、何と驚くべきものを造り、人間に与えたのだろうか。それは他のあらゆる被造物とは全く異なり、あらゆる矛盾に覆われながらも時空を超えて無類の光彩を放ち続けている」


という文章を読んだ時、『心』も主が造られたという事をあらためて認識する事ができました。これは本当に驚くべき事だと思います。

『心』は美しいものを美しいと感じ、幼子を見て可愛いと感じ、相手に尊敬の念を抱いたり、悲しむ人のそばにいて共に悲しむ心や哀れみの心を感じたり、人を愛する心、自分が犯した罪に対する罪責感を感じたり、執着心、むさぼりの心、善いものも、罪に繋がるものも、書き出せばきりがない程の動き、働きがあります。
中でも一番大切なのは、神と隣人を『愛する心』と、救いに不可欠な『悔い改めの心』なのかもしれません。

ガラスのハート
鏡、
澄んだ湖
のイメージが『心』にはあり、とても繊細で純粋無垢な感じがします。

でも、自分の『心』を覗き込むと

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)

陰険で汚い『心』が内にあるのが見え、私は20年に渡って苦しんで来ました。
けれど、そんな私に

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの『心』を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(Ⅱコリント4:6)

そのような汚い『心』を聖めて下さる為に、主イエスは十字架に架かり3日目によみがえって下さった事を主は啓示してくださいました。

そして、主イエスが自分の罪の為に十字架に架かって死んで下さったと信じた時、その『心』の中に聖霊なる神が住んで下さったのです。
神御自身が内に住んで下さるなんて、この事も本当に驚くべき事です。

栄化されるまで、『心』は聖くなる事はないので、
『心』を見つめるならその闇や汚さ、にがっかりします。
 
けれど、いつも『光』である主イエスを見つめ続けるなら、心の中にある『闇』は消え、それが「罪」であるなら悔い改めに導かれていくのです。

主イエスはその為に来て下さったのだから。


:35「そこでイエスは彼らに言われた、『もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。

:36 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい』。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

:46 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。

私の記事よりも、もっと素晴らしくこの事を、シンボリズムと聖書から解き明かして下さっている記事をご紹介します。

an east windowより



使徒的であるとは。新使徒運動は聖書的か?

母教会を牧師批判をして出て行った兄妹姉妹3人は、今は自分達で単立教会
起こし、新使徒運動の流れを汲む組織に関わっている。
自分達は新使徒だと言っている。


今朝、「使徒的」であることについて、とても有益な記事を読んだ。


使徒信条には

「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。」とありますが、

ニケヤ・コンスタンティノープル信条(381年)は

「わたしは、聖なる、普遍の、使徒、唯一の教会を信じます。」
Πιστε?ω..ε?? μ?αν, αγ?αν, καθολικ?ν κα? αποστολικ?ν ?κκλησ?αν.
Credo..et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam.

使徒的」という言葉が入っています。

中でも、プロテスタント神学者であるR・B・カイパーの解説は素晴らしいと思いました。

まずカトリックの「使徒的であること」についての見解の誤りを指摘しています。

「十二人の使徒達を頭(かしら)として創った教会はその後継者が、途切れなく続いた教会です。カトリックの考え方として、プロテスタントの諸教会がその点について欠けていると思っています。」

カトリック教会は言っていますが、本来キリストが教会の頭(かしら)であるはずが、「十二人の使徒達を頭(かしら)として、「人や場所の継承」に重点が置かれ、「教理の継承」=「信仰義認」が蔑ろにされている事です。

※信仰義認が蔑ろにされている理由については、こちらに有益な検証がなされています。

世界福音同盟の代表団が教皇フランシスコと会合(2)

「義認は、信仰の秘跡である洗礼によって授与される。それは私たちに対する神の義を確実なものとし、御自身の憐れみの力で私たちを内面的に義とする。」とある。カトリック教義が、「義認」よりも「義化」という表現を選ぶ根拠がここでも暗示されている。つまりカトリックの教義によれば、人は七つの秘跡の一つである「洗礼」を受けることで神に「義」とされる、というのである。『カトリック教会のカテキズム』


そしてR・B・カイパーは「新約の教会の基礎が使徒的である」の正しい意味を
 以下のように定義しています。

「それは、教会が使徒たちの『教え』の上に建てられるということです。このことは、先述のマタイ福音書の御言においても明らかに含意されています。ペテロが主イエスは神の子キリストであるという教理を、たまたま述べた時にというのではなくて、正確には、彼が この教理を告白した『ゆえに』、主イエスは『わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう』と言われたわけです。その真理の告白者としての使徒たちが、教会の基礎なのです。」(同著p.54)
 
また、「教会の基礎が使徒的であるということは、『すでに据えられている土台以外のものを据えることは、だれにもできない。そしてこの土台はイエス・キリストである』(1コリ2:11)という、使徒パウロの強調的な言葉と矛盾しないだろうか?」という疑問に対してもカイパーは次のように答えています。
 
「しかし、教会は使徒たちの『教え』の上に建てられることを思い起こすなら、その問題はすぐ解決がつきます。使徒たちは、キリスト以外の何を教えたでしょうか。キリストが、彼らの教えの要点です。パウロは、イエス・キリスト、十字架につけられたキリストのほか何も知るまいと決心したと言わなかったでしょうか(1コリ2:2)。使徒たちの教えが教会の基礎であるというのは、キリストが教会の基礎であるというのと全く同じです。」(同著p.55)

私はこのカイパーの解説で、「使徒的」という意味がとても深く理解できました。
現在の「新使徒運動」の誤りもこの中に表わされていると思います。

使徒職という肩書の継承ではなく、教会が使徒たちの『教え』の上に建てられるということで、それは「主イエスは神の子キリストであるという真理の告白者としての使徒たちが、教会の基礎」であること。それは、土台であるイエス・キリスト』(1コリ2:11)が教会の基礎である事の継承でもあります。

ですから「新使徒運動」なるものは、非聖書的である事が分かります。

先日、紹介した、こちらの記事にも繋がります。
「良い忠実な『僕』」