ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

聖書を読む際に「ヘブル的視点」は欠かせないの?(※追記あり)

Q: ヘブル的(ユダヤ的)視点とは何ですか。
A: ヘブル的視点で聖書を学ぶとは、聖書の書かれた当時の人々が理解した方法で聖書を読み、学ぶということです。
神が救いの計画を私たちに啓示されたとき、神はヘブル文化を通して、それを行うことを選ばれました。それは、決してヘブル文化が他の文化よりも優れていたからではありません。神の一方的な選び、主権による選びによってそうなったということです。
ところが、聖書を読む私たちは、どうしても自分の体験や文化の枠組みの中で聖書のメッセージを理解しようとします。しかしそれでは、聖書記者たちの意図を誤解して受け取ることになります。そのため、聖書のメッセージを誤解せずそのまま受け取るには、ヘブル的視点で聖書を読むことが欠かせないのです。


私たちはプロテスタントキリスト教福音団体です。
1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する
2. 文脈を重視する
3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む
4. イスラエルと教会を区別する
この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。
聖書を読むのに、なぜ解釈学が必要ですか?より
私的解釈や異端的解釈は、すべて解釈学の原則を無視した結果生まれるものです。そういうわけで、聖書を正しく理解するためには、解釈学の原則がどうしても必要なのです。「著者は何を伝えようとしたのか」、「それを聞いた人は、その言葉をどう理解したのか」。この2つの質問を自分に課すだけで、私的解釈や異端的解釈から守られます。

上記を読んで、私が思う事がいくつかあるので挙げてみたいと思います。

① ヘブル的視点で聖書を学ぶとは、聖書の書かれた当時の人々が理解した方法で聖書を読み、学ぶということです。

→これは自由主義神学の方達が取る立場に似ていると思いました。
ウイキペディアの「自由主義神学の特徴」に「書かれた言葉が書かれた時代の人々にどう読まれたかを解釈の第一義とする。」  と書かれています。

②ヘブル文化を知らないと「聖書記者たちの意図を誤解して受け取ることになります。」

→果たして本当にヘブル文化を知らないと、聖書記者たちの意図を誤解して受け取る事になるのでしょうか。
聖書が書かれた目的は「あなたがたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせること」ですが、私がキリストの贖いを信じた時、ヘブル文化もヘブル的解釈も全く知りませんでした。一人聖書を読んでいた時に「聖霊」によって「キリストが十字架に架かられたのは私の罪の為だったのだ」と信じる事が出来たのです。

聖書を読む時に一番大切な事は、「神の霊感」によって書かれた聖書は、その著者である「聖霊」によって読む事であって、「ヘブル文化」や「ヘブライ的解釈」で読む事ではないと私は信じます。

Ⅱテモテ3章

:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、
:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。」(1ヨハネ2:20)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(1ヨハネ2:27)

③上記を考えると、この団体は「聖霊の導きや光」を「ヘブライ的解釈」に取って変えてしまっていると言えます。「聖霊の光と導き」に委ねるというのは、「人間的な手段や知恵」に死ぬということです。

「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)

「だからこのわたし達は、今からのちだれをも人間的に知ろうとはしない。たとい(以前は)キリストをも人間的に知っていたにせよ、今はもはや(そのように)知りはしない。」(Ⅱコリント5:16 塚本訳)

④この団体は「聖霊論」についてしっかり語っています。けれど「私達の聖霊に関する信条は正統的でしかも聖書的であるかもしれませんが、聖霊の臨在と御力は、信徒の生活において、みことばの説き明かしにおいて、神の約束のことばとその計画の要求する通りになっていません。」(アンドリュー・マーレー 「キリストの御霊」より)という事があり得ます。

⑤「そのため、聖書のメッセージを誤解せずそのまま受け取るには、ヘブル的視点で聖書を読むことが欠かせないのです。」

→色々な解釈方法の一つではなく、「欠かせないのです。」と言い切る時に問題が起こります。自分達のように「ヘブル的聖書解釈」をしなければ、聖書を正しく理解する事はできないというなら、一つ間違えばカルトになってしまうかもしれません。

⑥「著者は何を伝えようとしたのか」 ※追記部分
この団体は、聖書の「著者」を「聖霊なる神」ではなく、マタイやルカ、ヨハネパウロなど「聖書記者」であるという発言を常にしています。

視聴者の感想に「著者マタイが命がけで残した福音書の意味をしっかりと掴みたいと思います」などがあり、私は聖書は「聖霊」が聖書記者に臨んで書かせたのであって、「聖書記者が何を伝えようとしたのか」という人間的、肉的な観点から聖書を解釈する事は間違っていると思います。なぜなら聖書の言葉は「神の言葉」「霊」「天のことば」なのですから。

「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」 (ヨハネ6:63)

「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。」(ヨハネ3:34)

「上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。」(ヨハネ3:31-32)

イスラエルと教会を区別する

この団体は、「ヘブル文化」と「ヘブライ的解釈」をメシアニック・ジューから聞いて学んでいると思います。

ではメシアニック・ジューとはどういう方でしょうか?

既存の教派(「異邦人教会」)に属さずユダヤ人としての文化的アイデンティティを強く保持したままプロテスタント的な信仰を持つに至ったユダヤキリスト教徒」という事です。

パウロは彼らと同じ、否それ以上のユダヤ人としての文化的アイデンティティを持っていましたが、それらを「イエス・キリストを知る知識の絶大な価値」のゆえに「損」「ふん土」と思うようになったと言っています。何という違いでしょうか。
「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:3)とも言っています。

ピリピ3章
:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。

:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
イスラエル民族の選民性、優位性を前面に出している事は、聖書的ではないと思います。

また、メシアニック・ジューの方々は「既存の教派(「異邦人教会」)に属さず」という事ですが、パウロは「ユダヤ人もギリシャ人(異邦人)もなく、キリスト・イエスにあって一つだからです。」と言っています。ですからイスラエルと教会を区別するというのは違うのではないかと思います。

「福音に基づけば、現在はイスラエルも異邦人も何の区別もなく、信仰によって救いを受けるべき罪人であり、それぞれ罪の奴隷状態や地上的宗教性から贖い出され、ただ恵みによって、キリストの体の中に導き入れられ、教会として一つの民となった」のです。
ガラテヤ3章
:28ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

なぜ、「イスラエルと教会を区別」する方向に向かったのかというと、「置換神学」が大きく影響しているように思います。

置換神学とは
旧約のイスラエルは見捨てられたが、教会が霊的なイスラエルとなったというのが置換神学の立場。つまり、聖書の人類救済史上のイスラエルの役割は、キリストが世に来られることで終わった。イスラエル民族はキリストを拒否したので、今やのろいの下にある。キリストを信じる異邦人教会こそが、真の神の民、霊的イスラエルであるというのです。イスラエル民族が異邦人教会に起きかえられため、置換神学という名がつけられました。

この神学は誤りです。この誤りの為に逆にイスラエルを擁護する方向に傾いているのではないかと思います。
では、どのように考えればいいのでしょうか。

福音に基づけば、現在はイスラエルも異邦人も何の区別もなく、信仰によって救いを受けるべき罪人であり、実際にただ恵みによってキリストの体に受け入れられる存在です。しかしだからといってイスラエルの民が見捨てられたわけではなく、大艱難期に特別な役割が備えられているのも確かです。それは大艱難期という、歴史上類を見ない、諸国に対する神の裁きの時において、地上において迫害を耐えてきたイスラエルに相応しいものなのかもしれません。その時期に恵みによって救われるイスラエル人も、同様にキリストの体の一部を構成することになります。だから救いに関して言えば、イスラエルと異邦人の区別は全くありませんが、神の計画という観点からみれば、イスラエル民族にはまだ特別な役割が残っていると言えるでしょう。

使徒達の時代のユダヤ人でさえ、誤った霊によって解釈していたのだから、現在のメシアニック・ジューの教師達が完全な解釈が出来るとは思えません。
→ガラテヤ2章において、メシアニック・ジューを通して働く「偽善」がパウロによって強く糾弾されています。

⑧政治国家イスラエルを支持している問題

新約聖書を信じるキリスト教徒であるならば、もともとそこに住んでいた人々から政治的、また軍事力的によって奪い取って作った「現代のイスラエル共和国」を、キリスト教徒の信仰の神の「イスラエル」と混同させてはならない。
これら2つのものは完全に対立しているものなのです。

政治国家イスラエルを支持する事は、黙示録において啓示されている、第三神殿建設を推し進める事に加担する事に繋がっていく事にも目が開かれる必要があると思います。


以上を通して考えさせられる事は、私はこれからも、今も生きておられ、聖書の言葉を「生ける神のことば」として啓示して下さる「聖霊なる神」に依り頼み、少年サムエルのように「しもべは聞きます。お話しください」と祈りながら聖書を読む事ではないかと思います。