ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

信仰者は


信仰者は、キリストの「十字架の贖罪」を信じた時、自分自身がどう努力しようと、
神の「聖なる要求」を満たすことができない、つまり、律法によって「のろい」と「死罪」に価する人間である事を信仰によって受け入れた事を意味します。


そして実際に、罪を犯さず、完全に父なる神の御心を行なっていた御子が、
律法の呪いの死を通った時、信仰者も死んだのです。

そしてキリストの死において、もうすでに「裁き」を受けている者には、
神はもう「律法の裁き」を適用しません。

神の「律法の義」が満たされているからです。


「an east window」より


自分は、神の「聖なる要求」を満たすことができない者で、律法によって「のろい」と「死罪」に価する人間である事を悟っているだろうか。
まだどこかで自己義により頼んでいないだろうか。

御子が十字架につけられた時、私達も共に十字架につけられたと聖書には書かれている。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

そして、キリストと共に葬られたのなら、キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストのうちにあって私達も共によみがえらされているのです。

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2:12)

「古い人」ではなく、「新しい人」、「新しいいのち」を生きているだろうか?

そして、神は今まで犯して来た私達の罪を神の忍耐をもって、見逃して来られていましたが、ご自身の義を現すために、神の怒りを御子の上に注ぎ、御子を、その血における、また信仰による、「なだめの供え物」として公にお示しになったのです。(ローマ3:25)

キリストの死において、もうすでに「裁き」を受けた私たちは、「律法の裁き」である「神の怒り」から解放されているのです。
それはキリストの十字架の贖いによって「律法の義」が満たされているからなのです。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)