神様は、イエス様を罪の身代わりとしたのではない?
4年程前、教会で牧師が語ったメッセージを紹介しているブログを読んで、動揺を覚えて夜眠れなくなってしまった事がありました。
今は、なぜ、そのように動揺したのか信じられない程、その牧師の語るメッセージが誤りである事が分かります。
「福音」の根幹となる部分が否定されていると、今ははっきりと分かるのですが、当時は自分が当然と思っていた事を真っ向から否定する牧師のメッセージにカウンターパンチを食らった感じでした。
丁度、その頃、友人を通じて知り合った家庭集会をされている方に、この方のブログを読んでもらい、相談したところ、「書かれていることに問題となるようなところはございません。」と言われて、さらに驚いてしまいました。
当時は「自由主義神学」という事も知らない無知な自分だったという事もあります。
①科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている神話的要素(天地創造、ノアの箱舟、バベルの塔、ヨシュア記等)を必ずしも科学的・歴史的事実とは主張せず、宗教的に有益な寓話(若しくは神話・説話・物語等々)とみなす。 ②聖書本文に対する批評的な研究・解釈、非神話化を支持し、書かれた言葉が書かれた時代の人々にどう読まれたかを解釈の第一義とする。各書の成立に纏わる③伝説(モーセ五書の著者はモーセ、イザヤは一人の預言者イザヤによる、など)を必ずしも採用せず、聖書無謬説、逐語霊感説、聖書無誤を採らない。 ④モーセ五書の記者がイスラエルの指導者である預言者モーセであるという伝統的な理解を否定し、文書仮説を支持する。 ⑤古文書学の他、考古学、史学の成果も最大限活用して古代の信仰のありようを分析し、そこから現代の課題に合わせたキリスト教信仰を再構築しようとする。
現在は閲覧する事が出来なくっていますが、ブログの中で書かれてたのは
『神様は、イエス様を罪の身代わりとしたのではなく、人間が神様から離れているのだということを知らせるためにイエス様をこの地上に送られたのです。』
『パウロは、「イエス様は、人間の罪を身代わりとして負われて十字架にかかられた」 という表現を使っていますが、これは、旧約聖書の律法を犯したときに、
その身代わりとして、動物がいけにえとしてささげられたことを用いた
表現であって、律法が与えられたユダヤ人たちに向けて、わかりやすいように表現したに過ぎません。』
『パウロは、「イエス様は、人間の罪を身代わりとして負われて十字架にかかられた」 という表現を使っていますが、これは、旧約聖書の律法を犯したときに、
その身代わりとして、動物がいけにえとしてささげられたことを用いた
表現であって、律法が与えられたユダヤ人たちに向けて、わかりやすいように表現したに過ぎません。』
『そして必然的に、聖書に書かれてあることは、すべて神の言葉である、ということに矛盾が生じてくる。』
『4つの福音書を比べてみると明らかに後から、つくり話として挿入されている箇所もあります。前後の文章から比べると、その箇所だけ明らかに不自然になっています。』
上記は、「福音書には【贖罪】という概念がなく、イエスはそれを教えていない。贖罪論を取り入れたのはパウロである。」という説を説く人々がいる。そのような観点から、本来聖書には存在しない「イエス教」と「パウロ教」という区別をする解釈であり、プロテスタントの自由主義神学において説かれている解釈である。」という言葉そのものだと思います。
「神はイエスキリストを罪の身代わりとしたのではない」という教えには、『罪びとが罪の赦しを受けることができる根拠が存在せず、救いの可能性がなくなる』こと。
そして、それは「御子の十字架の死を否定」するだけでなく、「父なる神が御子を地上に遣わしたことさえも無益なもの」とし、「使徒パウロの証をはじめ、聖書の主張全体を否定するものである。」という事が以下の検証記事によってとても良く分かると思います。