聖霊を、主イエスの様に生き生きとしたご人格を持つ方として見る
「真の異言の祈りはイエス・キリストとの霊的な交わりから溢れ出すものであり、祈りが霊の領域にあることのしるしである」という文章を読み、聖霊のバプテスマを未だ受けていない為、異言で祈れない自分が、まるで「枯れた骨」のように感じてカナンの女性のように、主の前に跪いて祈っている。
そのお蔭で、聖書上での知識は得ていると思う。
R.A.トーレーの書籍から少しずつ「聖霊」について転載していきたいと思う。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
(前略)
しかし、聖霊を聖書的に、威光と光栄に満ちたご人格として考えるなら、
もし、聖霊を影響力のように考えるなら、あなたはそれを手に入れようとし、聖霊を受けたと確信するや否や、クリスチャンとして高い地位に就いたかのように、人々に見せびらかすことになります。今日、あちこちで目にする光景です。
聖霊を、限りない威光に満ちたご人格の神として考えるなら、また私たちの心に住まわれ、私たちをご自分のものとしてくださり、私たちをみこころのままに用いてくださる方であると考えるなら、私たちは謙遜にさせられます。
これほどに、私たちを砕き、また謙遜な者とさせる偉大な聖書の真理は、ほかにありません。
聖霊について、誤解していることがあるのなら、どうぞお示しください。
聖霊の本当のお姿を知ることだけが私の望みです。アーメン
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
私を含め、多くの信仰者は「聖霊」の存在を信じ、「聖霊」に導かれて歩む事の重要性も知っていると思う。単なる影響力や力・・・とは思っていないにしても、実際は、その聖霊をリアルに、現実的に生きておられる存在として常に認識していないような気がしている。
上記の文章の中の
「どのようにしたらもっと聖霊を得ることができるのか」
と
の違いは大きい。
主語は「私」なのか、「聖霊」なのか。
どちらが主権者なのか。
聖霊は人格を持たれた、三位一体の第三位格であり、私たちの主権者であると分かる時、本当に謙遜にさせられる。
そうなった時に初めて、聖霊によって書かれた聖書を、御霊の光、導きによって読む事も出来るようになると思う。