ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

聖霊を、主イエスの様に生き生きとしたご人格を持つ方として見る


「真の異言の祈りはイエス・キリストとの霊的な交わりから溢れ出すものであり、祈りが霊の領域にあることのしるしである」という文章を読み、聖霊バプテスマを未だ受けていない為、異言で祈れない自分が、まるで「枯れた骨」のように感じてカナンの女性のように、主の前に跪いて祈っている。

聖霊バプテスマは2年前から求めていて、既に受けられている敬虔なクリスチャンの方から聖書を元に詳しく教えて頂き本当に感謝している。
そのお蔭で、聖書上での知識は得ていると思う。
信仰義認による救いが神の一方的なあわれみによるものだったように、聖霊バプテスマも神の約束であり、賜物であるので、あとは啓示を待つより他にないのかもしれない。 

.A.トーレーの書籍から少しずつ「聖霊」について転載していきたいと思う。

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(前略

聖霊を単なる影響や力であると考えるなら、「どのようにして聖霊を獲得し、用いることができるのか、どのようにしたらもっと聖霊を得ることができるのか」と絶えず思うようになるでしょう。

しかし、聖霊を聖書的に、威光と光栄に満ちたご人格として考えるなら、
「どのようにして聖霊は私を捕らえてくださり、用いてくださるのか。どのようにして聖霊は私をご自分のものとしてくださるのか」と考えるようになります。

もし、聖霊を影響力のように考えるなら、あなたはそれを手に入れようとし、聖霊を受けたと確信するや否や、クリスチャンとして高い地位に就いたかのように、人々に見せびらかすことになります。今日、あちこちで目にする光景です。

聖霊を、限りない威光に満ちたご人格の神として考えるなら、また私たちの心に住まわれ、私たちをご自分のものとしてくださり、私たちをみこころのままに用いてくださる方であると考えるなら、私たちは謙遜にさせられます。
これほどに、私たちを砕き、また謙遜な者とさせる偉大な聖書の真理は、ほかにありません。

天の父なる神様。私の目を開き、聖霊を、あなたのひとり子である主イエスと同じように生き生きと、ご人格を持つ方として見させてください。
聖霊について、誤解していることがあるのなら、どうぞお示しください。
聖霊の本当のお姿を知ることだけが私の望みです。アーメン

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私を含め、多くの信仰者は「聖霊」の存在を信じ、「聖霊」に導かれて歩む事の重要性も知っていると思う。単なる影響力や力・・・とは思っていないにしても、実際は、その聖霊をリアルに、現実的に生きておられる存在として常に認識していないような気がしている。

上記の文章の中の
「どのようにしたらもっと聖霊を得ることができるのか」
「どのようにして聖霊は私を捕らえてくださり、用いてくださるのか。どのようにして聖霊は私をご自分のものとしてくださるのか」
の違いは大きい。
主語は「私」なのか、「聖霊」なのか。
どちらが主権者なのか。

聖霊は人格を持たれた、三位一体の第三位格であり、私たちの主権者であると分かる時、本当に謙遜にさせられる。

上記の祈りにあるように、私の目を開き、聖霊を、ひとり子である主イエスさまと同じように生き生きと、ご人格を持つ方として見させてくださるように祈ります。
そうなった時に初めて、聖霊によって書かれた聖書を、御霊の光、導きによって読む事も出来るようになると思う。