ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

心に癒しと解放を グレース・トキ① 4つのプロセス

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個人的な証から始めたいと思います。私はハワイに生まれました。母は日本人です。両親が忙しかったため、私はハワイで何年も親戚の家を転々としました。子どもに最も必要な「無条件の愛」を注がれなかったために、その時から私は「自分には価値がない」と感じていました。

10代でレイプされました。父はアルコール依存症でした。寂しさや「自分には価値がない」という思いから逃れようと、私は麻薬を使いました。自分には存在意義がないと思っいました。

最初の夫はクラブに通い別の女性と関係を作りました。2番目の夫はギャンブル依存症でした。こうした状況から私はうつ病になり、過食症パニック障害も起きました。

92年、私はリンパ腺がんと診断されました。当時グアムに住んでいましたが、1年間治療でハワイに通ううちに私の会社はどんどん傾きました。医師は私に「このがんはリンパ腺から脳に転移するから、娘たちの将来の計画を立てるべきだ」と言いました。

抗がん剤治療のため体はボロボロ。どん底のなかで、イエス様にひざまづいて祈りました。「私をもう少し長生きさせて!」大荒れの心に、神さまが平安と喜びを与えてくれました。そして、がんの進行が止まり、癒されました。

エス様を受け入れた後も試練は続きました。長女の恋人は麻薬を使う男性でした。警察が彼女を家に連れ帰った時、妊娠していました。それでも彼は長女に暴力を振るいました。それは自分のレイプやがん以上のつらさでした。

さらに3回目の結婚相手とは、相手がクリスチャンだったのに正常な関係を築けませんでした。私は夫からというより神様から拒絶されたように感じました。落ち込み、うつ病になり、主に心から叫びました。「主よ、私はそんなに価値のない人間ですか?クリスチャンの結婚生活にふさわしくない人間ですか」

私には人生を変える選択が必要でした。私がすべてを神様にゆだねて、信頼するか、こんな目に遭わせた神様を忘れようとするか。私は「何があっても神様を信じる」選択をしました。その結果は、ハッピーエンドでした。長女はすばらしい男性と結婚し、4人の子どもに恵まれました。次女は私とともに心のいやしのミニストリーに参加し、ユースリーダーを務めています。 

こうした生い立ちから、私は「心のいやし」について学び始めました。そして、同じような心の重荷を負った人のために、日本やハワイでセミナーを開くようになりました。

このシリーズは、心のいやしを妨げるいくつかの問題に光を当て、「自分が何に縛られていたか」に気付いてもらうことを狙いとしています。認識することが解放への第一歩となるからです。

心のいやしには4つのプロセスがあります。

①認識 ②悔い改め ③告白 ④赦し です。

【認識】

人生の中での古い、実りのない働きに気付き、認めることは癒しの始まりです。これは古い性質を脱ぎ捨て、新しい性質を身に着ける第一歩です。

 マタイの福音書

7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 【悔い改め】

神にある悲しみは、罪の自覚、本当の悔い改めを生み出します。

Ⅱコリント 7章

:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、

:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

 【告白】

告白は私達の罪を暗闇から明るみの中に持ってくることです。

 エペソ人への手紙5章

:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。

:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。

:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。

:14 明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

私達が罪を告白すると、私達は癒されます。 

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9) 

 【赦し】

赦すことはクリスチャン生活の上で選択の余地はありません。私たちは天のお父様に赦されているので、赦さなければならないのです。赦しは、癒しをもたらします。

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:13)

 次回からは、苦い根、裁く心、赦さない心、内なる誓いなどのテ-マについて学びたいと思います。どのテーマも、解放へ至るプロセスは「認識、悔い改め、告白、赦し」です。どうぞ、実行する人になって下さい。私達の天のお父様が、何よりそれを望んでいるのですから。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28) 

 

内なる誓い

「キリストの愛を分かち合うことによって壊れた人間関係を修復し、傷ついた者の心をいやす」また、「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる」これがエリヤハウスの使命。

1974年、ジョン&ポーラ・サンフォード夫妻によって始められたエリヤハウスの働きは、世界中の教会に大きな影響を与え続けている。その働きを日本に紹介したのが、大津バプテスト教会の元宣教師、エベリン・エッガー師。その背後には、不思議な神の摂理が存在していた。

【生い立ち 日本宣教】

1930年ジョージア州に生まれる。9歳で受洗するが、明確な救いを経験したのは大学1年夏のキャンプにおいて。

1956年7月、米国南部バプテスト連盟の宣教師として来日。1週間かけて、船で太平洋を渡ってきた。2年間の語学研修の後、福岡、浦和、東京、京都各地で、伝道に携わる。

1983年、大津バプテスト教会の宣教師となる。1993年、大津市北部にある琵琶湖ローズタウンで開拓伝道を始めた頃、大津バプテスト教会ではセルグループを導入。自宅を開放しての集まりを教会の一つのセルとして、枝教会としての形を整えていった。

セルグループをやるようになって、今までの英語クラスを用いての伝道とは違うことに気付いた。「セルでは御言葉を人生に適用させようとしますよね。それで、今までとは違う、もっと深いレベルで交わったり、祈ったりするようになったのです。」と語るエベリン師は、自分がそれまで人間関係の問題から目をそむけていたことに気付く。

悔い改めて、すぐに英会話クラスを全部辞め、セルミニストリーに集中した。

1996年秋、偶然ジョン&ポーラ・サンフォード師のテープを聞く機会を持った。このとき、人を赦せない気持ちなど、心の中の隠れた罪を示されたという。

【内なる誓いからの解放、そして結婚】

1997年6月、米アイダホ州のエリヤハウスで開かれたスクールに参加したとき、エベリン師は「内なる誓い」の罪について示された。

「内なる誓い」とは、心が傷付いた時の自己防衛の手段として、「これからは絶対〇〇しない」と心の内で誓うもの。その言葉が線路のように、誓った通りの方向に自分の人生を導く。その誓いによる束縛をイエス・キリストによって断ち切るまで、人生に同じ結果をもたらし続けるというもの。

ある日の宿題として、自分の中に「内なる誓い」の存在を主に尋ねなければならなかった。その時「絶対に結婚しない」と誓ったことを「聖霊によって」示されたという。すぐに悔い改め、その「内なる誓い」による束縛を断ち切る祈りをした。それから約1時間後、40年振りに初恋の人から突然の電話がかかってきた。

 

その人の名は、ハーブ・エッガー。当時二人は、ジョージア州のユースオーケストラに所属していた。ハーブ氏は5歳年上で、エベリン師との結婚を真剣に考えていた。しかし、彼女は結婚よりも宣教師になる道を選んだ。

その後、ハーブ師は他の女性と結婚し、4人の子どもを設けた。ハーブ師の結婚生活は決して幸せではなかった。そのため、1991年に妻を亡くして以来、再婚したいという思いはなく、むしろ祈りに専念し、主のみこころを求める日々を送っていた。そんなとき、日本で宣教活動をしているエベリン師をサポートするようにとの導きを受けた。早速、南部バプテスト連盟の国際伝道局に問い合わせ、住所を教えてもらう。しかしすぐには連絡せず、それを2、3年持ち歩いていたという。

1996年の復活祭に、勇気を持って手紙を書くが、それを受け取ったエベリン師は「何で今さら」と思い、返事を出さなかった。翌年、再度手紙が届く。そのときは返事を出し、6月にエリヤハウスのカウンセリングに行きたいから祈ってほしいと伝えていた。 

絶妙なタイミングでハーブ師から電話がかかった。それが何を意味するのか。もちろん最初は、共に主に仕えるという思いだったという。しかし、主は二人の心に、お互いを愛する愛を与えられた。

エベリン師の「内なる誓い」について、後に主がさらに深い洞察を与えられた。エベリン師は生まれる前から宣教師としての召しを受けていたが、父はそれを嫌った。従って、自然と娘を拒絶するようになり、拒絶された娘は、父親を拒絶仕返した。そして「自分の人生に男性なんて要らない」という考えを持つようになった。この考えがエベリン師の人生の線路となり、若い頃ハーブ師とつきあっていたときも、結婚したいという思いにはならなかったのだという。

自分を拒絶した父親を赦し、「結婚しない」という呪いを断ち切った結果、エベリン師の人生に新しいステージが幕を開けた。1998年3月、大津バプテスト教会で、浜崎英一牧師の司式下、ハーブ師とエベリン師は結婚。40年振りの恋がここに見事に実った。

【エリヤハウスを日本に導入】

その後、夫婦そろってもう一度エリヤハウスのカウンセリングスクールで学ぶ機会を得た。1999年から各地でセミナーを始め、2001年、主がエリヤハウスを日本で始めるよう導いておられると確信して、南部バプテスト連盟の国際宣教団を正式に引退し、エリヤハウスの働きに専心することとなった。

2002年2月、大津、横浜、札幌の3カ所の教会でスクールをスタート。今年(2004)3月、牧師、牧師夫人、信徒リーダーの多数を含む205名の第一期修了生を輩出。2003年秋には、本部のエリヤハウスから正式に「エリヤハウス・ジャパン」の認定をもらい、日本における祈りのミニストリーが広がりつつある。 

リバイバルイ新聞 2004.6.13より転載

聖霊の力

 

 「私は神の幻を見た」(エゼキエル1:1)

 

「その中から四つの生きもののようなものが現れた。その姿はこうであった。彼らは人のような姿をしていた。おのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、磨かれた青銅のように輝いていた。その翼の下から人の手が四方に出ていた。その四つのものの顔と翼は次のようであった」(1:5-8)  

 

「さて、私が生きものを見ていると、見よ、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつ輪があった。それらの輪の形と作りは緑柱石のようで、四つともよく似ており、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。それらは進む時、自分の面する四つの方向に進んだ。進む時、それらは向きを変えなかった。その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。生きものが行く時には、輪もそのそばを行き、生きものが地から上がる時には、輪も上がった。霊が行くところにはどこでも、輪もついて行った」(1:15-20)

 

「彼らの頭上にある大空の上に、サファイヤのように見える御座の形をしたものがあり、その御座のようなものの上には、人のように見える姿をしたものがあった」(1:26)

 

「彼は私を宮の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が宮の敷居の下から東の方へと流れていた」(47:1)

この聖書箇所を自分で読んでいて、ケルビムを表している事は分かっていたけれど、ただ文字を読んでいるに過ぎませんでした。

けれど、スパークスの以下の文章を読んで、全く変わりました!

まずケルビムに関する文章です。 

今、「御座の行政の執行手段」と私が呼ぶものと、いのちの川の流れ、御霊の豊かさに来るにあたり、単純ですが非常に重要ないくつかの点に注意する必要があります。

ですがまず、ケルビムとして知られている存在について、一言、二言、述べることにしましょう。聖書中、ケルビムは少なくとも八回、明示的に述べられており、さらに多くの箇所で言及されています。

創世記では、彼らは園の外にいて、いのちの木への道を守っています。彼らは外側にいます。

出エジプト記では、彼らは聖所の内側にいて、安息しています。彼らはもはや外側ではなく、内側にいます。後の章で見るように、これには意味があると思います。

列王記では、彼らは立って待っています。彼らは王を待っています。

イザヤ書では(六章)、彼らは燃えさかって飛んでいます。

黙示録では(四章)、彼らは歌い、賛美しています。

エゼキエル書では、彼らは一章と一〇章で二回明示的に述べられています。彼らは見つめ、走ります。これは幻と行動です。彼らは全体の状況を見つめ、それに関して何かを行います。

彼らの力が聖霊の力であることに注意して下さい。御霊は彼らの中におられます。「生きものの霊」です。そして、御霊は「輪の中」におられます。その活力と力は、御霊の活力と力です。すべてを見わたし、見たことにしたがってすべてを行います。

ケルビムの力は聖霊の力なのです。 

エゼキエルの預言のこの一章に記されている光景をすべてご覧なさい。

活動の様子や生き生きとしている様子をご覧なさい。

豊かないのち、激しい風、音を立てる輪、多くの目、走る足、向きを変えたり進路から逸れたりすることなく、まっすぐ進み続けるひたむきさ、ひらめくいなずま、燃える炭、雲とつむじ風。これらはやむことのない活動です。これはみな何を意味するのでしょう?途方もないエネルギーを意味します。

「行う方」の「行う」という単語は、ギリシャ語の動詞エネルゲオ(energeo)です。これからエネルギー(energy)という単語が派生しました。ですから、パウロの言葉はこうなります、「みこころの御計画にしたがって、すべてのものにエネルギーを与える方」。

これは現在のことであり、この経綸のことであることを、私たちはパウロを通してはっきりと理解します。私は信じていますが、私たちが回復すべき多くのことの一つに次のことがあります。

私たちは、「神は前進しておられる」という確信、信用、信念を回復する必要があるのです。物事がどのように見える時でも、神は今もこのように前進しておられます。神は、万物を通して、万物の上で、万物の背後で、御計画を遂行しておられます。止まることなく、進路から逸れることなく、途方もないエネルギーを用いて、神はみこころの御計画にしたがってすべてのことを行っておられるのです。

外を見る時、「神はいったい何をしておられるのだろう」と怪訝に思い、神に何かをさせようとして祈ることがしばしばあります。

私たちに必要なのは、神が働いておられることを理解し、神の働きと協力することなのです。おそらく神は、私たちの願いや要求とは異なることを、私たちが考えている方法とは異なる方法で行っておられるのでしょう。

神は、私たちの方法や私たちの働きといった、私たちが当然視している方法を用いておられないのでしょう。神はそのようなしかたで来ておられないだけなのかもしれません。しかし神は、止まることなく、絶えることなく、逸れることなく、御旨を遂行しておられます。

神の民に必要なのは、永遠からの神の歩みのまっすぐな道に導かれることです。

以前、「神を体験する」という本の以下の文章を読んでいました。 

「神を体験する7つの事実」

1.神は常にあなたの周りで「働き」、「みわざ」を行っておられます。

2.神はあなたとの「愛の関係」を継続することを強く求めておられます。それは現実的で個人的な関係なのです。

3.神はあなたをご自身のみわざに参加するように「招いて」おられます。

4.神は聖霊により、聖書、祈り、身の周りの出来事、また教会を通して「語られ」ます。それは神ご自身や、神の目的、神の道を示すためです。

5.神がご自身のみわざに参加するようにあなたを招かれる時、あなたは信頼と行動が要求される「信仰の危機」に常に直面します。

6.神のみわざに参加するために、あなたの生活を大きく「修正」しなければなりません。

7.あなたが、神に「従い」、神があなたを通してご自身のみわざを完成される時、あなたは「体験」によって神を知るようになります。 

この中の

1.神は常にあなたの周りで「働き」、「みわざ」を行っておられます。

3.神はあなたをご自身のみわざに参加するように「招いて」おられます。

をいつも念頭に置いていたので、聖霊が生き生きとしている様子、豊かないのち、激しい風、音を立てる輪、多くの目、走る足、向きを変えたり進路から逸れたりすることなく、まっすぐ進み続けるひたむきさ、ひらめくいなずま、燃える炭、雲とつむじ風。これら、やむことのない活動をリアルに感じる事が出来ます。

そして、神は、万物を通して、万物の上で、万物の背後で、御計画を遂行しておられ、止まることなく、進路から逸れることなく、途方もないエネルギーを用いて、神はみこころの御計画にしたがってすべてのことを行っておられるのも分かります。

自分が考え出した何かをイエスさまの為にするのではなく、このような生き生きとした、すごいエネルギーを持って、すべての人を救うべく日夜、休むことなく働いておられる主の働きに気付いて、それに参加していく人生を送りたい。

慰め

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★今日のみ言葉★
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「慰め」 

「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」とうたった人がいました。
程度の差こそあれ、この人生、苦しいことが何もない人はいるでしょうか。
何も問題のない時には経験しないことで、患難、苦しみの中にありながら、主イエスを信じている人ほど、経験できることがあります。
何でしょうか。
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 2コリント1:3,4
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。(口語訳)
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辛いこと、悲しいこと、苦しいこと、そのただ中にある人が経験できること、それは慰めです。
その慰めは、いのちですから、苦しみを耐え抜く力となります。
辛く耐え難い苦しみの中にある時、このような慰めを経験されたことがありますか。
その慰めは、あわれみ深い父なる神、慰めに満ちた神からくるものです。
その神からの慰めを経験した人はそれで終わりません。
また、苦しい思いをしている人を慰めることができるようにされるのです。
わたしたちの信じているイエス・キリストの父なる神とは、どういう方だと思いますか。

浜崎英一

Before the Throne of God Above 天にいます神の御座の前に (直訳)

 

youtu.be

天にいます神の御座の前に

わたしには力強く、完全な懇願をして下さる方がいる

偉大な大祭司、その方の名は愛

その方は今も生きて、私のために弁護して下さる

 

わたしの名は その御手に刻まれ

わたしの名は その御心に記されている

御国には 主イエスが立っておられ わたしは知る

何も私に離れよと命じることはできないことを

何も私に離れよと命じることはできない

 

サタンが私を絶望へと誘い

私の内にある罪を示しても

私は見上げ そこにおられる主イエスを見る

その方が私の全ての罪を終わらせて下さった

 

罪のない救い主が 死んでくださったから

罪深い私の魂は 自由とされた

正義の神が良しとして下さったのは

エスの姿を見つめ 私を赦して下さったから

エスの姿を見つめ 私を赦して下さったから

 

見よ、主イエスを よみがえりの子羊を

私の全き汚れのない義なる方

変わることのない 偉大な神

栄光の王 恵みの王

 

エスご自身と一つにされ 死は滅ぼされた

私の魂は イエスの血によって贖われ

私のいのちは 高き御座にいますキリストと共に置かれている

私の救い主 私の神なるキリストと共に!

私の救い主 私の神なるキリストと共に!

 

先日、聖書の学び会で初めて聞いた賛美(きっと有名なのでしょうね。)

最近、日本語訳をスクリーンに載せて下さるようになって嬉しく思っています。

(学び会は基本英語のメッセージで日本語の通訳もあります。)

以前こちらを記事にしましたが

 この中の歌詞を写メで撮らせて頂いたのですが、よく映っていない言葉があった為

担当の方にメールで確認したところ、

「すごい、今ちょうど、この歌のことでリーダーの中でやり取りをしていたところでした」とすぐに返信が来ました。

どうやら「報い」という言葉が日本語だと「報復」と「報われる」が同じ字が使われるので、訳に戸惑ったままスクリーンに出してしまったそうで、直訳ではなく、意訳された日本語で歌える日本語歌詞に変更しようと丁度、リーダー達の間で話し合われていたところだったのです。「神さますごい」ともおっしゃっていました。

「特別先に紹介しましょう。私はとても恵まれました」

と送って頂いたのですが

曲に日本語を載せると、本来の歌詞の意味はかなり省略されてしまい、とても残念に思いました。

「独り子を失う身を焦すほどの辛い悲しみ 父は顔を背ける」

「独り子は息絶え、私に命が与えられた わたしは知らされる 終わったと」

「私には何も誇るものはない。何の才能も力も知恵も でも私はイエスキリストにあって誇る イエスの死と復活を」

の部分が日本語歌詞には入っていなかったのです・・・。

「もし日本語で歌う事が目的でなく、その意味を伝えることが目的であるなら

元の直訳のままで載せて欲しい」と伝えると

「どうしても早く日本語で意味をお知らせしたくて、乏しい訳ですが、思い切ってスクリーンに挙げたのですが、励まされます。」とおっしゃって、それ以後、直訳でスクリーンに載せて下さる事になったのでした。   

神の意図は、聖霊が「生ける水の川々」のようになることです

 

今年の1月から求めている聖霊バプテスマ。(厳密にいうと去年の1月から・・・)

オリ-ブ園クリスチャン古典ライブラリーの「聖霊バプテスマ」に関連する記事は殆ど目を通したと思っていましたが、数日前に

T. オースチン-スパークス 著 生ける水の川々

http://www.ogccl.org/book12.html

を見つけました。

その中で印象に残った事だけを抜粋します。 「いのちの川」より

ヨハネ福音書7章37-39節

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、『だれでも乾いている者は、私に来て飲むがよい。私を信じる者は、聖書が言っているように、その人から生ける水の川々が流れ出るであろう。』しかし彼はこれを、彼を信じる者たちが受けようとしている御霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ与えられていなかったからである。

 「生ける水の川々」に関連する聖書の他の箇所

また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。(創世記2:10) 

そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。(エゼキエル47:1)

この章に目を通して、この川の詳細を思い出して下さい。

そこから再びヨハネによる福音書にやって来ます。 

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14) 

最後は黙示録22章です。 

:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、

:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

 「生ける水の川」の事をヨハネは「イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」と言っているので、聖霊です。

【ご自分の民に対する神の意図】

最初に、これはご自分の民に対する神の御心であり、御心に反するものではありません。神の意図は、聖霊が「生ける水の川々」のようになることです。これが神の御心です。これ以外のことは神の御心に達しないか、御心に反するかのいずれかです。聖書はこれで始まり、これで終わります。ある意味、全聖書はこれに集約されます。神の御旨、神の御心は、生ける水の川々が意味するところのものです。すなわちこれはみな、与えることを願う神の偉大な性質を表しているのです。これを神の「気前よさ」と言うことができるでしょう。神は与えることを願う御方、その性質が与えることであり、豊かに与えることである御方として描かれています。これは信仰によってとらえるべき、神に関する単純な基本的事実です。

この中の「神の意図は、聖霊が「生ける水の川々」のようになることです。これが神の御心です。これ以外のことは神の御心に達しないか、御心に反するかのいずれかです。聖書はこれで始まり、これで終わります。」という言葉に圧倒されます。

聖霊バプテスマを受けなければ、聖霊が「生ける水の川々」のように自由に、激流と、洪水・奔流のように流れるようには働く事ができないのです。そして神の偉大な性質である「与える」働き、生き生きとしたいのちの状態、豊穣さ、新鮮さ、新しさや刷新、永続性、健康を表わすことができません。

創世記から始まって、黙示録に至るまで、聖霊の生ける水の川が貫き通されている事にも目が開かれる思いでした。それはまさに川の流れです。

個々の信者に対する神の御心は次の通りです、「だれでも乾いている者は、(中略)だれでも私を信じるなら、その人から生ける水の川々が流れ出るであろう」。ここの「だれでも」は単数形です。私たち一人一人に対する神の御旨は、私たちから生ける水の川々が流れ出ることなのです。この個人的な面は、スカルの井戸で主が女と話された会話の中にとてもはっきりと述べられています。「私が与える水は、その人の内で泉となって、永遠のいのちへとわき出るのである」。

しかし、これは教会に対する御旨でもあるのです。私たちは黙示録の最後の数章で、「通りの中央」に水が流れている都を見ます。もしこれが、まさに私たちが信じているように、教会の象徴的表示であるとするなら、教会に対して神が最後に示された幻は、この豊かな流れ、この奔流、このいのちの水の川が、教会から諸国民に向かって流れて行くことです。これを成就するために神は常に働いておられるのです。

 【要求】

さて、これはみなとても単純であり、始まり、基礎にすぎません。しかし、これは要求であり、実に非難ですらあります。これはあなたを責めないでしょうか?これは私の心を責めます。これは私に迫り、私に命じます。これは言います、「これが主の望んでおられることであり、主が備えて下さったことです。これが、ご自分の道を行く時に主がなさることです」。しかし、私はあなたに主ご自身の御言葉を示しましょう。主は「私を信じる者は誰でも」と仰せられます。これは信仰への挑戦です。あなたは、これが自分に対して可能である、と信じるでしょうか?あなた自身についてです。これは単なる一般論、美しい壮大な観念にすぎないのでしょうか?これはあなたの脇を通り過ぎているのでしょうか?これが自分に対して実現される可能性を、あなたは理解することも、考えることもできないのでしょうか?主イエスはあなたに向かって個人的に、「私を信じる者は……」とはっきりと語りかけておられます。あなたは乾きを感じておられるのでしょうか?乾いておられるのでしょうか?信仰はその状況を変えることができます。神が言われたことを信じる信仰です。これは信仰によって握るものであり、あなたが信仰によって握るべきものです。「私を信じる者は、その人から生ける水の川々が流れ出るようになる」。

さらに、先に述べたように、この要求は次のことを意味します。すなわち、もしこの要求が主の民である私たちについて個人的・団体的に満たされないなら、主の民であるという私たちの主張は根拠を欠くことになるのです。黙示録の冒頭にある、アジアの諸教会に対する主の要求や叱責の核心はこれだと思います。うぬぼれと自己満足と自己充足に陥ってしまった教会や、別の仕方で内にこもってしまった教会がありました。主の要求は、「生ける水の川々が流れ出ていない」ということを意味していたようです。主は言われます、「生ける水の川々が流れ出ていないなら、『自分たちは教会であり、神の民である』というあなたたちの主張には根拠がないことになります」。しかし、慰めと励ましがあります。神がこれをご自分の御旨として示し、これを私たちの存在意義そのものとし、御霊を与えて確かに備えをして下さった以上、これは可能です。これは可能なのです

私は信じていますが、これを新たな方法で主の民の間に回復することを主は願っておられます。しかし、私たちは常に自分たちの根拠を確信していなければなりません。「主の意図はこれなのでしょうか、主の意図・御旨がこれであることを私たちは本当に示せるのでしょうか」という一点について、私たちは確信していなければなりません。これが神の御旨であることを完全に確信できさえするなら、私は進むことができます。本当に前進することができます。そして、確信を持つべき根拠が存在します。主は限りなく「与える」神であって、ちまちまと与える神ではないこと、主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。「その人から生ける水の川々が流れ出るようになる」。これが主の願いです。どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。「国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である」と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。 

黙示録の冒頭で7つの教会の内、6つをイエスさまが叱責されるけれども、「主の要求は、『生ける水の川々が流れ出ていない』ということを意味していたのですね。

しかも、「生ける水の川々が流れ出ていないなら、『自分たちは教会であり、神の民である』というあなたたちの主張には根拠がないことになる」なんて・・・。

しかし、慰めと励ましがあり、神がこれをご自分の御旨として示し、これを私たちの存在意義そのものとし、御霊を与えて確かに備えをして下さった以上、これは可能なのですね

これを読むまで、主体が自分に向いていたけれど、主体は聖霊さまであって、私という器から生ける水の川々が流れ出るようになるのが主の願いなのだから、これが現実となるよう確信を持って信仰に留まります。 

主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられる。主はこの道を歩まれる。 

神を嫌う理由

 

  ヨハネ福音書 3章 

:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

:20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。 

【人間が神を嫌う理由】

①自分の生活を自分で支配したいから、「神の支配」を嫌う。

②罪なことを自由にやりたいので、「神の聖さ」を嫌う。

③神は全ての事を知っている。それは傲慢で不快、神に見られたくないので、「神の全知全能さ」を嫌う。

④神は不変で、決して、ご性質を変えることはない。「私達の要求通りには聞かないので神」を嫌う。 

このような、罪に支配されている状態から、信仰者に変えられるのは、奇跡でしかないと思う。