ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

忘れられない出会い

 

数年前からパストラルケアの学びを継続して行っていました。(過去形)

 

パストラルケアとは

どうしてこんな病気になってしまったのだろう?
どうして自分だけが苦しまなくてはならないの?
私は何のために生きているのだろう?
私の人生は一体何だったのだろうか?
誰かに理解して欲しい。聴いて欲しい。一緒に居て欲しい。

このようなスピリチュアルな叫び(心の痛み・苦しみ)に対してケアを行います。

 
●身体のケアは、主に医師、看護師が、
●精神的、心理的ケアは、主に心理士が
●社会的ケアは主にソーシャルワーカー
●心・霊・魂のケア(=スピリチュアルケア)は、主に臨床パストラル・カウンセラーが行います。
これらの専門家のチームによるケアが求められます。
しかし、現在の日本では、心・霊・魂のケアが行われている病院は殆どありません。
 
その専門家を育成する学びだったのですが、学ぶうちに複雑な思いになってしまいました。
私は、本当の「心と霊と魂の癒し」と「希望」はイエスさまに出会う事でしか解決できないと思っています。けれどクリスチャンではない人にそれを伝えても理解されないという理由や日本はキリスト教国ではないという理由で肝心な事を伝えません。
また指導者、教職者もキリスト教だけではなく色々な宗教の先生を招聘してしまっているのもどうなのだろうと思うようになりました。
勿論、患者さんはどのような宗教、信仰を持っていても自由なのですが、パストラルケアを行う者はクリスチャンであってほしいと私は思います。
「スピリチュアルケア」という書籍の中に、次のような一文がありました。
 
「スピリチュアルケアはもともと、それを必要とする他者にキリストを運ぶ役であり、究極的に患者をこの世から天国に入国させるための心のケアによるキュア(癒し)でもある。(スピリチュアルケア P174)」
 
もともとそれを必要とする他者にキリストを運ぶ役であり、天国に入国させるための心のケアであった。「天国に入国させる」というのはカトリック的ですが、「キリストを運ぶ役」つまり「イエスさまに出会うこと」、これが一番肝心で、本質なのに、それが付属品のように「でもある」という言葉に変えられてしまっています。
 
研修を実施するのはカトリック系の病院なので、患者さんを訪問すると大体の方は「あなたはカトリック?」「クリスチャンなの?」と質問してこられることが多かったです。
 
訪問した患者さんの中で、中学校がプロテスタント系の学校で、「国語の教師にマタイ伝を暗唱させられました。」とおっしゃる初老の女性がおられました。
 
「どんな聖句だったか覚えていらっしゃいますか?」と伺うと
 
「この故に明日のことを思ひ煩うな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の労苦は一日にて足れり」とスラスラと聖句を暗唱されました。
 
「よく覚えていらっしゃいますね。文語訳なんですね。口語訳では
『明日のために心配は無用です。明日のことは明日が心配します。(労苦はその日その日に十分あります)マタイ6:34』だったと思います。その御言葉を今も覚えておられるのは、今、力になりそうですね。」と私は言いました。
 
その後、「聖書は面白いわね。旧約聖書にはノアの箱舟やアダムとイブの話があって、ノアの箱舟の一部がアララト山に残っていたみたい。ヨブ記というのもあるわね。病気が癒されるのよね。ノアの箱舟が本当にあったのだからヨブ記も本当にあった話なのよね。聖書のことをもっと勉強したいけど、こうなってしまったから、もう無理ね。」
 
とおっしゃるので、「聖書を勉強したいという気持ちがあるのは素晴らしいですね。お近くに教会があれば牧師は喜んで聖書を教えてくれると思います。近ければ私が伺いたいくらいです。」と言いました。
 
翌日、文語訳の「この故に明日のことを思ひ煩うな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の労苦は一日にて足れり」の箇所が載ったページをコピーして届けました。
ベッドに横になりながら、聖句に目を通され、「そうそう!これこれ!」と言って、とても嬉しそうにコピーを読んでいました。その日は検査ということで、お渡ししてすぐに失礼したのですが、私が離席してもまだ読み続けておられました。
 
内心はとてもドキドキしていました。本当は聖書を手渡したかったけれど、コピーを渡すだけで精一杯でした。
この女性が退院後、教会に導かれイエスさまに出会っていますように☆
 

かしら なるキリスト

 
最近、私が思うのは、自分自身を含めてみんな「かしら なるイエスさま」に結びつくことをしないで、何かを求めて彷徨い歩いているということです。
 
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(Ⅱテモテ4:3-4)」という御言葉通りの状態です。
 
そういう私もある方が
「個人的には、私はなぜかNTライトが好きで、よく理解できていないくせに好きで、彼が書いたものを読んでいると、胸がいっぱいになって泣けてくるのです。彼の著作は非常に専門的なものから一般向けまで守備範囲が広く、私が読むのは一般向けのものばかりですが、それでも内容はものすごく深くて濃いです。それでいて、読んでいると心が奮い立たされてく るというか、なぜだか感動して泣けてくるのです。」
 
とブログで発信しているのを読んで、私も「さらに深くイエスさまの事を知って胸がいっぱいになって泣けるなら読んでみたい・・・」とNTライトに興味を持って本を2冊も購入してしまいました。
NTライト読書会というFacebookの非公開グループというのもあって参加したのですが
その中で会話されている内容が、私が求めているものと全く違う事が分かりました。
私はこの本を購入した事を今は後悔しています。
 
もう彷徨い歩くのはやめにして、「かしら なるイエスさま」にだけ繋がりたいです。 
「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」(コロサイ2:19) 
「命に至る道は狭く、それを見出して受け入れる人は少ない。その門は狭く、そこから入る者は少ない」(マタイ7:13-14)
「主は弟子たち(主の教会を代表する者たち)を「小さな群れ」と呼ばれました。御父はこの小さな群れに喜んで王国をお与えになります。(ルカ12:32)」
オースチンスパークスは言っていますが、「小さな群れ」は「かしらなるキリスト」にだけ堅く結びついている人なのでしょう。
聖書と聖霊にのみ集中して信仰生活を歩んでいきたいと思います。

キリストとその福音を退けたから裁かれる(地獄に行く)のか

 
尾山令仁先生の「死後のことについて本当のことを知りたい」を購入後、パラパラと中を見た時に目に留まったのが「福音を聞かずに死んだ人」という章でした。
 
「福音を聞かないで死んで行った人は、天国へ行くことができるのか、それとも地獄へ行ってしまうのか・・・」という疑問は、いつの時代でも多くの人達から聞かれる疑問です。
ここでよく考えてみなければならないことがあると著者は言います。
 
「人が天国へ行くか、それとも地獄へ行くかを決定するのものは、はたして福音を聞いたかどうかということなのでしょうか。また、私たちが地獄へ行くには、福音を聞いてこれを退けるという行動を取ることが必要なのでしょうか。
 
聖書の教えによりますと、私たちが地獄へ行き、そこで裁かれるのは、私たちが罪人であるからだと言うのです。
福音に接したかどうかということとは、全然関係がありません。
生まれながらにして持っている私たち自身の罪のために、私たちはだれでも皆、地獄へ行かなければならないのです。
 
それでは逆に、私たちが天国に行けるのは、どういうことによるのでしょうか。
それは、私たちの功績によるのではなく、神の恵みにより、イエス・キリストが十字架上で成し遂げてくださったあがないの御業を私のためとして受け入れるなら、当然、地獄へ行って裁かれなければならない運命にある罪人が救われ、天国へ入れていただくことができるのです。
 
つまり、私たちが福音を聞いて、それを受け入れることができたのは、神の恵みであって、決して私たちがそれをした行為なのではありません。
そうであるとすれば、福音を聞いて、それを積極的に退けるという行為をしたかどうかということが、地獄へ行くかどうかを決定するのではないことが分かります。私たちが地獄へ行くのは、生まれながら罪人だからなのであり、私たちが天国へ行けるのは、神の恵みの救いに入れていただいたからにほかなりません。」
 
上記を読んで今更ながら目から鱗でした。
伝道の際に、キリストを信じないと地獄に行くんだよというアプローチをしていたかもしれません。でもそれは誤った導き方でした。
福音を聞かずに死んで行った人は、福音を聞かなかったから地獄に行くのではなく、罪人だからなのですね。分かっていたけれど、いつしかすり替わっていた気がします。
 
そして先に救われた者には福音を聞かずに死んだ人に対して責任があるそうです。
(エゼキエル3:17-18)
『わたしはあなたをイスラエルの民に警告を与える者として立てた。あなたは、わたしの言葉を聴いたなら、わたしに代わって彼らに警告を与えなさい。わたしが罪を犯した者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、あなたが彼に警告を与えず、罪を犯した者にその道から離れて、救われるようにと語らないなら、その罪を犯した者は、自分の罪のために死ぬ。しかし、わたしは彼の死の責任をあなたにも問う。』
 
「福音を聞かずに死んでいく人たちが地獄へ行って裁かれるのは、その人自身の罪のせいです。それは、決して福音を聞かなかったから信じるチャンスがなかったなどという言い訳のできることではありません。しかし、その人が救われるためには、確かに福音を信じなければなりません。そして福音を宣べ伝えるのは、ほかでもなく、福音を知っている人、つまりクリスチャンであるはずです。その罪を犯した人が地獄へ行って、裁かれなければならないのは、その人自身が持っている罪のためであって、ほかのだれかのせいではありません。しかし、その人が滅びるようになった間接的責任は、福音を宣べ伝えなかった人にあるのです。そこで主は、その滅んで行った人の死の責任を要求すると仰せられるわけです。
ですから、私たちは福音を宣べ伝えなければなりません。福音を宣べ伝えなければ間接的な殺人を行っていることになるのです。」
 

聖化

 私たちの中に築かれている性格は、良いものであれ、悪いものであれ、いずれにしろ、キリストにあって十字架に付けられて死に、そして再び形成されなければなりません。

聖化とは、人の全人格が何か美しく輝くまで、汚れた行いの一つ一つの部分を取りのぞいていくというプロセスではありません。(以前私はそう考えていましたが)

私たち自身が完全になるというところに達するにはとうてい及ばないことですから、「わたしたちはこの宝を、土の器の中に入れている」(Ⅱコリント4:7)ことを覚えておく必要があり、このことをイエスのもとに来て受け取り、安息を得るようにならなければなりません。 

 パウロは、その働きの終盤において、彼の身に着けていた手ぬぐいを病人の上に当てると病人が回復した時期に(使徒19:12)、このように書いています。 

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15) 

これは、パウロが以前は罪人であったが、今は罪のない聖徒であるということではないのです。そうではなく成熟とは、自分が罪人のかしらであると知るに至るほど、現在の罪に対する認識が増すということなのです。

その結果、パウロは、「私はまだまだ達していない。今でもまだ自分が他の人よりもましだと思うことがあるからだ。」と言っているのです。

パウロは、まず、自分が死に値する罪を犯した者であることを知り、その後、自分の死は、罪の故に、事実であるということに気がつくに至ったのです。 

「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、-あなたがた救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)

パウロは、イエス・キリストは、単に個々の罪のために死なれたのではなく、罪そのもののために死なれたということを知りました。私たちは単に罪を犯した罪人なのではありません。

私たちのすべての存在が、罪によって犯されているということです。

ポーゴーが言ったように、「私たちは敵と出会った。敵は、ほかならぬ私たち自身であった。」ということです。 

「私は、私のうち、すなわり、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいとう願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7:18) 

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

私たち自身のこのような罪深さを悟る時に、その結果として、私たちの砕かれた心を通して神ご自身の性質が輝きだし、その栄光を現すのです。

 

 ジョン・サンフォード 内なる人の変革P14-15より抜粋 翻訳 ベネディクト恵湖

LYRE 永遠にあなたを満たすもの

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「永遠にあなたを満たすもの」    作詞・作曲 塚田 献

 

すべてのものを照らす光が 暗やみに輝いている

行くべき道も知らずにさまよう われらのいのちの光よ

 

かたく閉ざした心にも差し込んできた

いのちを贖うために

 

さがしていた どんなものも満たすことのできない心の中を

永遠に満たし続けるその愛を

尽きることも変わることもない愛が確かにあるならば

信じよう

人のいのちは輝きはじめる

 

愛する者のためにいのちを 惜しまずにささげる愛を

痛みも苦しみさえもしのんで キリストは与えようとした

 

そして十字架の上に上げられていった

ただ、あなたを愛するゆえに

 

忘れないで どんな時もそばにいて あなたの心の中を

永遠に満たし続けるその方を

尽きることも変わることもない愛は 確かにあの厩に生まれ

人のいのちを導き続ける

 

雲が覆い 陽はかげるとも

空の向こうには 輝く陽がたえずある

 

忘れないで どんな時もそばにいて あなたの名前を読んで

永遠に満たし続けるこの方を

尽きることも変わることもない愛は 確かにあなたのため死なれ

そのいのちを喜び続ける

 

喜び続ける 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2月にキリスト教書店オアシス新宿店で開催されたLYREのコンサートに行って来ました。
7枚目の賛美アルバム「LYRE2017 最後まで 」の発売を記念してのコンサートでメンバーのうちの三人がかけつけてくれました。

LYREは1983年、東京基督教大学在学中に賛美グループとして結成され、卒業する際に記念に1枚アルバムを制作したところ、それがキリスト教会で広まり7枚のCDを出すに至っています。

メンバーはそれぞれ牧師、宣教師、牧師夫人として福音(good news.gospel)を伝える働きをしています。

LYRE2017 最後まで 【いのちのことば社のオンライン通信販売サイト ゴスペルショップ(Gospel Shop)インターネット店】(1分間だけ視聴できます。)

9.ただあなただけを

11.今みもとに

12.永遠に共に

も歌詞、曲ともお勧めです。

 

現在、聖霊バプテスマを求めている私は、

「永遠に満たし続けるその愛を」「尽きることも変わることのない愛」という言葉がもっともっと分かるようにしてくださいと祈りつつ賛美しています。

 

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由③

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由② - ナルドの香油からの続きです。

「舟の右側 2017年3月号」立川福音自由教会 高橋 秀典牧師の記事から引用させて頂いています。次の文章にとても共感を覚えます。 

(引用始め)

「この小説は今回の映画化を含め、驚くべき影響力を持ってしまいました。そして、遠藤の意図を超えた形で、人々の心に、イエスに従うことの『恐怖』を植え付けるか、あるいは、信仰の上での妥協を正当化させる方向に働くことが懸念されます。 

しばしば『私だったら、すぐに転ぶでしょう』とか『家族を守るためだったら、私は躊躇なく踏絵を踏む』と断言されるようなことを聞きながら、『先走った判断をして欲しくない』と思ってしまいます。サタンは常に新しい方法を開発しますから、踏絵などを前提に自分の将来をシュミレーションすることは、かえって自由な聖霊の働きを阻害することになります。最初から信仰の妥協を正当化するところに、神の御業が働くでしょうか。」 

(引用終わり)

ノンクリスチャンがこの映画を観た時の恐怖はどんなだろうと思います。キリストを信じる事に躊躇いを感じてしまうかもしれません。

また、「私だったら、すぐに転ぶでしょう」という意見ですが、聖書には次のような記述があります。 

 ヨハネ13章 

:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「私が行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」

:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 

 

「あなたのためにはいのちも捨てる」と言っていたペテロですが、実際はイエスさまがおっしゃった通り、三度「そんな人は知らない」と言った後すぐに鶏が鳴き、ペテロは出て行って、激しく泣きました。(マタイ26:74-75)

ペテロは転びました。けれどこの時、まだイエスさまの十字架と復活の前でしたから、約束の聖霊は与えられていなかったのです。

約束の聖霊ペンテコステの日に与えられました。聖霊バプテスマを受けたペテロは大胆に福音を語り、その日三千人の人が弟子に加えられたのです。

またペテロはその後、殉教した事も分かっています。 

その他、思い浮かぶ聖句は 

ルカ12章 

:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。

:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。 

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(Ⅰペテロ4:14) 

聖霊バプテスマを受け、聖霊に満たされているなら、「私はすぐに転ぶでしょう」と言うことはないと思います。 

(引用始め)

遠藤周作は「沈黙」の中で、ある祭司たちの挫折という現実から、「神は私たちの危機的状況には沈黙しておられるように見えるが、そこでキリストご自身が共に苦しんでいてくださること自体に慰めを見出すことができる」という趣旨の解釈を示しています。しかし、そこに「復活」がなければ、ナルシズム的慰めに留まる気がします。(中略)

残念ながら遠藤はこの「復活」を文字通りのこととは認めていないようです。

少なくとも私は、この小説を読んだ当時、「どうして多くの無学な農民たちが、自分の命を犠牲にしてまで信仰を守り通すことができたのか?」という不思議に目が向きませんでした。(それは確かに描かれてはいるのですが)。彼らは、天国の幻想に導かれて、この苦しみの世界から早く逃げ出したいと思ったのでしょうか。そうではなく「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が・・・うちに住んでおられ(ローマ8:11)たからこそ、死の脅しに勝利し、主を賛美しつつ苦しみに耐えたのです。彼らの殉教こそ、主にある勝利の証しでした。それは人の目にどれだけ惨めな死に見えたとしても、主にある勝利が実現していたのです。(中略)

しばしば「殉教した人の信仰は強く、転んだ人の信仰は弱かった」という解釈がなされます。しかし、それは人間的な価値判断です。そのような見方からするなら、自分のような人間は決して信仰を全うできるとは思いません。ですから、決して、転んだ人や遠藤周作の信仰を裁く資格は私にはありません。しかし、私にとっての信仰とは、自分の心の確信によって死の恐怖を乗り越えることではなく、「創造主なる聖霊ご自身が私の内に住み、私の心を力づけ、イエスへの従順を全うさせてくださる」ことに他なりません。復活の御霊がなければ、私の信仰はあり得ません。

映画の中では、小説と違い、通訳者がロドリゴのことを評して、「彼は傲慢だから、すぐに転ぶ」という感じのことを言っていたのが、妙に心に残りました。「私は強い」と思う人ほど危ない人はいません。自分の弱さに直面することは本当に大切なことです。しかし、そこで、「だから、そのようなことは、私には無理です」と可能性を自分で閉じてしまったなら、そこにどうして聖霊の御業が現れましょう。聖霊は私たちが「どのように祈ったらよいかわからない(ローマ8:26)というような葛藤の中でこそ働かれると記されています。』

(引用終わり)

全てアーメンです。

引用させて頂いた 高橋 秀典牧師の記事は「『沈黙』をヨシュア記の視点から読む」というタイトルでした。今回ヨシュア記に関わる部分は引用していないので、ご興味のある方は「舟の右側 2017年3月号」をお読みください。

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由②

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由①(追記あり) - ナルドの香油からの続きです。

「沈黙」の本も読まず、映画も観ていないので、このような記事を書く事自体がおこがましい事であるかもしれませんが、映画の評論をいくつか目にした中で、思ったことのみ挙げてみたいと思います。

その際、「舟の右側」(2017年3月号 VOL39)に掲載されていた、立川福音自由教会牧師 髙橋 秀典さんの記事から引用させて頂きます。 

(引用はじめ)

遠藤周作のこの小説は、当時の悲惨な現実を描写しているように思われます。ローマ・カトリックの本部に、日本の管区長という重責を担っていたフェレイラ教父が1633年、長崎で「穴吊り」の拷問を受け、棄教を誓ったと報告されたのです。

彼は禁教下の日本で23年間勇敢に主に仕え、母国ポルトガルで非常に尊敬されていた高潔な人物でした。

衝撃を受けた司祭(神父)たちは、次々と日本へ潜入を企てます。その中の一人が、本小説のロドリゴという司祭です。

彼はフェレイラの棄教後10年経って会うことができたのも束の間、師と慕ったフェレイラの説得を受けて「踏絵」を踏みます。小説でも、フェレイラが「顕偽録」と称する、キリスト教信仰の偽りを顕にする書を記したことに言及されますが、そこには彼の棄教の理由が示唆されています。

それは、自分が日本の信者の信仰を助けようとすればするほど、反対に彼らを苦しめ、死に至らしめてしまうという矛盾でした。彼が身を寄せる先々の信者が、見つけ出され、殺されていきました。彼が主に仕えようとすればするほど、目の前で次々と日本人が殺されていくことになったのです。

小説でも、ロドリゴの目の前で三人の日本人信者を穴吊りの拷問に遭わせながら、彼が棄教するまで彼らを苦しめ続けると迫られます。

その際、フェレイラは信仰を全うしようとするロドリゴに向かって

「お前は彼らよりも自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。」

と迫ります。その後、ロドリゴは「最も大きな愛の行為」として踏絵を踏もうとします。

そのとき、銅板に刻まれたイエスが「踏むがいい。私はお前に踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」と語りかけたと描かれています。

ただ、これでロドリゴは自由の身になったのではありません。フェレイラと同じように仏教徒に改宗させられ、自分の信仰を否定する文章を書かされ、何度も踏絵を踏まされ、日本人の未亡人と結婚させられ、信仰者を探し出して棄教させる働きに協力させられます。」

(引用おわり)

フェレイラとロドリゴは、日本の信者の信仰を助けようとすればするほど、反対に彼らを苦しめ、死に至らしめてしまう事を憂いて棄教の道に進みます。実際、目の前で自分が棄教しない為に拷問に遭っている人を見るのはつらい事と思います。

けれどイエスさまは何とおっしゃっていたでしょうか。

弟子達が「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と質問した際のイエスさまの答えです。 

そのとき、人々は、あなたがたをくるしいめに会わせ殺します。また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。(マタイ24:9)しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイ24:13) 

予め迫害があることを予告なさっていました。迫害が無いようにするのでも、迫害から逃げるよう勧めるのでもなく、「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とおっしゃっているのです。

また、復活されたイエスさまはペテロにこのように言われました。 

「『まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所へ連れて行きます。』これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。・・・」(ヨハネ21:18-19) 

ペテロが殉教することも予め予告されていました。しかもその事によって「神の栄光を現す」とおっしゃっているのです。

その他、思い浮かぶ聖句は 

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)  

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれどもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見いだすのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」(マタイ16:24-26) 

フェレイラとロドリゴは、いのちを救おうとしましたが、まことのいのちを損じる結果になってしまったのです。

フェレイラがロドリゴにかけた言葉、

「お前は彼らよりも自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。」

この言葉はサタンの言葉のように私には思えます。

エスさまが十字架と復活を最初に予告された時にペテロはイエスさまを引き寄せて、いさめ始め、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言いましたが 

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:23) 

フェレイラがしていたのは、神のことを思わず、人のことを思っていたのです。 

 

銅板を踏むことが、イエスを否み、棄教を意味するのであれば

「銅板に刻まれたイエスが『踏むがいい。私はお前に踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ』」とイエスさまが語りかけるはずもなく、信仰を捨てさせる為のサタンの言葉なのです。    

 

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由③ - ナルドの香油