ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由③

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由② - ナルドの香油からの続きです。

「舟の右側 2017年3月号」立川福音自由教会 高橋 秀典牧師の記事から引用させて頂いています。次の文章にとても共感を覚えます。 

(引用始め)

「この小説は今回の映画化を含め、驚くべき影響力を持ってしまいました。そして、遠藤の意図を超えた形で、人々の心に、イエスに従うことの『恐怖』を植え付けるか、あるいは、信仰の上での妥協を正当化させる方向に働くことが懸念されます。 

しばしば『私だったら、すぐに転ぶでしょう』とか『家族を守るためだったら、私は躊躇なく踏絵を踏む』と断言されるようなことを聞きながら、『先走った判断をして欲しくない』と思ってしまいます。サタンは常に新しい方法を開発しますから、踏絵などを前提に自分の将来をシュミレーションすることは、かえって自由な聖霊の働きを阻害することになります。最初から信仰の妥協を正当化するところに、神の御業が働くでしょうか。」 

(引用終わり)

ノンクリスチャンがこの映画を観た時の恐怖はどんなだろうと思います。キリストを信じる事に躊躇いを感じてしまうかもしれません。

また、「私だったら、すぐに転ぶでしょう」という意見ですが、聖書には次のような記述があります。 

 ヨハネ13章 

:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「私が行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」

:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 

 

「あなたのためにはいのちも捨てる」と言っていたペテロですが、実際はイエスさまがおっしゃった通り、三度「そんな人は知らない」と言った後すぐに鶏が鳴き、ペテロは出て行って、激しく泣きました。(マタイ26:74-75)

ペテロは転びました。けれどこの時、まだイエスさまの十字架と復活の前でしたから、約束の聖霊は与えられていなかったのです。

約束の聖霊ペンテコステの日に与えられました。聖霊バプテスマを受けたペテロは大胆に福音を語り、その日三千人の人が弟子に加えられたのです。

またペテロはその後、殉教した事も分かっています。 

その他、思い浮かぶ聖句は 

ルカ12章 

:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。

:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。 

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(Ⅰペテロ4:14) 

聖霊バプテスマを受け、聖霊に満たされているなら、「私はすぐに転ぶでしょう」と言うことはないと思います。 

(引用始め)

遠藤周作は「沈黙」の中で、ある祭司たちの挫折という現実から、「神は私たちの危機的状況には沈黙しておられるように見えるが、そこでキリストご自身が共に苦しんでいてくださること自体に慰めを見出すことができる」という趣旨の解釈を示しています。しかし、そこに「復活」がなければ、ナルシズム的慰めに留まる気がします。(中略)

残念ながら遠藤はこの「復活」を文字通りのこととは認めていないようです。

少なくとも私は、この小説を読んだ当時、「どうして多くの無学な農民たちが、自分の命を犠牲にしてまで信仰を守り通すことができたのか?」という不思議に目が向きませんでした。(それは確かに描かれてはいるのですが)。彼らは、天国の幻想に導かれて、この苦しみの世界から早く逃げ出したいと思ったのでしょうか。そうではなく「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が・・・うちに住んでおられ(ローマ8:11)たからこそ、死の脅しに勝利し、主を賛美しつつ苦しみに耐えたのです。彼らの殉教こそ、主にある勝利の証しでした。それは人の目にどれだけ惨めな死に見えたとしても、主にある勝利が実現していたのです。(中略)

しばしば「殉教した人の信仰は強く、転んだ人の信仰は弱かった」という解釈がなされます。しかし、それは人間的な価値判断です。そのような見方からするなら、自分のような人間は決して信仰を全うできるとは思いません。ですから、決して、転んだ人や遠藤周作の信仰を裁く資格は私にはありません。しかし、私にとっての信仰とは、自分の心の確信によって死の恐怖を乗り越えることではなく、「創造主なる聖霊ご自身が私の内に住み、私の心を力づけ、イエスへの従順を全うさせてくださる」ことに他なりません。復活の御霊がなければ、私の信仰はあり得ません。

映画の中では、小説と違い、通訳者がロドリゴのことを評して、「彼は傲慢だから、すぐに転ぶ」という感じのことを言っていたのが、妙に心に残りました。「私は強い」と思う人ほど危ない人はいません。自分の弱さに直面することは本当に大切なことです。しかし、そこで、「だから、そのようなことは、私には無理です」と可能性を自分で閉じてしまったなら、そこにどうして聖霊の御業が現れましょう。聖霊は私たちが「どのように祈ったらよいかわからない(ローマ8:26)というような葛藤の中でこそ働かれると記されています。』

(引用終わり)

全てアーメンです。

引用させて頂いた 高橋 秀典牧師の記事は「『沈黙』をヨシュア記の視点から読む」というタイトルでした。今回ヨシュア記に関わる部分は引用していないので、ご興味のある方は「舟の右側 2017年3月号」をお読みください。