ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由②

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由①(追記あり) - ナルドの香油からの続きです。

「沈黙」の本も読まず、映画も観ていないので、このような記事を書く事自体がおこがましい事であるかもしれませんが、映画の評論をいくつか目にした中で、思ったことのみ挙げてみたいと思います。

その際、「舟の右側」(2017年3月号 VOL39)に掲載されていた、立川福音自由教会牧師 髙橋 秀典さんの記事から引用させて頂きます。 

(引用はじめ)

遠藤周作のこの小説は、当時の悲惨な現実を描写しているように思われます。ローマ・カトリックの本部に、日本の管区長という重責を担っていたフェレイラ教父が1633年、長崎で「穴吊り」の拷問を受け、棄教を誓ったと報告されたのです。

彼は禁教下の日本で23年間勇敢に主に仕え、母国ポルトガルで非常に尊敬されていた高潔な人物でした。

衝撃を受けた司祭(神父)たちは、次々と日本へ潜入を企てます。その中の一人が、本小説のロドリゴという司祭です。

彼はフェレイラの棄教後10年経って会うことができたのも束の間、師と慕ったフェレイラの説得を受けて「踏絵」を踏みます。小説でも、フェレイラが「顕偽録」と称する、キリスト教信仰の偽りを顕にする書を記したことに言及されますが、そこには彼の棄教の理由が示唆されています。

それは、自分が日本の信者の信仰を助けようとすればするほど、反対に彼らを苦しめ、死に至らしめてしまうという矛盾でした。彼が身を寄せる先々の信者が、見つけ出され、殺されていきました。彼が主に仕えようとすればするほど、目の前で次々と日本人が殺されていくことになったのです。

小説でも、ロドリゴの目の前で三人の日本人信者を穴吊りの拷問に遭わせながら、彼が棄教するまで彼らを苦しめ続けると迫られます。

その際、フェレイラは信仰を全うしようとするロドリゴに向かって

「お前は彼らよりも自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。」

と迫ります。その後、ロドリゴは「最も大きな愛の行為」として踏絵を踏もうとします。

そのとき、銅板に刻まれたイエスが「踏むがいい。私はお前に踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」と語りかけたと描かれています。

ただ、これでロドリゴは自由の身になったのではありません。フェレイラと同じように仏教徒に改宗させられ、自分の信仰を否定する文章を書かされ、何度も踏絵を踏まされ、日本人の未亡人と結婚させられ、信仰者を探し出して棄教させる働きに協力させられます。」

(引用おわり)

フェレイラとロドリゴは、日本の信者の信仰を助けようとすればするほど、反対に彼らを苦しめ、死に至らしめてしまう事を憂いて棄教の道に進みます。実際、目の前で自分が棄教しない為に拷問に遭っている人を見るのはつらい事と思います。

けれどイエスさまは何とおっしゃっていたでしょうか。

弟子達が「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と質問した際のイエスさまの答えです。 

そのとき、人々は、あなたがたをくるしいめに会わせ殺します。また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。(マタイ24:9)しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(マタイ24:13) 

予め迫害があることを予告なさっていました。迫害が無いようにするのでも、迫害から逃げるよう勧めるのでもなく、「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」とおっしゃっているのです。

また、復活されたイエスさまはペテロにこのように言われました。 

「『まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所へ連れて行きます。』これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。・・・」(ヨハネ21:18-19) 

ペテロが殉教することも予め予告されていました。しかもその事によって「神の栄光を現す」とおっしゃっているのです。

その他、思い浮かぶ聖句は 

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)  

「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれどもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見いだすのです。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』」(マタイ16:24-26) 

フェレイラとロドリゴは、いのちを救おうとしましたが、まことのいのちを損じる結果になってしまったのです。

フェレイラがロドリゴにかけた言葉、

「お前は彼らよりも自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。」

この言葉はサタンの言葉のように私には思えます。

エスさまが十字架と復活を最初に予告された時にペテロはイエスさまを引き寄せて、いさめ始め、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言いましたが 

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:23) 

フェレイラがしていたのは、神のことを思わず、人のことを思っていたのです。 

 

銅板を踏むことが、イエスを否み、棄教を意味するのであれば

「銅板に刻まれたイエスが『踏むがいい。私はお前に踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ』」とイエスさまが語りかけるはずもなく、信仰を捨てさせる為のサタンの言葉なのです。    

 

私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由③ - ナルドの香油