ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

忘れられない出会い

 

数年前からパストラルケアの学びを継続して行っていました。(過去形)

 

パストラルケアとは

どうしてこんな病気になってしまったのだろう?
どうして自分だけが苦しまなくてはならないの?
私は何のために生きているのだろう?
私の人生は一体何だったのだろうか?
誰かに理解して欲しい。聴いて欲しい。一緒に居て欲しい。

このようなスピリチュアルな叫び(心の痛み・苦しみ)に対してケアを行います。

 
●身体のケアは、主に医師、看護師が、
●精神的、心理的ケアは、主に心理士が
●社会的ケアは主にソーシャルワーカー
●心・霊・魂のケア(=スピリチュアルケア)は、主に臨床パストラル・カウンセラーが行います。
これらの専門家のチームによるケアが求められます。
しかし、現在の日本では、心・霊・魂のケアが行われている病院は殆どありません。
 
その専門家を育成する学びだったのですが、学ぶうちに複雑な思いになってしまいました。
私は、本当の「心と霊と魂の癒し」と「希望」はイエスさまに出会う事でしか解決できないと思っています。けれどクリスチャンではない人にそれを伝えても理解されないという理由や日本はキリスト教国ではないという理由で肝心な事を伝えません。
また指導者、教職者もキリスト教だけではなく色々な宗教の先生を招聘してしまっているのもどうなのだろうと思うようになりました。
勿論、患者さんはどのような宗教、信仰を持っていても自由なのですが、パストラルケアを行う者はクリスチャンであってほしいと私は思います。
「スピリチュアルケア」という書籍の中に、次のような一文がありました。
 
「スピリチュアルケアはもともと、それを必要とする他者にキリストを運ぶ役であり、究極的に患者をこの世から天国に入国させるための心のケアによるキュア(癒し)でもある。(スピリチュアルケア P174)」
 
もともとそれを必要とする他者にキリストを運ぶ役であり、天国に入国させるための心のケアであった。「天国に入国させる」というのはカトリック的ですが、「キリストを運ぶ役」つまり「イエスさまに出会うこと」、これが一番肝心で、本質なのに、それが付属品のように「でもある」という言葉に変えられてしまっています。
 
研修を実施するのはカトリック系の病院なので、患者さんを訪問すると大体の方は「あなたはカトリック?」「クリスチャンなの?」と質問してこられることが多かったです。
 
訪問した患者さんの中で、中学校がプロテスタント系の学校で、「国語の教師にマタイ伝を暗唱させられました。」とおっしゃる初老の女性がおられました。
 
「どんな聖句だったか覚えていらっしゃいますか?」と伺うと
 
「この故に明日のことを思ひ煩うな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の労苦は一日にて足れり」とスラスラと聖句を暗唱されました。
 
「よく覚えていらっしゃいますね。文語訳なんですね。口語訳では
『明日のために心配は無用です。明日のことは明日が心配します。(労苦はその日その日に十分あります)マタイ6:34』だったと思います。その御言葉を今も覚えておられるのは、今、力になりそうですね。」と私は言いました。
 
その後、「聖書は面白いわね。旧約聖書にはノアの箱舟やアダムとイブの話があって、ノアの箱舟の一部がアララト山に残っていたみたい。ヨブ記というのもあるわね。病気が癒されるのよね。ノアの箱舟が本当にあったのだからヨブ記も本当にあった話なのよね。聖書のことをもっと勉強したいけど、こうなってしまったから、もう無理ね。」
 
とおっしゃるので、「聖書を勉強したいという気持ちがあるのは素晴らしいですね。お近くに教会があれば牧師は喜んで聖書を教えてくれると思います。近ければ私が伺いたいくらいです。」と言いました。
 
翌日、文語訳の「この故に明日のことを思ひ煩うな。明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の労苦は一日にて足れり」の箇所が載ったページをコピーして届けました。
ベッドに横になりながら、聖句に目を通され、「そうそう!これこれ!」と言って、とても嬉しそうにコピーを読んでいました。その日は検査ということで、お渡ししてすぐに失礼したのですが、私が離席してもまだ読み続けておられました。
 
内心はとてもドキドキしていました。本当は聖書を手渡したかったけれど、コピーを渡すだけで精一杯でした。
この女性が退院後、教会に導かれイエスさまに出会っていますように☆