ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

なぜ? 不条理な人生の意味を問う  

「どうしてこんな病気になってしまったのでしょうか」、「何か悪いことをしたかしら」、「誰も私の気持ちなんてわかってくれない・・・」 

病院ではたましいの底から湧き出るような様々な問いかけが毎日投げかけられます。

 その答えが知りたい。ーある方は握りしめたこぶしを振り、涙ながらに語られました。

 「神さまからのメッセージがわからない」と。 

 なぜ苦しまなければならないのか。なぜこんなことになってしまうのか?

 私たちも同じ問いを心のどこかに持っているのではないでしょうか。この問いの答えを見つけるのは簡単ではありません。

 それでも人はもがきつつ自分なりの答えを求め続けるのです。わかったら生きていけるのに、わかったら楽になれるのに・・・と。 

意味や答えを見いだせたら生きていけるーその気持ちにはうなずけます。しかし、意味がみいだせないなら、私たちは生きても仕方がないのでしょうか。答えがみつからなければ生きられないのでしょうか。はたして考えることで、人生の意味を正しく見つけられるほど、私たちは賢いのでしょうか。 

<その人生を生きること>

人は、人生で味わう苦しみや困難の意味がわかるから生きるのではありません。

人生は与えられたものです。人は命とその人生を与えられ、その道を歩むようにと置かれた存在です。そして、その道には必要な備えが整えられているはずなのです。

だから、わからないと叫び、求めつつ生きるその道々で、実は”用意されていた”さまざまな助けに出会わされていくのです。それを繰り返すうちに、この道を歩くことが、

「そんなに捨てたもんじゃない」と思えることもあるでしょう。

そう考えると、まずは歩いて行くことです。その過程で、答えに出会うかもしれないからです。 

<ある患者さん>

60代の男性患者Aさんと出会いました。

初めてお会いしたとき、すでに片方の足を切断されていたAさんは、ご自分のこれまでの病気の経緯を話してくださり涙をボロボロとこぼすばかりでした。けれども、祈ることやたましいの安らぎを求めるようになり、やがてご自分が神さまの導きによって支えられていると信じていかれるようになりました。

 私がAさんとともに過ごせたのは、わずか15日間でしたが、Aさんは天に召される2日前にこのようにおっしゃいました。

「入院した頃は病気のことばかり考えていました。だんだん悪くなって苦しくなって最期を迎える・・・何度考えても、いつもそこを頭がぐるぐる回るばかりでした。でも、今はどうしても治りたいと思わなくなりました。気持ちが安らかであることが何より幸いです。」

 Aさんはこれまで何度、その苦しみの意味を問いかけてきたことでしょう。

 けれども、もう「なぜ?」と問うことをやめました。具体的な答えを見つけたというのではありませんでしたが、もうそれを問わずにすむようになりました。

 詩篇23編には「たとい死の陰の谷を歩むとも災いをおそれません。あなたが私と共におられるからです」(口語訳)とありますが、Aさんはこの箇所を

「今の私の心そのものです。」とおっしゃいました。

 Aさんの心は、問い続けてきた答えが何であろうと、今は共にいてくださる方がいるからもうそれで十分、もう問う必要がないーという思いに至りました。

 この「問わずにすむ」ということがAさんにとっての答えだったのです。

 具体的な答えを知るというよりは、その問いを超えて

「すでに答えの中に自分が置かれていること」を知らされたということです。

 自分が答えの中にあることを知るーこれは「答えが見つかったら生きていける」という発想とは逆のものです。・・・・・

 

          「わたしをいきる」  ふじい りえ