私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由①(追記あり)
昨年、半年間ほど介護福祉士実務者研修というのを受けた中で、クリスチャン女性に出会いました。彼女は大の遠藤周作ファンで、私が「沈黙」を読んだ事が無いと言うと、「プレゼント用に沢山持っているから」と文庫本をプレゼントしてくださいました。
それから「遠藤周作で読むイエスと十二弟子」という本も貸してくださったのです。
この本を読んで驚いてしまいました。
以下のような、イエスさまの復活についての記述があったからです。
「それまで知らなかった、気付かなかった、誤解していた師(イエス)を再発見したこと・・・それが彼等の出発点となる。
イエスは現実には死んだが、新しい形で彼らのなかで生きはじめたのだ。それは言いかえれば
『彼等の裡にイエスが復活したことに他ならない。』まこと復活の本質的な意味の一つはこの弟子たちのイエス再発見なのである。」
イエスさまの復活が弟子たちの裡、つまり心の中に復活したと言っていて
肉体を伴う復活を信じていなかったのです。
ですからこの本の初めから、終わりまで
聖書の解釈が聖霊による解釈ではなく、人間の知性による解釈になっていました。
例えば、
①洗礼者ヨハネの箇所で
「イエスは師を尊敬した。師もまたイエスを愛した。」と書かれています。
→二人の立場に対する理解が不足しています。バプテスマのヨハネは
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。
私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。
と言っていて、イエスさまが天から来られた神の御子であることを理解していました。
②「師である洗礼者ヨハネの説く神(神はそれらの人生をただ怒り、罰するためにだけ在る)とは別の "愛の神のイメージ” をつかんだイエスはユダの荒野を去る。
そのとき彼のまわりには、同じガリラヤ地方出身の弟子たちが従っていた。彼ら最初の弟子たちとともに、イエスは故郷にかえっていった。」
→イエスさまは「神のイメージをつかんだ」のではなく、常に御父とひとつであり、御父の御心を行っておられたのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。
わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしていられるのです。(ヨハネ14:10)
③「彼(イエス)はなぜ死のうとしたのか。それは彼が説き続けたにもかかわらず、弟子たちをはじめ誰も理解してくれなかった”神の愛”の存在を人々に信じてもらうためだった。言葉ではだめなことはガリラヤの経験で分かっていた。ならば、あとはみずからの死によって説くしかない。」
→イエスさまの十字架は弟子たちが、イエスさまが説く”神の愛”を理解できないから死ぬことによって説くためではなく、
Ⅰペテロ2章
:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者である方のもとに帰ったのです。
私たち全人類の罪を十字架上で負い、罪の赦しを受けさせ、神の子としてくださる為だったのです。
十字架と復活の啓示を受けておられない方が書かれた「沈黙」や、それを元にした映画は、キリシタン迫害時代に殉教された方の信仰を理解することは出来ないですし、そもそも神についての理解も乏しいものと思い、私は映画を観に行く気になれませんでした。
(追記)
遠藤周作さんの書籍からは聖書で言われる「復活」を文字通り信じているように感じられませんが、その事を裁くことは一切ありません。十字架も復活も三位一体なる神が分かるのも、神さまからの一方的な恵みと憐れみであって、既に受けた者が誇ることも受けていない人を裁くこともできないからです。私は遠藤周作さんや、自死する時に聖書を枕元に置いていた芥川龍之介さん、太宰治さんは自死前に塚本虎二さんが創刊された雑誌「聖書知識」を定期購読していた事が書かれている本を本屋で見かけました。塚本虎二さんは太宰治さんが入水自殺を図った後に太宰が定期購読者だった事を知り、太宰を救えなかった事を悲しいと吐露していました。イエスさまを求めておられたこの方々がイエスさまに出会っている事を願っています。
私が、映画「沈黙 サイレンス」を観に行きたくなかった理由② - ナルドの香油