「身に着けるもの」
自分が無視されたり、傷つけられたりした場合、その人を赦すことは、そう簡単ではありません。
身近な人間関係の中で、そういう経験をすることはありませんか。
赦さなければと頭で思っていても、感情的に赦せません。
心が傷付いている場合は、なお更です。
あなたは赦さないといけないよ、と言われても
出来ない自分がいます。
「もう赦した、赦した」と声を荒げることもあります。
このような人間関係の難しさを経験したことがありますか。
ところが、聖書はただ、赦す赦さないだけを問題にしていません。
それは表面的なことです。
赦すためのいのちが必要です。
いのちの表れが必要です。
それは御霊の実です。
次のみ言葉は黙想するのに、素晴らしいみ言葉です。
だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。
主もあなたがたをゆるして下さったのだから、
そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(コロサイ3:12-13 口語訳)
ここにはいくつかの御霊の実が出てきます。
憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。
これを身に着けなさい、と言われています。
どのように身に着けるのでしょうか。
このみ言葉によれば、まず自分がどのような者であるかを思い出すことです。
キリストを信じているあなたは「神に選ばれた者」です。
本当ですか。
み言葉によれば、本当です。
あなたは、神の目には、キリストにあって「聖なる者」と見られています。
信じられますか。
このみ言葉を信じれますか。
あなたはキリストにあって、「神に愛されている者」です。
こんなわたしがですか。
そうです。
神はあなたに目を留め、
あなたのことを心にかけ、
あなたのことを大切な人と見ておられます。
ですから、まずは、自分がそのような者であることを信じ、受け入れ、
その愛のうちにとどまることです。
では、現実はそのようなものではないと思える自分はどうなるのでしょうか。
主イエスを信じて救われた人たちは、
現実のどうしようもない、その自分が出てくるたびに、
その肉の自分は十字架に死んでいることを認めなければなりません。
その十字架のことがハッキリしていないと、
聖書の言っていることは現実離れしたきれいごと、理想の教えにしか思えません。
次回に続きます。
浜崎 英一 「聖書のみことばの黙想」からの転載