ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

聖化とは☆


クリスチャンになって12年になりますが、依然として私の中には罪深い性質があり、
キリストに似た者になりたいという聖化の思いがあるのにそれはかないません。
聖霊に導かれるなら、それが可能だと分かってはいますがいつも失敗に終わるのです。その原因と正しい方法が「内なる人の変革」という本に書かれていたので抜粋ですが書き出しておきます。

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もともとの出来事、すなわち現在の行動の背後にある怒りや裁きなどの「罪」と「古い性質」に潜む罪なる習慣との間には、大きな違いがあります。

【個々の罪】には赦しが必要です。(イエスご自身のみが、私たちを赦すことができる)

しかし
【罪の性質】というのは、私たちが十字架において死ぬことによってしか処理できません。(十字架において死ぬということには、私たち自身が参加しなければならない。)

内面の癒しにおいて、多くの人が赦しを求めて祈ることをしていながら、罪の性質を十字架の死につけることができていないのが分かってきました。その一方で、多くの牧師は、日々自分を十字架につけるようにと人々に呼びかけていながら、罪なる習慣が幼少期に形成されることを知らず、内なるこどもが死と再生を体験するためには、どのように祈ればよいのかもほどんど分かっていないということに気が付き始めました。
そのような働きは、まるで農夫が絶えず雑草を刈り込みながらも、根が残っているために、後から後から生えてくるようなものに思えました。
根に斧を入れるところまでしなければならないとは、誰ひとりとして理解していないようでした。根は、表面から見えないところに隠れて存在しているのです。
「個々の罪」と「罪の性質」との両方を取り扱うことによって、初めて肉的な性質の根底にある原因を変革するということを、いやしの働きをする人々も、牧師たちも、知らないようでした。
これこそが教会に大きく欠落している点であり、キリストの身体が真の聖化と変革に欠き、いつまでも成熟できずにいる一つの理由であると、私は知ったのです。

多くの人は、古いものを死に至らしめ、新しいものを据えるかわりに、古い生地につぎ当てをしているだけでした。

キリストを救い主として受け入れさえすれば、万事解決するという見方で、あらゆる罪の行いは完全に洗い清められた、ということは正しく理解していながら、良き知らせであるこの事実が心の全ての領域において完全に適用されていないということを、キリストの身体は認識できていなかったのです。
立場的に見ると、古い人は完全に死に、一切が新しく造られた者が存在している、ということは正しく信じていながら、実際には内なる人の多くの領域が、横たわって死を受け入れるどころか認識されることさえ拒否しているということを、キリストの身体は把握できていなかったのです。
そのためクリスチャンは、「私は生まれかわった。私は完全に変えられた。私は新しく造られた者。一切の過去は消え去った」と声高らかに叫びつつも、その生き方においては逆の証をしているということが多くあり、未信者に向かってイエスの福音を冒涜してしまっていたのです。

心理学者は人々を機能できる状態に回復しようとしますが、クリスチャンは人々を赦し、死と再生に導こうとします。

聖霊は私たちを改善するつもりも、段々良くしていくつもりもないのだ、ということを知らされました。そうではなく、聖霊は私たちを完全に死に至らしめた上で、新しくされるのです。また、内なる人の変革は、私たちがこの地上にいる限り、私たちの肉を完全に改革することではなく、私たちを支配する肉の力を葬り去り、私たちにイエスの義を着せるものであるとも、教えられました。
「しかし、あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また義と聖めと、贖いとになられました」(Ⅰコリント1:30)

もし天国に辿り着く前に、人が到達することのできる限りの完全な姿となり、自分の人格に自信が持てるようになるほどまで、聖霊によって肉の部分を変革されたなら、その人はやがてイエスに拠り頼むことをやめ、自分の肉に信頼を置くようになるでしょう。全体が一度に完全にされない限り、高慢によって堕落することは避けられません。イエスの継続的な救いに対する感謝の気持ちを失ってしまうでしょう。
ですから、主は私たちをいやされ、信頼と安息を与えられますが、それは私たちを守ることのできる主の力のみによるのであり、自分の人格的な強さや意志の力によって正しいことを行うことによってではないのです。
逆説的ですが、自分の肉には何の信頼も置かないで、ただ主にあって安息することによって、私たちは癒されるのです。主が変わらないお方であるから私たちの変化も永続的であるのであって、主に信頼する能力が新たにされる以外には、自分の中に何か確実なものがつくられたり、変えられたりしたからではないのです。
「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」(ピリピ3:3)

心理学ではセルフイメージを修正することで、自分に自信が持てるようにします。

キリストは私たちの肉的な自信を葬り去ることで、私たちに唯一残されたセルフイメージが「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)となるようにされるのです。

セルフイメージとは、私たち自身が建て上げ、誤って頼るようになるものです。セルフイメージは必然的に私たちを、そのイメージを守るため、またほかの人が見て褒めてくれるためという自己中心的な努力に駆り立てます。私たちはそのイメージを守り、築き上げ、建て直さなければならなくなるのです。

しかし、クリスチャンのアイデンティティーは賜物として与えられるものであり、神が私たちの内に建て上げて下さるものなので、人から見られたり、認められたりする必要も、自分の力で守っていく必要もないのです。
クリスチャンのいやしは、壊れたものを何とかもう一度使い物になるように修復するのではなく、その壊れたものによって支配されることから私たちを解放し、壊れたものは壊れたままで、その中に、またそれを通して主の義が輝くのだということに信頼できるようにするのです。

「あなたにすべての栄光を帰すように気をつけます」などとわざわざ言わなくても、自分がすでに罪の中に死んでいるということを充分に理解すれば、当然すべての栄光は主のものとなるのです。私たちは何一つ、良いことなどしません。神がすべてを成し遂げて下さるのです。

神は神に頼ることなくして私たちが自分の力で築き上げたものは壊されるかもしれませんが、人格を建て上げようとするその努力自体を止めようとはされません。むしろやってみなさいと言われます。
早い段階に一生懸命やってみればみるほど、自分には救い主が必要だということに、私たちが早く気が付くということを、神はご存知なのです。
自分の力で築き上げたものが熟し、悪臭を発するようになれば、その実と自分自身が死に、木や草、刈り株でできたものは火の中で燃やされ、その過程で知恵が与えられ、神によって新たに石や銀や金によって建て直されるのです。(Ⅰコリント3:11-15)

良いものも悪いものも、私たちの中に築き上げられた性格はすべてキリストにあって死に、再形成されなければなりません。
【聖化】とは(私が以前考えていたように)堕落した習慣を一つ一つ取り除き、やがてはその人の性質全体が美しく輝くようになる過程を意味するのではありません。
自分自身が完全な姿に造られているどころか、実は完全に堕落しているのだということを知り、イエスにあってそのことを安心して受け入れられるようになることなのです。
パウロミニストリーが終わりに近づき、その身につけている手ぬぐいをはずして病人に当てると病人が回復した頃(使徒行伝19:12)、彼はこのように記しました。
「キリストイエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(Ⅰテモテ1:15)
以前は罪人であったが、今は罪のない聖人になった、とは書かれていません。
そうではなく、パウロは成熟することによって、今も自分に罪があることをますますはっきりと知るようになり、自分が罪人のかしらであると分かったのです。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたちという願いがつつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7:18)
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)
私たちがこのように、自分が完全に堕落した存在であることを悟るとき、私たちの砕かれた心を通して主の御性質が輝き、その栄光を現すのです。

エスの十字架によって完全な死の状態から、主にあって新しく造られた者として甦らせてくださるのです。それでもまだ危険性が残ります。それは、イエスという光輝く新しい塗装の下に錆のように存在する自己の堕落した性質が、私たちが主に背を向けるやいなや、再び、自己主張しようと待ち構えていることを忘れてしまう危険性です。
私たちは結局のところ、自分がそこそこの良い人間であると思いたいのです。
「確かに悪いことも多少はしてきた。しかし、その代価はイエスによって支払われたのだから、これからは神によって本来造られたいい人になれる」と考えているのです。
けれども皆さん、そうではありません。表面の皮を剥がしたら中から良いものが出て来るのではなく、全体が堕落しているのです。ですからしなくてはならないことは、「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着る」(コロサイ3)ことです。身にまとうことによって、私たちは新しい性質を得るのです。
教会にこれまで欠けていたのは、日々キリストにあって死に、再生することでした。
この死と再生がもうすでに成し遂げられたと私たちは勝手に歌ってきましたが、本当はまだその過程が始まったばかりまのです。
救いは私たちの行いによるのではなく、神からの無償の賜物である(エペソ2:8-9)と書いた使徒が、別のところでは「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と書いています。
エスの血潮は罪を洗い清め、十字架は贖い、義とし、罪の代価を払います。
そして復活は回復をもたらし、新しい命を与えます。
しかし、私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことができるのです。
この継続的な聖化の過程が日々起こってこそ、一人一人のクリスチャンとしても、キリストのからだ全体としても、成熟した信仰の人が現れるのです。(エペソ4:16)
私たちはみな、生まれて以来、自分が受け入れることのできる自画像を築きあげようとしてきました。神のようになりたいと思っていようが、物静かで善良な人になりたいと思っていようが、力強い人や、あるいは悪人になりたいと思っていようが、全ては同じ努力であり、その目的は自分の思い通りに機能する人格構造を築き上げることなのです。
多くのクリスチャンが、今も自分では気づかないうちに、良き自画像を作り出すために、主を利用しています。祈ったり、何かをしたりするのも、すべてこの目的を達成するためなのです。しかし、それは主のご計画ではありません。
私たちが最高の自己を築き上げるようにとは、主は望んでおられません。
自分が安心して受け入れられるものを作り出そうとするその努力こをが、十字架につけられるべきものだったのです。
自分自身を建て上げようとし続けるのは、実はありのままの自分を受けれることからの逃避なのです。力強い、愛される自分というものを作り出しさえすれば、自分自身を受け入れ、隠れたところとにある腐りきった核の部分に打ち勝つことを追及することなど忘れてしまえると思うからです。
しかし、福音は単純に語ります。
もそんなことは求め続けなくてもいいのです。私たちはすでにありのままの自分、今の成長段階においての自分のままで受け入れられているのです。
主は無条件に私たちを愛しておられます。その主が、私たちを建て上げてくださるのです。
主は私たちに、自分自身をありのままの姿で、腐りきっった変えられていないままの自分として、受け入れてもらいたいと願っておられます。その上で、主の素晴らしさや正しさを、ご自分の聖霊を通して私たちの内に現したいと望んでおられるのです。

多くのクリスチャンが主にあって安息するかわりに、未だ自分を築き上げるための努力を続けているのは、まさに悲劇です。聖化とは、私たちが主にあって安心することができるようになる過程です。
聖化は日々の死と再生です。聖化は一人一人の神の子が聖霊によって導かれ、キリストの十字架を通ってのみ辿り付くことのできる成熟過程なのです。
聖化の生み出すものは、新しくされただけでなく、聖められた人です。

私たちが自分自身の義に依り頼んでいるなら、主が恵みによって主の義を現す余地がありません。しかし私たちが自分の罪を痛感し、砕かれる時、主の命が私たちの内に解放され、復活のいのちとなるのです。まことに、私たちの「力は、弱さのうちに完全に現れるから」(Ⅱコリント12:9)です。