ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

根にふれる祈り 心の傷の癒し①

私の周りには、行く先々で人々から拒絶に会う女性、ご主人のモラハラに日々苦しんでいる女性がいます。

彼女達の苦しみは計り知れません。
エスさまは介入して彼女達を助け出して下さらないのでしょうか。

彼女達は被害者のようですが、実はそのような状況に追い込まれるに至る原因となる「傷」が過去にあったと私は思っています。

ロブ・モリセット著 「根にふれる祈り」には、どのように祈って行けば良いのか、また実際にどのように癒されていったのかの証しにあふれた本です。

その序章「はじめに」は私の経験から辿り着いた結論に近い事が書かれていたので、長いですが、序章の前半を紹介したいと思います。

序章において、内容的に不足と思うところは「根を取り除く」という表現を使用していますが、それは「古い人は十字架について死んでいる」という真理を指しているのですが、その事が抜けている事、全てのミニストリーの主役は「聖霊なる神」であって、方法論ではないという事です。

次の記事では、具体的な証しを本から引用したいと思っています。

はじめに

祈りのミニストリーを受けに来られた人たちから、ミニストリーを終えた後で、たびたび尋ねられる質問への答えとして、この本を書きました。私の用いているミニストリーでは、まずその人の現在の問題を互いに分かち合っていく過程で、その根となる要因を見出すように導いてから、問題を一つひとつ掘り下げて、ともに主に祈っていきます。その結果として、その人の心の内側に起こったある意味でのはっきりとした変化を、その人自身が認識していくのを見守る、という形をとっています。
そしてたいていの場合ミニストリーを受けた人たちは、もし違う問題がまた後から出てきたら、自分でどうすればよいのかと心配になるようです。
だから、「祈りのミニストリーを受けて根の問題を祈っていった時、どんなステップを踏んでいったのですか」とよく質問されるのです。
そういう訳ですから、私はこの本を通してその質問に答えたいと思います。

現実に起きている事柄の原因が、過去にどのような根があってそうなるのかを確認していくための手助けを、実践的で、誰もが使いやすい手引書として、また、そうした事柄を掘り下げてどのように祈れば良いのかというガイドラインも載せました。

私たちは自分の問題を、とりあえず「表面的」な解決や「バンドエイドを貼る」ような処置をしてしまいがちですが、これでは深い部分までは取り扱えません。時々人からの意見で「新しいパターンと習慣に変える」または「新しい考え方をするように努める」といいのかもしれませんが、ここで勘違いしてほしくないのは、これらの助言に効力がないということではありませんが、必ずしもすべてに適応させることのできるやり方ではないということです。人との関係や新しい状況の中で担ってしまう重荷の多くは、その人の過去に傷ついたことが根としての要因となっている点に、私は注目しました。
その場合、持続していう結果を得るためには、典型的な「バンドエイド療法」によるのではなく、心の深いところまで掘り下げる必要があると思います。
ある事柄が過去の根から来ているのかどうかを見極めて、その根を認識し、さらにどのように取り扱うのか、私はこの本に書き述べていきたいと思います。

この原則を適用することによってより自由になることを経験すると、人はものごとを違う観点から見るようになってきます。私自身そのような経験をしたのです。もちろん現在のすべての問題が過去のできごとに関連しているというわけではありませんが、関連している領域においては、この本が提示している原則を適用されるとおおいに役立つことと思います。

次に述べる章の中で、過去の事柄を祈っていった結果人生が変えられたという、実際にあった話をいくつか載せています。
もしみなさんが私のような願いを持った人でしたら、他の人たちが経験した話を聞くということは、おおいに参考になるでしょうし、特にそのような話によって事実を確認できることは、そう言えると思います。いろいろな話を読んでみなさんが励まされ、本当に希望があることを知って下さるよう願っています。

さらにその希望は、私たちの自分の知識によってもたらされる変化ではなく、むしろ神ご自身がなされることであり、私たちのうちに、神はどんなことでもすることができる、ということに気付いていただければと思います特に、神とともに何かをしようとする時、どのようにすばらしいことが起きるかという事を知っていただきたいと思います。

多くの人たちが過去の事柄について祈る時、主がどうのようにその人の人生をさまざまな領域で変革されていくかを、私はここ何年にも渡って見させていただきました。すばらしいことです。その人たちは、自分と人との間において力関係が変えられていくのを見て驚いていますし、その結果、人生を新しい違った目で見始めています。持ち続けてきた難題や試練を、今までと違った方向で受け入れ、理解していきます。そしてまわりの環境さえも新しい視点から見るようになります。

人生の一つの事柄に新しい意味と目的が出てきます。はじめの段階では、できごとの背後にある「なぜ?」という問いを受け入れるようになり、それからその問いがだんだん「意味をなしてくる」ようになります。自分は過去のできごとの犠牲者であるという意識は少なくなり、人生に起こるできごとにもっと積極的に参加をするようになり、少しずつその人の将来が形づくられていきます。
まだ内面に葛藤はありますが、試みられることがそれほどひんぱんではなくなっていきます。それを重ね、ついに主に介入していただき回復されることによって、多くの人は神のみそば近くに引き寄せられ、神の愛と慈しみと恵みを深く体験していきます。それによって、人の話は他の人が同じことを経験できるように教えたり、助けたりして役立っていきます。その人生は、神がどのように人を変えていくこことができるかという、生きた証となります。
自分がかたく閉ざした弱さという領域から、祈りのミニストリーを学んでいくのです。

いやし主であるイエスに近づいて成長することによって、人は自分と同じように、他の人を主イエスに近づけていく手助けをすることができるようになるのです
過去の事柄について祈ることにどうしてこれほど効果があるのかというと、そのことが私たちの思いだけではく、心の中に架けられていた丸太のような障害物さえも取り扱うからです。そして現在の問題の要因となっている多くの「心の中のできごと」を取り扱っているからです。

心に根づいていることを掘り下げて祈った結果、変わる経験をすることは、本当に過去の傷が私たちにどれほどの影響力をもつかを示すことになります。
この経験は私たちの人生に種まきと刈り取りの法則を明確にします。
過去について祈ることによって、自分の人生に起きるできごとにどのように対応していくかは、自分の人生だけではなくまわりの人たちにも影響を及ぼすことになります。そうでないことを望みますが、過去の傷や痛みは自分ひとりの問題であることはまれなのです。それは傷を受けた者だけではなく、その周りの人たちをも悩ませる、膿んだ傷となっていきます。

ひとたびイエスが私たちの主となる時、主は一人ひとりを「ますます聖め」始めてくださいます。この継続を「聖化」といいうます。聖化は、神が私たちをもっと御子イエスの姿に似せていかれる過程です。私たちに天国にいく備えをさせるとともに、この世においても益となる者となってほしいと、神は願っておられます。
神は私たちをこのままで愛しておられますが、同時に、私たちがこの状態のままであることを、放っておけないほど、愛しておられるのです。

心の内側にある悪い部分を、根から取り除くことによって良きものをもたらしたいと思っておられます。その過程において私たちが神に用いられるならば、なんと幸いなことでしょう。それは、みなさんや私が選び取るかどうかなのですが、人が生きていくうえで、神はすべての人に、形づくられ建て上げられていく機会を与えて下さっています。その機会が、いつどのような時におとずれるかについては、心配する必要はありません。自分のできることは、ただ単に主イエスを追い求め、その歩みの中で主イエスに協力することです。

私が気付いた方法のうちの一つに、主イエスが聖化をもたらそうとする時、私の人生の中で光を照らしたいところをかき立てて、呼び覚ますものがありました。たぶんみなさんも同じことを思い出されるかもしれません。主イエスがそうする時、特にいやされてほしいと願う部分に私たちの思いが集中するようにしむけます。
たいていのそのような体験はおもしろくないし、自分からは選びませんが、そのことが過去とつながっていて、どのように認識してよいかわかってくると、この機会を自分が変わることのできるチャンスとして受け止めるようになる、ということがわかりました。
その上で言っておきたいことは、過去の傷からいやしを受けるのは大切ですが、それがすべての癒しにつながるわけでもなく、忍耐や根気や試練を通して築くことのできる人格形成にとって代わるというわけでもありません。さらに、それが困難に強く立ち向かうこと、自分を鍛錬することや祈ること、他の人に助けを求める必要がなくなることなどというわけでもありません。また、過去のまだ解決されていない事柄があるから、といって、罪深い行動や考えをしていい、という言い訳にはならないのです。
また、私たちにある現在の葛藤のすべてが、過去の事柄に関係しているのでもありません。成熟しているという証明は、どのような状況においても自分の考えと行動に責任を持っているということです。

つづく