ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

放蕩息子のたとえ☆


ティモシー・ケラー著 『 「放蕩」する神 』 をプレゼントして頂き読みました。

この本を読むまで、ルカの福音書15:1-3,11-32の放蕩息子の譬え話の箇所から思い浮かぶ事は

弟=新生してすぐのクリスチャン
兄=信仰歴が長くなったクリスチャン
で、クリスチャンなら、どちらの立場も経験するのではないかという事でした。

また、悔い改めた弟を父親が無条件で受け入れた側面に強調点が置かれ、たとえどんな過去があるにしても父なる神がいつも愛し受け入れてくださると聞いた聴衆が、感動のあまり目をうるませてしまうようなメッセージが教会では語られると思います。

ところが、もしそこでとどまるなら、私たちはこの譬えを単なる感傷的なストーリーとしてしか、捉えていないと著者は言います。

「このたとえは、『自由奔放な罪人』ではなく、聖書が教えるすべてを守り行う、敬虔で信仰深い人々に向けて語られたからです。
不道徳な部外者ではなく、むしろ道徳的な身内に強く語りかけたのです。
エスが伝えたかったのは、彼ら自身の持つ視野の狭さ、つまり、偏った、自分が正しいという姿勢と、その心のあり方が彼ら自身だけでなく、その周囲のたましいを、どれだけ蝕んでいるか、ということでした。ですから、このたとえを、単に弟タイプの罪人たちに神の無条件の愛を保証するもの、としてだけ捉えるのはまちがっています。
語りかけられた人たちは、感動の涙に酔いしれるどころか、ショックを受け、深く傷つけられ、怒り心頭に発したのです。イエスは、最初から心温まるお話ではなく、隔ての壁を粉々に打ち砕くことを目指していたのです。・・・・・(略)」

※ルカ15:1-3はこのように始まります
「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された」)
つまり、パリサイ人、律法学者に向かって語られていることを念頭に置かなければなりません。

「もちろんこのたとえは、弟の破滅的な自己中心さを明らかにしてはいますが、むしろ兄の道徳的、倫理的生活に最も非難を向けているのです。
エスが言っていることは、こうです。信仰深い、信仰深くないにかかわらず、どちらのタイプも霊的には失われているのだと。どちらの人生も、その結末は袋小路だと。そして、人間が歴史上あらゆる努力をしてきた、神とのかかわり方すべてがまちがいだったと。」

このたとえは「放蕩息子のたとえ」ではなく、「失われた二人の息子」と名付けた方が適切で、それは全2幕のお芝居のようです。
第一幕は「失われた弟」
第二幕は「失われた兄」です。


「第二幕では兄に焦点が向けられています。生真面目に父親に従っていた彼は、要するに神のおきてにも従っていたことになります。非常に冷静で、自制心を持っていたはずです。となると、ここにいる兄弟は、世間体の悪い弟に、出来の良いお兄ちゃん、ということになりますが、その二人ともが、父親に背を向けていました。
父親は、この二人に対して、自分から出て行って、愛のこもった宴会に招き入れる必要がありました。ですから、このたとえには、一人ではなく、二人の、失われた息子たちがいることになります。
しかし第二幕は考えられないような結末を迎えます。話し手のイエスは、わざと兄と父の関係に解決を与えないまま、話し終わるのです。悪い息子が父親の宴会を楽しみ、良い息子は入ろうともしないのです。女遊びにうつつを抜かしていたあの息子が救われ、日々忠実におきてを守り行っていた息子が救われない状態です。
エスが話し終えた時のことを想像すると、まるでパリサイ人達が驚きのあまり息を飲むのが聞こえるかのようです。それは、今まで、彼らが教えられてきたすべてを、根底から覆すメッセージだったからです。
二人の関係が修復されないばかりか、イエスのメッセージはさらに衝撃的でした。
なぜ兄は中に入らなかったのでしょう。
その理由が兄自身の言葉に見られるからです。
『今まで一度だってあなたに従わなかったことなどなかったじゃありませんか!』
兄は、その正しさにもかかわらず、父の愛を受け入れなかった、というのではありません。その正しさゆえでした。父と兄を隔てている壁は、兄の犯した罪ではなく、兄自身が正しいことをしてきたという自負、プライドによるものでした。
父の開いた祝宴に入ることができなかったのは、彼が何か過ちを犯したからではなく、むしろ、正しすぎたからでした。」(略)

「兄が一番欲しかったものは何でしょう。考えていくと、兄が欲しがっていたものも、結局は弟のそれと変わらないとくことが見えてきます。兄も弟と同じくらい、父親に反抗していました。兄もまた、父親自身よりも、父親の所有物が欲しかっただけなのです。弟のように、そのために遠く離れて行くかわりに、兄はとどまり、父に『一度だって従わなかったことはなかった』のです。それが、兄なりの、欲しいものを手に入れるための手段でした。言葉にはされない、彼の要求はこうでした。
『僕は今まで一度だって、あんたに従わなかったことはなかった。だから、今度は、あんたが、僕の思うとおりに動いてくれる番だ!』
兄弟二人の心は同じでした。二人とも父親の権威を拒絶し、そこから離れて自由気ままに生きることを望んでいました。二人ともそれぞれ父親を自分のいいなりにできるだろうと思われる立場に身を置いたのです。それぞれが、つまり反抗したのです。一人は誰の目にも明らかな反抗を通して、一人は、あまりにいい子になりすぎることによってです。二人とも父の心からは遠く離れ、つまり、失われていたのです。
それでは、ここでイエスは何を教えようとしていたのでしょうか。二人とも、父親自身を父親だからという理由では愛していませんでした。むしろ自分たちの自己中心的な欲求を満たすために、父親を利用していたのであって、息子として父を愛し、喜び、仕えることをしなかったのです。これは言いかえれば、私たちは誰でも、神に反抗することができるということです。その掟を破ることによってはもちろん、その掟を忠実に守り行うことを通しても、です。

罪とは何でしょう。このたとえを通してイエスは、私たちが今まで思いもしなかった、さらに深い罪の概念を示しています。たいていの場合、罪とは神のおきてに従わなかったこと、破ったことを思い起こさせますが、イエスの説明は、さらにその先を行きます。(略)
あなたはすべての道徳的規準を満たすことによって、救い主であるイエス自身を避けられます。もし、すべての道徳的規準を満たすなら、あなたは『権利』を手に入れます。それは、神があなたの祈りにこたえ、良い人生を与え、死後、天国行きの切符を与えてくれるという権利です。無償の恵みによって、すべての過ちを赦してくれる救い主など、必要ないのです。なぜなら、あなた自身が自分の救い主だからです。
これこそ、兄の心の姿勢でした。なぜ彼は、あんなにも父親に怒りを覚えたのでしょうか。それは、着物や指輪や家畜など、家の財産の使い道について、彼も意見する権利があると感じていたからです。同じように、道徳的規準をことごとく守る信仰熱心な人たちは、実際のところは神の上に立ち、神をコントロールし、いつか返してもらえるように、神に借りをつくらせようとしているのです。つまり、その道徳的な熱心さや敬虔深さにかかわらず、彼らは、結局神の権威に対抗していることになります。もしあなたが兄のように、こんなに一生懸命神に仕えて働いて従ってきたのだから、神は私を祝福し、助けるべきだと考えているとしたらどうでしょう。そうするとイエスは、あなたの助け手であり、模範であり、あるいはインスピレーションの源かもしれませんが、救い主ではありえないのです。あなたの救い主としての役割は、あなたがすでに、自分自身で担ってしまっているからです。
二人の兄弟の、ことごとく違う行動パターンですが、その底辺に流れているのは同じ動機であり目的です。二人とも、その心が追い求めるものを得るために、父親を利用していただけでした。それは、父の愛ではなく、富でした。そして二人とも、その富が自分を幸せにし、満足させるものだと信じていたのでした。
最終的に祝宴に入っていくことによって、兄は父との関係に本当の喜びを見出す機会を与えられていました。しかし、彼のかたくなまでの拒否反応は、父親の幸せが究極的な目的ではないことを示しています。父が、兄の取り分がさらに少なくなることをも顧みず、弟を再び家族として迎え入れたと知ったとき、兄はその本当の気持ちをむき出しにしました。父親を、どんな手段を使っても傷つけ、拒絶しようとしたのです。」

長くなりましたが以上が一部、抜粋です。

現在の教会は、この兄タイプがかなり多いと著者は言います。

この本を読んで、この3つの譬え話が、罪人たちを受け入れて食事をしているイエスさまに対して文句を言っているパリサイ人、律法学者に対して語られた話であることがはっきりと分かりました。そしてこの譬え話を通して、主は彼らに向かって、兄に向って言ったように、『一緒に祝宴に入ろう』と痛切に招いておられる事も分かりました。

15章は『迷い出た羊』の話と『なくなった金貨』の話とこの『失われた二人の息子』のたとえの3つですが、最初の2つはなくしたものを、どんなことをしても見つけようと探す人が登場しますが、『失われた二人の息子』には出てきません。本来、いなくなった弟を捜しに行くのは兄であることが創世記のカインとアベルの箇所から分かります。
『おまえこそ、弟の番人であるべきなのに』・・・・。

「不完全な兄を登場させることによって、イエスは本当の兄とはどんな姿なのかということを想起させようとしています。私たちには、その兄がいます。
行方不明の弟を捜しに隣の国に捜しに行くような兄でしょうか。いいえ、天高くから、この地上まで降りて捜しに来てくれた方です。私たちは、単にある程度の額を支払ってくれる保証人がいるだけで十分でしょうか。私たちの抱えている負債はあまりにも多額です。そんな私たちが神の家族として迎え入れられるためには、どんな借金でも肩代わりできる方、ついには自身のいのちさえ犠牲にするほどの方が必要なのです。」

キリストとその福音を退けたから裁かれる(地獄に行く)のか☆


尾山令仁先生の「死後のことについて本当のことを知りたい」を購入後、パラパラと中を見た時に目に留まったのが「福音を聞かずに死んだ人」という章でした。

福音を聞かないで死んで行った人は、天国へ行くことができるのか、それとも地獄へ行ってしまうのか・・・という疑問は、いつの時代でも多くの人達から聞かれる疑問です。
ここでよく考えてみなければならないことがあると著者は言います。

「人が天国へ行くか、それとも地獄へ行くかを決定するのものは、はたして福音を聞いたかどうかということなのでしょうか。また、私たちが地獄へ行くには、福音を聞いてこれを退けるという行動を取ることが必要なのでしょうか。

聖書の教えによりますと、私たちが地獄へ行き、そこで裁かれるのは、私たちが罪人であるからだと言うのです。
福音に接したかどうかということとは、全然関係がありません。
生まれながらにして持っている私たち自身の罪のために、私たちはだれでも皆、地獄へ行かなければならないのです。

それでは逆に、私たちが天国に行けるのは、どういうことによるのでしょうか。
それは、私たちの功績によるのではなく、神の恵みにより、イエス・キリストが十字架上で成し遂げてくださったあがないの御業を私のためとして受け入れるなら、当然、地獄へ行って裁かれなければならない運命にある罪人が救われ、天国へ入れていただくことができるのです。

つまり、私たちが福音を聞いて、それを受け入れることができたのは、神の恵みであって、決して私たちがそれをした行為なのではありません。そうであるとすれば、福音を聞いて、それを積極的に退けるという行為をしたかどうかということが、地獄へ行くかどうかを決定するのではないことが分かります。
私たちが地獄へ行くのは、生まれながら罪人だからなのであり、私たちが天国へ行けるのは、神の恵みの救いに入れていただいたからにほかなりません。」

上記を読んで目から鱗でした。今までは天国に行くか地獄に行くかはキリストの福音を受け入れるか、受け入れないかの2択しかないという概念でした。(結果的にはそうなのかもしれませんが・・・)
伝道の際にもキリストを信じないと地獄に行くんだよというアプローチをしていたかもしれません。でもそれは誤った導き方でした。
福音を聞かずに死んで行った人は、福音を聞かなかったから地獄に行くのではなく、罪人だからなのですね。

そして先に救われた者には福音を聞かずに死んだ人に対して責任があるそうです。
(エゼキエル3:17-18)
『わたしはあなたをイスラエルの民に警告を与える者として立てた。あなたは、わたしの言葉を聴いたなら、わたしに代わって彼らに警告を与えなさい。わたしが罪を犯した者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、あなたが彼に警告を与えず、罪を犯した者にその道から離れて、救われるようにと語らないなら、その罪を犯した者は、自分の罪のために死ぬ。しかし、わたしは彼の死の責任をあなたにも問う。』

「福音を聞かずに死んでいく人たちが地獄へ行って裁かれるには、その人自身の罪のせいです。それは、決して福音を聞かなかったから信じるチャンスがなかったなどという言い訳のできることではありません。しかし、その人が救われるためには、確かに福音を信じなければなりません。そして福音を宣べ伝えるのは、ほかでもなく、福音を知っている人、つまりクリスチャンであるはずです。その罪を犯した人が地獄へ行って、裁かれなければならないのは、その人自身が持っている罪のためであって。ほかのだれかのせいではありません。しかし、その人が滅びるようになった間接的責任は、福音を宣べ伝えなかった人にあるのです。そこで主は、その滅んで行った人の死の責任を要求すると仰せられるわけです。
ですから、私たちは福音を宣べ伝えなければなりません。福音を宣べ伝えなければ間接的な殺人を行っていることになるのです。」


自己実現からの解放☆


この世の人達は、自分を造られた創造主なる神を知らないので、自己実現を目指して生きていると思います。クリスチャンであっても、主の為・・・と言いながら、実は自分の自己実現の為に生きている人もいます。私もその一人でした。
今日読んだブログに次のように書かれていて目から鱗だったので覚書の為に残させて頂きます。
「どこかに泉が湧くように」

「きょう、惠泉塾の朝のデボーションで、水谷惠信先生がある家庭集会でなさった「私たちの本当の姿」という伝道メッセージをテープで聴きました。水谷先生の伝道メッセージの焦点は、十字架による罪の赦しにはなく(というより、罪の赦しは、すべての人に与えられた恵みの事実として、信じて受け取るべき神に喜ばれる生き方の前提としてあり)、人間が欲望から解放されて(あるいは自己を中心にしたセルフイメージを追求する空しさと不毛から解放されて)、神様の創造目的である愛に生きるために、キリストの生涯が模範として示されます。それが先生が学校の教師として、また牧師として関わって来た様々な生活の現実に即して、きわめて具体的な現代批判として、またご自身の献身や惠泉塾の証しとして語られるので、キリストを信じて生きるということが、強い説得力と魅力をもって聴衆に迫ります。結論は、奪うだけの欲望に支配された生き方から蝋燭のように自分はちびて周囲を照らす愛へと生き方の方向を変えて、キリストにあって互いに愛し合って生きる共同体に加わろうというものです。そして、そのメッセージの背後には、この時代にそのように生きようと生活実践している信仰共同体があります。」

自己実現とは人間の欲望であり、私はずっとセルフイメージが低い為ににそれに憂えたり、セルフイメージを高める為に何かを行っていましたが、結局いつまで経っても、そこから解放される事はありませんでした。その事を空しさと不毛と言っていますがまさにその通りでした。
クリスチャンは欲望である自己実現やセルフイメージを追及する空しさと不毛から解放され、神さまの創造の目的である「愛に生きる」人生に変えられるのだとあらためて気付かされました。



イエスは主の「主」って?

(過去記事の再投稿です)


 
救われてすぐは、イエスさまの事を「主よ」と祈りながら、

なんで「主」と呼ぶのか良く分からなかった。
 
でもエホバの証人の方達と話したり、自分で聖書の事を調べたりしているうちに
 
「主」という言葉の中に含まれている大切な意味をより理解できるようになった。
 
 
 
紀元前333年、アレキサンダー大王が中東を征服した際に、そこに住む人達にギリシャ文化と言語を強要したそうです。
 
紀元前280年~紀元前130年の間、ギリシャ語を話すユダヤ教の学者は旧約聖書ギリシャ語に翻訳しました。これがセプトゥアギンタ(七十人訳)というものです。
新約聖書はこのセプトゥアギンタ(七十人訳)から引用されています。
 
旧約聖書ギリシャ語に翻訳された時期に、ユダヤ人達はYHVH(テトラグラマトン,
神の御名を表す4文字語)の御名を語るのをやめました。YHVHの代わりに「アドナイ」(ヘブル語)という言葉が使われ始め、それは「主」の複数形だそうです。セプトゥアギンタ(七十人訳)では、YHVHの御名は「キュリオス」(ギリシャ語)と翻訳され、それもまた「主」という意味です。
 
エスさまのいた時代には、YHVHは使われなくなり、アドナイとキュリオスのみ使われました。セプトゥアギンタ(七十人訳)と新約聖書でのYHVHの箇所は全てキュリオスと翻訳され、キュリオスはアドナイとYHVHを意味するのです
 
驚く事に、新約聖書ではエスはキュリオス(主)としています。
 
 
「なぜなら、もしあなたの口でエスを主(キュリオス)と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
 
 
これは主と呼ぶ以上のもので、エス=キュリオス、アドナイなのです。
 
エスであると宣言するという事なのです!!
 
当時、父なる神だけを信じていた一神教だったユダヤ人達がイエスを主であると告白することが、どんなにすごい事であり、ユダヤ教の人達から迫害された所以がよく分かります・・・。
 
 
続く、「主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。」(ローマ10:13)
 
の「主の名」とは、もちろん「イエスの御名」の事で
    イエスの名を呼び求める者はだれでも救われるのです。
 
なぜなら
 
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
 
だからです。
 
ところが、エホバの証人の新世界訳聖書では
 
エホバの名を呼び求める者はみな救われるのです」(ローマ10:13)とギリシャ語原文ではキュリオスになっている所をエホバに変えてしまっています。これは改ざんであり、文脈を無視し、イエス・キリストの神性を削ぐ意図があります。(全部で237箇所をエホバに変えています。)
 
聖書をよく読めば、信じた人達が誰の名を呼び、宣べ伝え、あがめているかが分かります。
 
「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちのイエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々とともに~」(Ⅰコリント1:2)
 
「また彼(サウロ)がダマスコでエスの御名を大胆に宣べた」(使徒9:27)
 
「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシャ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。」(使徒19:17)
 
「しかし主はこう言われた。『行きなさい。あの人は私の名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」(使徒9:15)
 
他にも使徒21:13ではパウロが「主イエスの御名のためなら、エルサレムに縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えており、
 
使徒15:26でも「このバルナバパウロは、私たちのイエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。」とも書いてあります。
 
このように、使徒達はエホバの御名ではなく、であるエスの御名を命がけで宣べ伝え,あがめていたのです。
 

秩序と権威とその価値☆

エホバの証人の方と対話していると、
「父は私よりも偉大です」(ヨハネ14:28)
とか
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか、尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」(ルカ18:19)
とか、御子は父に遣わされたのだから、父の方が偉い。だから神は父なる神お一人であって、キリストは神ではないというような話になってしまいます。
これについてうまく説明できないでいたのですが、
『地の果てまで福音を』というブログで「なぜかぶり物? 理由その1創造の秩序の記事の中に参考になる文章があったので抜粋して載せさせて頂きます。」

神は男性と女性を、その価値や重要性において同等につくられました。
私たちはお互いを必要としており、また、聖書が言うように「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。」(Ⅰコリント11:11

しかし、私たちが平等であるからといって、同じ役割、権威もしくは機能をもっているわけではありません。

こういった相違は、被造物や、御使いたち、もしくは神ご自身のうちにおいても見られます。

三位一体の教えというのは、唯一の神がおられ、その神は三つの異なったペルソナ(位格⇒人格)において啓示されています。その三位格とは、御父、御子、聖霊です。

この三位格は、完全に神であり、完全に同等ですが、機能、権威、位格においては異なっています。

「しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」(Ⅰコリント11:3)の聖句に、「キリストのかしらは神です。」とあります。

「イエスの、御父に対する服従は、受肉時に限られていた」と主張している人々もいますが、そうではありません。

Ⅰコリント15章で、御国の完成のことが言及されていますが、聖書は次のように言っています。

「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです(Ⅰコリント15:28)」

エスはその価値において御父に劣ることはありません。

聖霊もまた・・・聖霊の役割は、ご自身について語ることではなく、御子の栄光を現すことでありましたが(ヨハネ16:13)・・・その価値においてイエスに劣ることはありません。

異なる役割というのは、価値の優劣や重要性の大小を意味するわけではありません。この点はいくら強調してもしすぎることがないと言えます。

警察官はあなたに対して、神より与えられし権威がありますか?(ローマ13:1)そうですよね。

では、その警察官は人間としてあなたよりすぐれた価値があるのでしょうか?いいえ!

子ども達は両親に従い(エペソ6:1),奴隷は主人に従い、(エペソ6:5)、
妻は夫に従い(エペソ5:22)、市民は政府に従い(ローマ13:1)、教会は長老たちに従い(ヘブル13:17),イエスは神に従います(Ⅰコリント11:3)

私たちは権威のことを怖がる必要はありません。

ひどい親、残忍な主人、男性優越主義の夫、権力に陶酔した牧師、そして邪悪な政府。。。。こういったものは世の終わりまで存在し続けるでしょう。

しかしこれはあくまで、罪ゆえに生じたものであり、権威自体が悪だからなのではありません。私たちの模範例としては、ですから、三位一体の神を見ていこうではありませんか。






罪を罪と感じないこと☆

三浦綾子さんの「光あるうちに」の中に
 
最大の罪とは、「罪を罪と感じ得ないこと」 とあった。
 
それは人が「自分の罪を計る物指し📐」と「人の罪を計る物指し📐」と2つ持っているからで、人には厳しく自分には甘いので、自分の罪には気付きにくいというものだ。
この自分に都合のよい計りが自己中心のあらわれであり、罪の元である。
 
例えば、子どもが花瓶を割ったら酷く叱るのに、自分が割ったらちょっと舌を出した程度で、自分の過失は赦し、子どもを叱る時のようには自分を叱らない。
 
ある人が車で子どもをひいてしまった。急に飛び出して来た方が悪い、子どもをよく躾けていなかった親が悪いと言っていた。
ところがその後、自分の子どもが車にひかれて死んだ。
その人は半狂乱になり、「こんな小さな子どもをひき殺すなんて」と運転手に食ってかかり殴りつけた。
自分が子どもをひいた時は相手の親が悪く、自分の子がひかれた時は、ひいた運転手が悪い。
 
三浦綾子はこの人を笑うことはできないと言っている。
これは私達人間の赤裸々な姿で、私達は自分の罪が分からないということでは、この人と同じであると言っている。
 
「自分に都合の良い計りを持っている」 これが自己中心のあらわれであり、罪の元である。
自己中心な人間は、自分の考えに拍手喝采してくれないものを憎む。
自分が悪口を言う時に、共に悪口を言わぬ相手を嫌う。
自分が怠ける時、共に怠けない友を疎む。
酒を飲む人間は飲まぬ人間を軽蔑する。
つまり自分の共犯者でない者は嫌いなのだ。
考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、
正しく聖い存在は誰か。
それは神である。
だから自己中心であればあるほど、神を嫌う。
神を見ようとはしない。神を無視してやまない。
「神のほうを見ない」これが原罪である。
 
その他、泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか?
牧師は説教の中で「悪口の方が罪深い」と言った。
大事にしているネックレスが盗まれたとしても
「高価なものだったのに惜しいことをした」という痛み程度にとどまる。
泥棒に入られた為に自殺した話はあまり聞かない。
だが人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年少女の話は時折聞く。
 
私達の何気なく言う悪口は、人を死に追いやることもある悪の力だ。
泥棒などのような単純な罪とは違う。
もっと泥々した黒い罪だ。
人を悪く言う心の中にとぐろを巻いているのは何か?
敵意、妬み、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが、
悪口、陰口となってあらわれるのだ、
この世に悪口を言ったことのない者は無いに違いない。
それほど私達は一人残らず罪深い人間なのだ。
にもかかわらず、私達はその罪の深さに胸を痛めることは甚だ少ない。
「罪を罪と感じないことが罪だ」と書いた。
こう書きながら、わたしは、私の罪に対する感覚の鈍さに慄然としてくるのである。
三浦綾子さんは書いている。
 
見事な表現で驚いた。
覚書のつもりでこちらに残しておこうと思う。

エホバの証人という名前の由来☆

 
エホバの証人という名前の由来を知りました。
 
『1919年以降、ラザフォードは自分の追随者である「聖書研究者」とラッセルを受け継いではいるが、必ずしもラザフォードに従わない「聖書研究者」達とを区別する必要があった。
 
1921年7月のオハイオ州コロンブスでの全国大会で、
彼は自分達の宗教を「エホバの証人」という新しい名前で呼ぶことを発表した。
 
これはイザヤ書43:12「あなた方は私の証人である」から取られた。
 
彼はイザヤ62:2を引用し、『神の民は「新しい名前」を与えられると書いてある』ことを
根拠とした。
 
ところがイザヤ書をもう2節読み進むと、
その新しい名前は「エホバの証人」ではなく、
「私の喜びは彼女にある」であり、
ラザフォードのつけた名前は彼が引用した聖句には基づいていないのである。
しかし、この新たな宗教の名前も多数の信者の意気を高揚させるのに役立った。』
 
たまたまイザヤ書43章の御言葉について、エホバの証人の方と話していたので、
上記の内容を説明しました。
ところが返って来た返答は以下のようなものでした。
 
イザヤ書 は「ユダ王国がエホバから離れた結果、バビロニア帝国に滅ぼされることを予告しただけでなく、その後悔い改めた民はバビロニア捕囚からエホバの導きにより帰還し、エルサレムで清い崇拝が回復される」ことも預言している書なんですね。そして、それが終わりの日に起きることのひな型になっていることや、メシアに関する預言、更に千年統治の預言も含まれている壮大なスケールの書であることはMIKUさんは熟知されていることと思います。

この62章に、エルサレム(シオン)についての描写が「女」とか「妻として所有される」とかありますよね。これは神との契約関係を夫と妻になぞらえる聖書表現であることなのは、きっと存知だと思います。

神との契約関係にありながら神から離れ、それにより荒廃を被った民の以前の悲惨な霊的状態と比べるなら、帰還した民の霊的状態はなんと対照的なんでしょうね!悔い改めたシオンに神に祝福された素晴らしい霊的状態があることを4節で比喩的に表しています。

アブラムがアブラハムヤコブイスラエルに名が変わった(新しい名という表現がそのまま使われている啓示2:17や3:12などもありますよね)、新しい名についての聖書の様々な記述を比較考慮した時、「新しい名 」は新しい立場や特権を意味している場合もありますよね。

古代エルサレムの崇拝の復興の預言を、
現代の崇拝においても適用している聖句   だと私は理解しています。MIKUさんは異議が勿論おありだと思います。

エホバの証人という名称はイザヤ62章2節の新しい名ではないと私は理解しています。新しい名ではなく、その聖句が意味している新しい関係性だと私は理解しているのですが。うまく表現できなくて、ごめんなさい!ラザフォード兄弟はラッセル派と袂を分かつ為に…に関しても今度お伝えさせて下さい!』
 
イザヤ書の書かれた背景や62章2節の聖書解釈などで煙に巻かれそうになっていますが、肝心な事は当時ラザフォードが『エホバの証人』という名前に変更するために、イザヤ62:2を自分の都合のいいように利用した事です。
 
そもそも創始者ラッセルもマタイ24:45「主人から、その家のしもべ達を任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべ」は自分であると言っています。この食事というのは霊的な食物、つまり聖書の説き明かしができるのは自分しかいないと言っているのです。
この前後の文脈を読めば、「目をさましていなさい」という事を言う為の譬え話だということが分かるのですが、エホバの証人の信者の方は騙されてしまっているのです。
 
いくら議論しても無駄な事は重々承知しています。
聖霊がその方に働いて、目から鱗が落ちて真理を知ることができますように。