ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

神の意図は、聖霊が「生ける水の川々」のようになることです

 

今年の1月から求めている聖霊バプテスマ。(厳密にいうと去年の1月から・・・)

オリ-ブ園クリスチャン古典ライブラリーの「聖霊バプテスマ」に関連する記事は殆ど目を通したと思っていましたが、数日前に

T. オースチン-スパークス 著 生ける水の川々

http://www.ogccl.org/book12.html

を見つけました。

その中で印象に残った事だけを抜粋します。 「いのちの川」より

ヨハネ福音書7章37-39節

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、『だれでも乾いている者は、私に来て飲むがよい。私を信じる者は、聖書が言っているように、その人から生ける水の川々が流れ出るであろう。』しかし彼はこれを、彼を信じる者たちが受けようとしている御霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ与えられていなかったからである。

 「生ける水の川々」に関連する聖書の他の箇所

また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。(創世記2:10) 

そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。(エゼキエル47:1)

この章に目を通して、この川の詳細を思い出して下さい。

そこから再びヨハネによる福音書にやって来ます。 

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14) 

最後は黙示録22章です。 

:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、

:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

 「生ける水の川」の事をヨハネは「イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」と言っているので、聖霊です。

【ご自分の民に対する神の意図】

最初に、これはご自分の民に対する神の御心であり、御心に反するものではありません。神の意図は、聖霊が「生ける水の川々」のようになることです。これが神の御心です。これ以外のことは神の御心に達しないか、御心に反するかのいずれかです。聖書はこれで始まり、これで終わります。ある意味、全聖書はこれに集約されます。神の御旨、神の御心は、生ける水の川々が意味するところのものです。すなわちこれはみな、与えることを願う神の偉大な性質を表しているのです。これを神の「気前よさ」と言うことができるでしょう。神は与えることを願う御方、その性質が与えることであり、豊かに与えることである御方として描かれています。これは信仰によってとらえるべき、神に関する単純な基本的事実です。

この中の「神の意図は、聖霊が「生ける水の川々」のようになることです。これが神の御心です。これ以外のことは神の御心に達しないか、御心に反するかのいずれかです。聖書はこれで始まり、これで終わります。」という言葉に圧倒されます。

聖霊バプテスマを受けなければ、聖霊が「生ける水の川々」のように自由に、激流と、洪水・奔流のように流れるようには働く事ができないのです。そして神の偉大な性質である「与える」働き、生き生きとしたいのちの状態、豊穣さ、新鮮さ、新しさや刷新、永続性、健康を表わすことができません。

創世記から始まって、黙示録に至るまで、聖霊の生ける水の川が貫き通されている事にも目が開かれる思いでした。それはまさに川の流れです。

個々の信者に対する神の御心は次の通りです、「だれでも乾いている者は、(中略)だれでも私を信じるなら、その人から生ける水の川々が流れ出るであろう」。ここの「だれでも」は単数形です。私たち一人一人に対する神の御旨は、私たちから生ける水の川々が流れ出ることなのです。この個人的な面は、スカルの井戸で主が女と話された会話の中にとてもはっきりと述べられています。「私が与える水は、その人の内で泉となって、永遠のいのちへとわき出るのである」。

しかし、これは教会に対する御旨でもあるのです。私たちは黙示録の最後の数章で、「通りの中央」に水が流れている都を見ます。もしこれが、まさに私たちが信じているように、教会の象徴的表示であるとするなら、教会に対して神が最後に示された幻は、この豊かな流れ、この奔流、このいのちの水の川が、教会から諸国民に向かって流れて行くことです。これを成就するために神は常に働いておられるのです。

 【要求】

さて、これはみなとても単純であり、始まり、基礎にすぎません。しかし、これは要求であり、実に非難ですらあります。これはあなたを責めないでしょうか?これは私の心を責めます。これは私に迫り、私に命じます。これは言います、「これが主の望んでおられることであり、主が備えて下さったことです。これが、ご自分の道を行く時に主がなさることです」。しかし、私はあなたに主ご自身の御言葉を示しましょう。主は「私を信じる者は誰でも」と仰せられます。これは信仰への挑戦です。あなたは、これが自分に対して可能である、と信じるでしょうか?あなた自身についてです。これは単なる一般論、美しい壮大な観念にすぎないのでしょうか?これはあなたの脇を通り過ぎているのでしょうか?これが自分に対して実現される可能性を、あなたは理解することも、考えることもできないのでしょうか?主イエスはあなたに向かって個人的に、「私を信じる者は……」とはっきりと語りかけておられます。あなたは乾きを感じておられるのでしょうか?乾いておられるのでしょうか?信仰はその状況を変えることができます。神が言われたことを信じる信仰です。これは信仰によって握るものであり、あなたが信仰によって握るべきものです。「私を信じる者は、その人から生ける水の川々が流れ出るようになる」。

さらに、先に述べたように、この要求は次のことを意味します。すなわち、もしこの要求が主の民である私たちについて個人的・団体的に満たされないなら、主の民であるという私たちの主張は根拠を欠くことになるのです。黙示録の冒頭にある、アジアの諸教会に対する主の要求や叱責の核心はこれだと思います。うぬぼれと自己満足と自己充足に陥ってしまった教会や、別の仕方で内にこもってしまった教会がありました。主の要求は、「生ける水の川々が流れ出ていない」ということを意味していたようです。主は言われます、「生ける水の川々が流れ出ていないなら、『自分たちは教会であり、神の民である』というあなたたちの主張には根拠がないことになります」。しかし、慰めと励ましがあります。神がこれをご自分の御旨として示し、これを私たちの存在意義そのものとし、御霊を与えて確かに備えをして下さった以上、これは可能です。これは可能なのです

私は信じていますが、これを新たな方法で主の民の間に回復することを主は願っておられます。しかし、私たちは常に自分たちの根拠を確信していなければなりません。「主の意図はこれなのでしょうか、主の意図・御旨がこれであることを私たちは本当に示せるのでしょうか」という一点について、私たちは確信していなければなりません。これが神の御旨であることを完全に確信できさえするなら、私は進むことができます。本当に前進することができます。そして、確信を持つべき根拠が存在します。主は限りなく「与える」神であって、ちまちまと与える神ではないこと、主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。「その人から生ける水の川々が流れ出るようになる」。これが主の願いです。どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。「国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である」と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。 

黙示録の冒頭で7つの教会の内、6つをイエスさまが叱責されるけれども、「主の要求は、『生ける水の川々が流れ出ていない』ということを意味していたのですね。

しかも、「生ける水の川々が流れ出ていないなら、『自分たちは教会であり、神の民である』というあなたたちの主張には根拠がないことになる」なんて・・・。

しかし、慰めと励ましがあり、神がこれをご自分の御旨として示し、これを私たちの存在意義そのものとし、御霊を与えて確かに備えをして下さった以上、これは可能なのですね

これを読むまで、主体が自分に向いていたけれど、主体は聖霊さまであって、私という器から生ける水の川々が流れ出るようになるのが主の願いなのだから、これが現実となるよう確信を持って信仰に留まります。 

主は私たちを通してご自身を注ぎ出すことを願っておられる。主はこの道を歩まれる。