ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

命を得るから

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★今日のみ言葉★
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「命を得るから」

どちらかと言えば、忙しくバタバタとしている人の方が賞賛される時代です。
何もしないで主を待つ人、その人は人に理解してもらうことは難しいでしょう。
主を待ち望む人は何を得るのでしょうか。
今日のみ言葉もすばらしい約束が語られています。
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箴言8:34~35
わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。
それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。(口語訳)
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主を待つ人の姿が思い浮かぶような表現ですね。
主が出入りされる門、そのそばで待っているのです。
主の家の戸口の柱のそばで待っているのです。
その人には、得るものがあります。
主を待ち望む人は何を得るのでしょうか。
命を得るのです。生きるパワーですね。
恵みを得るのです。恵みですから、働きの結果、得られる報酬ではありません。
「わたしの言葉を聞き」とありますが、主のみ言葉を聞いて、み言葉の約束を信じて、日々主を待つ人は幸いな人です。

浜崎英一

喜びと楽しみ

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★今日のみ言葉★
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「喜びと楽しみ」

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詩篇16:11
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。(口語訳)
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主よ、あなたのいのちの道を感謝します。
そこに喜びと楽しみがあるのですね。
この喜びは、何か美味しいものを食べたからではなく、何か特別なものが手に入ったからという、そういう理由からではありません。
それは、あなたの前にある喜びであり、あなたの右にある楽しみです。
このあなたの前にある喜びとわたしを含め、多く人が普通に経験している喜びとは同じものでしょうか。
主よ、どうぞ、そこに質的に違いがあることをもっと分かるようにしてください。
そうでなければ、わたしは簡単に混同してしまいます。
そして、いのちの道が分からなくなります。

浜崎英一

いのちが実を結ぶために

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★今日のみ言葉★
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「いのちが実を結ぶために」

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ヨハネ12:24
よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(口語訳)
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主よ、自然界の法則は、種を撒けば、芽を出し、やがて実を結ぶ時が来ます。
蒔かれた種は、確かに地中に死んだかたちです。
この自然界の法則はあなたが造られたものです。
また、その同じ法則が、霊的な事実の中にも働くことを教えられ、感謝です。
自分が無視されることを恐れたり、どこかで認められたい、良く思われたいという自分が生きていることで、神の国のために実を結ぶことを邪魔しています。
どうぞ、今この時、あなたのいのちが実を結ぶために、わたしの死ななければならないところを教えて下さい。
また、あなたが教えおられる時、それを無視することがありませんように。

浜崎英一

肉の思いと御霊の思い

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★今日のみ言葉★
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「肉の思いと御霊の思い」

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ローマ8:4~6
これは律法の要求が、肉によらず御霊によって歩くわたしたちにおいて満たされるためである。
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、御霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは死であるが、御霊の思いは、いのちと平安とである。(口語訳)
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主よ、あなたのいのちと平安のうちを生きる毎日でありたいです。
そのためにも、わたしが自分で選ばなければならないことがあります。
これは他の人に代わってもらえない選択です。
その選択の結果を人のせいにすることは出来ません。
肉による歩みか御霊による歩みか、それを見極める余裕と力を与えてください。
それは結果でも分かるのですね。
空しい思い、不毛な結果を招くのは肉の思いです。
いのちと平安、喜びと感動の伴う結果を得られるのは御霊による歩みです。
この違いははっきり分かります。
どうか、そのためにわたしの心と思いを今日も、守り導いてください。

浜崎英一

罪を罪と感じないこと

三浦綾子さんの「光あるうちに」の中に

最大の罪とは、「罪を罪と感じ得ないこと」 とあった。

それは人が「自分の罪を計る物指し📐」と「人の罪を計る物指し📐」と2つ持っているからで、人には厳しく自分には甘いので、自分の罪には気付きにくいというものだ。
この自分に都合のよい計りが自己中心のあらわれであり、罪の元である。

例えば、子どもが花瓶を割ったら酷く叱るのに、自分が割ったらちょっと舌を出した程度で、自分の過失は赦し、子どもを叱る時のようには自分を叱らない。

ある人が車で子どもをひいてしまった。急に飛び出して来た方が悪い、子どもをよく躾けていなかった親が悪いと言っていた。
ところがその後、自分の子どもが車にひかれて死んだ。
その人は半狂乱になり、「こんな小さな子どもをひき殺すなんて」と運転手に食ってかかり殴りつけた。
自分が子どもをひいた時は相手の親が悪く、自分の子がひかれた時は、ひいた運転手が悪い。

三浦綾子はこの人を笑うことはできないと言っている。
これは私達人間の赤裸々な姿で、私達は自分の罪が分からないということでは、この人と同じであると言っている。

「自分に都合の良い計りを持っている」 これが自己中心のあらわれであり、罪の元である。
自己中心な人間は、自分の考えに拍手喝采してくれないものを憎む。
自分が悪口を言う時に、共に悪口を言わぬ相手を嫌う。
自分が怠ける時、共に怠けない友を疎む。
酒を飲む人間は飲まぬ人間を軽蔑する。
つまり自分の共犯者でない者は嫌いなのだ。
考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、
正しく聖い存在は誰か。
それは神である。
だから自己中心であればあるほど、神を嫌う。
神を見ようとはしない。神を無視してやまない。
「神のほうを見ない」これが原罪である。

その他、泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか?
牧師は説教の中で「悪口の方が罪深い」と言った。
大事にしているネックレスが盗まれたとしても
「高価なものだったのに惜しいことをした」という痛み程度にとどまる。
泥棒に入られた為に自殺した話はあまり聞かない。
だが人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年少女の話は時折聞く。

私達の何気なく言う悪口は、人を死に追いやることもある悪の力だ。
泥棒などのような単純な罪とは違う。
もっと泥々した黒い罪だ。
人を悪く言う心の中にとぐろを巻いているのは何か?
敵意、妬み、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが、
悪口、陰口となってあらわれるのだ、
この世に悪口を言ったことのない者は無いに違いない。
それほど私達は一人残らず罪深い人間なのだ。
にもかかわらず、私達はその罪の深さに胸を痛めることは甚だ少ない。
「罪を罪と感じないことが罪だ」と書いた。
こう書きながら、わたしは、私の罪に対する感覚の鈍さに慄然としてくるのである。
三浦綾子さんは書いている。

 

今朝の通読箇所

※しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。(マタイ15:18.19)

別の神

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★今日のみ言葉★
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「別の神」

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エレミヤ31:3
主は遠くから彼に現れた。
わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。(口語訳)
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聖書が教えているこのような神の愛と真実、それは嘘ではなく、本当だとは知っている。
けれども正直なところ、心の内には、自分はまだまだその愛を受けるだけの者ではない。
まだ、いろいろやるべきことが出来ていない。納得できるような結果も出せていない。
だから、まだ神のそのような愛が受け取れるものではない、と思っているところがある。
神の愛も、所詮は理想の話であって、現実はそんなものではない。
その点で自分はまだまだ、努力が足りない怠け者である。
神もきっと、自分のことをそのように思っておられるはずだ。

こんな風に思っている人は、聖書の教えている神のことを聞かされて、頭の知識としては分かっていても、自分の心の中にしっかりと根付いている別の神をもっている人だと言えます。
どう思いますか。

浜崎英一

あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る

 

マタイの福音書

25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 

25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

この箇所は新共同訳聖書の小見出しのタイトルは「すべての民族を裁く」となっていて、他にも「人の子の裁き」というタイトルがつけられているものもありました。

「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)であり、イエスさまは救い主ですが、次にイエスさまが来られる時は裁き主として来られます。 

救われてすぐ、聖書を読んでいて怖いと思った箇所の一つです。

エスさまの十字架と復活が自分の罪の為であったと信じて救われても、ここに書かれている事を行っていないなら、最終的には永遠の刑罰に入ることになるんだ・・・。

私にはできないかも・・・。 

この箇所の解説として次のように聖書に書き込んでいました。

「この愛のわざが救いの条件の功徳となるのではない。ここに列挙されている愛のわざは、彼らが正しい人であることの根拠なのではなく、その証拠であることを示す。

それは彼らが知らずにした彼らの信仰から生じた「良い実」である。

愛のわざは、その人にほんとうの信仰があったことの目に見える証拠となる。

そういう証拠が最後の審判の時に本当の信仰と見せかけの信仰を区別するために必要になってくる。

私たちが救われるのは、まことの信仰によってである。」 

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。(ガラテヤ5:6)  

ヤコブ゙書

2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」 

ヤコブ書の上記の箇所を最初に読んだ時には 

救い=信仰+行い!? 

と思ってしまいましたが、これは異端のグループになります。 

ヤコブがここで何を言っているかというと

「本物の信仰には必ず行いが伴う」と言っているのです。

クリスチャンは信仰によって救われます。 

救い=信仰のみ 

罪が赦され、

永遠のいのちが与えられ、

心が新しく造りかえられる。

これを経験したなら生き方が変わります。

「行ない」は、救われた「結果」であり、救われるための「手段」ではないのです。

 

さらに今日はヨハネ10章の良い羊飼いの箇所を読んでいましたが、そこからエゼキエル34章を開いてみました。

前半は自分を肥やしているイスラエルの牧者たちにに対する主の糾弾が語られます。 

エゼキエル書

34:1 次のような主のことばが私にあった。

34:2 「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

34:3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

34:4 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

34:5 彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。

34:6 わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。

34:7 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。

34:8 わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。

34:9 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。

34:10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。 

後半は良い羊飼いについて語られます。

34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

34:12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

34:13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。

34:14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。

34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――

34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

 この箇所を読んだ時に、羊に対する主の「愛」と「憐れみの心」を強く感じました。

特に「34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」のところです。

何だかマタイ25章の「愛のわざ」と同じ事を語っているようです。 

 この良い羊飼いはエゼキエル34章23-24にイエスさまであると預言されています。

 34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。

34:24 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。

  主の霊に満たされた者は、主の「愛」と「憐れみ」が心に注がれて、主にある兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりに「愛のわざ」を自然に行うことができるのだと思いました。

羊として右側に選ばれるか、選ばれないか、永遠の火という「裁き」に遭うか、遭わないかの「恐れ」など無しに。

ヤコブは言っています。

2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

そして、この人たちは永遠のいのちにはいるのです。