ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

新しい歩み、生き方

ヨハネ8章を読んでいます。姦淫の場で捕らえられた女の話から始まります。

塚本訳を読んで、小さいけれど新たな発見がありました。

塚本訳1963

7:53 【人々はそれぞれ家にかえったが、

8:1 イエスはオリブ山に行かれた。

8:2 次の朝早く、また宮に行かれると、人々が皆あつまってきたので、座って教えておられた。

8:3 すると聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきた。みんなの真中に立たせて、

8:4 イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。

8:5 モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」

8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。

8:7 しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」

8:8 そしてまた身をかがめて、地の上に何か書いておられた。

8:9 これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、(最後に)ただイエスと、真中に立ったままの女とが残った。

8:10 イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」

8:11 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」】 

 この文章中の以下の箇所に目が留まりました。

8:9 これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、 

民衆が自分達は「罪のない者」ではないと理解はしていて立ち去ったという事は分かっていましたが、その時に「良心に責められ」るような強い「悔い改め」の心が生じていたとは気が付きませんでした。

そして

エスがひとり残された。(ヨハネ8:9 新改訳)

 この一文を読んで、地面に字を書かれているイエスさまだけが、大きく目に飛び込んで来ました。

エスさまだけが、ただお一人「罪のないお方」なので、その場に一人留まられることが出来た事が深く心に迫りました。(Ⅱコリント5:21,Ⅰペテロ2:22)

民衆は「罪のない」神であるイエスさまに直に会い、直にその言葉を聞いたので「悔い改め」の心が生じたのではないかとも思いました。 

それから、人を裁くことが出来るのは、罪のない神ただお一人であって、私たち人間には人を裁く権利はないのだとあらためて理解する事ができました。

8:10 イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」

8:11 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」

以下は、どこからかの解説を読んで聖書に書き込んでいました。

「なぜイエスさまはこの時、婦人を裁かれなかったのか?彼女の罪をご自分が背負われて、彼女が受けなければいけない刑罰をご自分が引き受けることによって、彼女を赦して下さるためだった。

「イエスはこの女の罪を見過ごし、軽んじたのではなく、イエスは彼女を罪から救い、姦淫の女に変えられた新しい生き方をするように告げた。」

「キリストの十字架」によって私の数々の罪が赦されたこと、そしてその罪を行っている「古い人」がキリストと共に十字架に付けられた事によって初めて、「罪の奴隷」「罪の支配」から解放されて自由になる(ヨハネ8:32)こと、そして御子が「復活」された時に私も御子の内に入れられているので、御霊の導きによる「新しい生き方」ができるようになるのだと思いました。

 

私は「新しい歩み、生き方」が出来ているだろうか?(ローマ6:4)

まだ自分は「罪の奴隷」になっている部分があることを認めます。

罪には何らかのメリットがありますが、それは一時的なメリットで、最終的に滅びに至るものです。(ローマ6:20-21)

サタンの策略に騙されないようにしなければなりません。

 

エスさまご自身がいのちを捨ててまで、「この世」から私を取り出して下さった(ヨハネ15:19)のに、それなのにまだ、「この世の罪」と手を切らない自分は、イエスさまをもう一度十字架に架けるような者(ヘブル6:5)になってしまうのだと深く悔い改めに導かれた朝でした。 

このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。

こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(Ⅰペテロ4:1-2)  

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ2:9)

十字架の愛

 

伝道に燃え

傷付いた人の傍にいて話を聴いたり

聖書を読んだり

賛美をしたりして

恵まれた素晴らしい日々を過ごしているように思っていました。

 

昨日、次女と一緒に出席した教会で礼拝賛美を歌っていると

「十字架の愛」

から、いつしか離れてしまっていたような、忘れてしまっていたような気がして

心からの悔い改めに導かれました。

いつも「十字架の愛」を思って歩んでいきたいと思わされた日曜日でした。

 

【あなたの愛に】  MEBIG

あなたの愛に  ただ ひざをかがめ

両手を高く   高く上げ 歌う

あなたの愛に  ただ こころふるえ

胸を たたいて 御前に ひれ伏す

十字架の愛が  こころの 底まで届いて

こころは    どこまでも高く

あなたを    たたえる

 

 

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幼稚園の時に何度かこの教会の日曜学校に行って以来、大人の礼拝に初めて参加した次女への教会からのプレゼント。書かれている言葉に感動します✨

 

追記:「十字架の愛にこころがふるえる」を深く黙想しました。

歌詞の「胸をたたいて御前にひれ伏す」という取税人の祈りに似た部分が自分の罪の大きさを自覚させ、その私の罪のために十字架に架かられた御子の愛が、あらためて心の底に届いたという意味でこころがふるえました。

悪い霊の影響を受けやすい領域は? 

マタイ

12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。

12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。

12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。 

あなたの生活の中で悪い霊の影響を受けやすい領域はどんな事ですか?

クリスチャンの中に悪霊がいるということはあり得るのか、クリスチャンは神の神殿なのだから悪霊は住むことはできないという人もいます。

けれど神はどこにでも偏在できる方、そういう意味で神も悪霊も同じ領域にいることもできるし、ヨブ記で神とサタンは会話をしている。神と悪魔が一緒に存在している。

エペソ書6:16に「信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」とあるので信仰の大盾を持っていなければ火矢を受けることもある。

使徒の働きにアナニヤとサッピラの話がありますが、使徒5:3「そこで、ペテロがこういった。『アナニヤ、どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか』」とありますが、原語では「サタンに心を奪われて」の「奪われて」はエペソ5:18の「聖霊に満たされなさい」の「満たされ」と同じ言葉が使われている。

クリスチャンでも悪霊に憑かれる、神と悪霊二つのものに支配されることはあるのか、答えはNO。 

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:19.20) 

とあるので、もはや自分自身のものではなく、代価を払って買い取られたのだから悪霊に憑かれることはない。しかし悪霊に「憑かれる」「憑かれない」の問題ではない。

悪霊は「支配」は出来ないが外側から「攻撃」したり、「いじめ」たりできる。

・病気、疾患を通して。(ルカ13:11-13)

・私たちの思いに入って偽りの考えを吹き込むことができる。(Ⅰテモテ4:1)

心理的混乱(Ⅰサムエル16:14)

・対人関係にトラブルを持ってくる。夫婦関係、親子関係、友人関係など

ニューエイジ的考えに人々を導く (使徒16:16) 

・「罪」があるとそこに働く悪霊がいる。罪があるなら「open the door」になっている。

・悪霊が働く「足場」となる罪は「繰り返し行われる罪」

・「赦さない事」も罪であり、赦さない心は「自分で毒を飲みながら、相手が死ぬのを待っている」ようなもの。早めに赦す。24時間かかっても赦し続ける。「赦さない心」は悪魔が「アクセス」する「足場」を作る。

他にも

・イエスキリストの力を自分の自己中心の目的のために使う。

・性的な罪、混乱、倒錯(Ⅰコリント5:1-5)

・罪を悔い改めない人は罪が何回も繰り返されていること。

・いつまでも怒りを持っていること。(エペソ4:26-27)

・世代から世代へ受け継がれた罪(代々子どもを中絶する家族など)

悪霊の影響は段階的に進む。 

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4:7) 

あなたの「意志」が必要。あなたがこれに「戦おうとする決心」が必要。

けれども「受け身、無抵抗」なら、「対抗する力」がなくなる。

   「解放と内面の癒し」から覚書    マーク&テリー・ベナベンテ 

神と共に歩む

『これこそ預言者ミカの言うところの「神と共に歩む」ということではないでしょうか』というコメントを読んで、ミカ書を再読したいと思っていました。

一昨日は一日おきに送られてくる大津バプテスト教会の浜崎牧師の『聖書のみ言葉の黙想』もミカ書でした。

それがきっかけで昨日、今日でミカ書を読んでいます。 

 前半はイスラエルとユダの罪に対する告発、サマリヤの陥落、裁きはユダにまで及ぶことが預言される。

その後、捕囚からの解放や終わりの日にもたらされる王国の預言、メシヤ来臨の予告へと続いていきます。

中でも私の心に迫ったのは、ミカ書6:1-9 でした。

6:1 さあ、主の言われることを聞け。立ち上がって、山々に訴え、丘々にあなたの声を聞かせよ。

6:2 山々よ。聞け。主の訴えを。地の変わることのない基よ。主はその民を訴え、イスラエルと討論される。

6:3 わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。

6:4 わたしはあなたをエジプトの地から上らせ、奴隷の家からあなたを買い戻し、あなたの前にモーセと、アロンと、ミリヤムを送った。

6:5 わたしの民よ。思い起こせ。モアブの王バラクが何をたくらんだか。ベオルの子バラムが彼に何と答えたか。シティムからギルガルまでに何があったか。それは主の正しいみわざを知るためであった。

6:6 私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

6:7 主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

6:9 聞け。主が町に向かって叫ばれる。――御名を恐れることがすぐれた知性だ。――聞け。部族、町を治める者。 

 主は「奴隷の家」であるエジプトから紅海を二つに分けて乾いた地を歩いて渡らせて救い出し、モーセとアロンとミリヤムを送って下さった。そしてモアブの王バラクがベオルの子バラムにのろわせて、滅ぼそうとした時に、かえって祝福させました。また「シティムからギリカルまでに何があったのか」それは紅海を渡ったように、ヨルダン川をも渡らせて下さいました。6:5「それは主の正しいみわざを知るためであった。」は新共同訳聖書では「主の恵みの御業をわきまえるがよい。」となっています。 

6:3 わたしの民よ。わたしはあなたに何をしたか。どのようにしてあなたを煩わせたか。わたしに答えよ。 

の言葉が強く迫ってきます。煩わせるどころか、こんなにまでして恵みの御業を主はして下さっているのに、イスラエルの民は主に反逆したのです。

この事に心が刺され、では何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれふそうか・・・とミカは言います。「幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。自分の長子を捧げるべきだろうか・・・・。」 

6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。 

イザヤ

57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。(新共同訳)

66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。 

主が「求めておられること」、また「神と共に歩む」とは日々、「悔い改め」である事が分かりました。 

詩篇

51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。

51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。

51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。

51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。

51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。 

その時、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させて下さるのです。

「しかし」

『しかし』

昔は、「衣食足りて礼節を知る」と言われていました。
食べる物や着るものがないために泥棒をしたり、犯罪を犯す人たちもいたのです。
ですから、衣食が足りるようになれば、人はまともな人間になるという意味です。
ところが、今は、衣食が足りていながら、事件や問題が起こっています。
今日、あなたもわたしも急速に家庭崩壊が進んでいる時代に生きています。
経済は豊かになって、食べるものにも事欠かない時代となってもです。
人間の問題は、衣食が十分足りても、無くならないということがハッキリしてきました。
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ミカ書7:6~7
むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、嫁はそのしゅうとめにそむく。
人の敵はその家の者である。
しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。(口語訳)
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今から2800年前の預言者ミカの時代もその家の者が敵となるというようなことがあったようです。
同じ屋根の下で生まれた育った息子が父親に反発し卑しめ、娘がその母親に背き、嫁と姑もうまくいっていない状態です。
どんなにお金があっても、立派な家に住んでいても、敵と一緒に生活しなければならない、そんな家庭は大変です。
しかし、と続いています。
目に見える人間の悲惨な罪深い現実にも関わらず、しかし…です。
目に見えない神を信じている、しかし、悲しい現実の問題はなくならない、という人たちもいます。
目に見える人間の現実と、目に見えない神の霊的な現実のどちらに立つかが「しかし」の問題であり、信仰の問題です。
あなたはどちらの「しかし」に立とうとしていますか。

浜崎英一

主のために「むだにする」②

私には尊敬するクリスチャンの兄弟がいますが、その方の聖書の解釈と解説でどれだけ助けられているか分かりません。この方はもっと用いられてしかるべきと常々思っているのですが、ご本人は大変謙虚な姿勢でいつもおられます。その事に対する答えも、主のために「むだにする」の続きに書かれていたので載せたいと思います。

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しかし私はユダに関して、余り多くのページをさきたくありません。次に他の弟子たちの態度について考えましょう。彼らの反応のほうが、ユダのそれより、私たちにとっては重大な意義をもっているのです。私たちは世間の言葉に対しては、大きな注意を払う必要はありません。私たちはそれを忍ぶことができるのです。しかし、当然理解を持つべきである他のキリスト者の言葉に対して、私たちは大きな注意を払います。しかも弟子たちは、ユダとその意見を共にしていることがわかります。それだけではなく、彼らはそのことについて心を乱し、憤慨さえしているのです。「弟子たちはこれを見て憤って言った。『なんのためにこんなむだ使いをするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに』」(マタイ26:8,9)

もちろん、「最小の労力で最大の高価を挙げよ」という態度は、キリスト者の間にも一般的なものであることを、私たちは知っています。しかしここではそういうことが問題であるのではなく、もっと深い所に問題があるのです。例をあげてみましょう。

「あなたはじっとすわっており、多くのことをしないから人生を浪費している」とだれかがあなたに言わなかったでしょうか。それらの人は言います。「あの人達は出て行ってこれこれの仕事をすべきだ。あのひとたちは、あの群の人たちを助けるために用いられることができるはずだ。それなのに、どうして彼らはもっと積極的でないのか」と。このように言う人たちの中心思想は、用いられるの一語に尽きます。彼らにとっては、すべてのものが彼らの理解している方法で十二分に用いられなければ、気が済まないのです。このような見地から、主に愛せられているしもべに関心をいだき、その人が多くのことをしていないと考える人たちがいます。彼らは、もしその人がどこかの団体に入ってそこで大いに受け入れられ、指導的な地位につくならば、現在よりはるかに大きなことをなし得るだろうと考えます。長年の知己である婦人宣教師のことは、前にも述べました。この人は私を最も助けて下さった人であると思います。この人は、私が親しくさせていただいた年月の間、非常に現実的な方法で主に用いられていました。もっとも、当時のことは私たち一部の者にとって、あまりはっきりわかりませんでしたが。ところで、私の心の中には「この人は用いられていない」という思いがあったのです。そのため私はいつでも自分自身にたずねていました。「どうしてこの人は、出かけて行って集会を開かないのか。どうしてどこかに出て行って、何かしないのか。あの人が、何事も起こりそうもない小さな村に住んでいるということは、あの人にとって生涯の浪費だ。」時には彼女を訪ねて、まるで叫ぶようにして言ったものです。「あなたほど、主をよく知っているかたはありません。あなたは、もっとも生きた方法で聖書を知っておられるではありませんか。あなたは周囲の必要がわからないのですか。どうして何かなさらないのですか。ただ何もしないで、ここでじっとしているなんて、時間の浪費、力の浪費、金銭の浪費、あらゆるものの浪費ですよ。」

しかし、主から見れば、用いられるということが第一のことではないのです。確かに主は、私たちが用いられることを望んでおられます。もし私が、消極的な態度で説教したり、世の必要に対して自己満足的な態度を正当化しようとしたら、主はお許しにならないでしょう。主イエス御自身、ここで言われているように、「全世界に福音は宣べ伝えられる」べきであります。しかし、問題は何を強調するかということにあります。しかし今日かえりみると、主は事実上、いかにその婦人を用いて私たち少数の青年に語りかけておられたかが分かります。当時私たちは、福音の働きのため、神の学校で訓練を受けていたのです。私はこの婦人のことを、どれほど神に感謝しても足りません。

では何が秘訣であるのでしょうか。それは明らかに次の点にあります。すなわち、ベタニヤでマリヤの行いをほめられることによって、主はすべての奉仕の基礎として、一つのことを制定されたのです。それは、あなたの全所有、あなたそのものを主に注ぐということです。そして、もしそのことが主のあなたに課されたすべてであるなら、それで十分ではありませんか。「貧しい人々」を援助するか否かの問題は、第一義的なことではありません。第一の問題は、主の御心が満たされたかどうかということなのです。

私たちが説教することのできる集会は多くあり、私たちが仕えることのできる修養会は多く、また私たちが責任をとることのできる伝道会は多くあります。私たちが、それらのことをすることができないというのではありません。私たちは十二分に用いられるまでに労することができます。しかし主は、私たちが主のための働きに絶えず携わっていることについては、それほど関心をもたれないのです。そのようなことが、主の第一の目的ではありません。主への奉仕は、目に見える結果によってははかることはできません。私の友よ、主が第一に関心を寄せておられることは、主の足下における私たちの立場であり、また私たちが主の頭に油を注ぐということです。私たちが「石膏のつぼ」として秘蔵しているいかなるものも、すなわち私たちにとって最も貴重なものであり、最も大切なものであっても・・・それらのものは、十字架そのものによって造られた私たちの生涯から溢れ出るものです・・・私たちはその全てを主にささげつくすのです。そのことは、よく理解しているはずの人々にとっても、浪費と思われるでしょう。しかし、このことこそ、すべてにまさって主の求めておられるところなのです。

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冒頭に書きました尊敬するクリスチャンの兄弟は自分の全てを主にささげつくしておられるので、主の心が満たされているのです。だからこそ、その兄弟を用いて、主は私やブログ読者に語りかけておられるのが分かりました。私もこの兄弟のことを、どれほど神に感謝しても足りません。

 

主のために「むだにする」①

父は私の受洗に大反対で、教会に押しかけて来たり、「目を覚ませ!」とビンタされたりしましたが、半年後に奇跡的に受洗出来ました。

その後、うちにやって来てはキリスト教に対して否定的な事を時々語りました。

今でも覚えているのは、職場に東大出身のエリートで、いずれ局長になるのではないかとみんなに噂されていた同僚がいたそうなのですが、奥さんがクリスチャンで、その影響を受け、キリスト教に「かぶれて」退職してしまった事。数年後に見かけたらとてもみすぼらしくなっていて、キリスト教になったって何も良い事がないというような話でした。

その時は何も言い返せませんでしたが、ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」の中にそれに対する答えが書かれていました。 

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最後の章の出発点として、十字架の影において起こった福音書中の出来事を取り上げてみましょう。それは、その内容において、歴史的でありしかも預言的である出来事でした。

エスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に効果で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスに注ぎかけた。・・・イエスは言われた・・・『よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。』(マルコ14:3,6,9)

このように主は、高価な油を注いだマリヤの話が、常に福音の物語に同伴するように定められました。すなわち、マリヤのなしたことは、常に主のなされたことと切っても切れない関係にあるのです。これは、主ご自身の声明です。では、主はこのことから、私たちに何を理解させようとなさっておられるのでしょうか。

私たちはだれでも、マリヤのなしたことをよく知っていると思います。ヨハネによる福音書十二章に出ている記事から見ると、(この出来事は、マリヤの兄弟ラザロのよみがえりからほどなく起こりました)その家庭は特に裕福ではなかったように推察できます。姉妹たち自身が家事の仕事をしなければならなかったのです。というのは、このもてなしのとき「マルタは給仕をしていた」と書いてあるからです(ヨハネ12:2,ルカ10:40と比較のこと)。明らかに彼女たちにとっては、わずかなお金も大切でした。それにもかかわらず、姉妹の一人マリヤは、自分の貴重な財産の中から、三百デナリの香油が入った石膏のつぼを取り出し、そのぜんぶを主のために使いはたしてしまったのです。人間の理性は、これを実に行き過ぎであり、過分なものを主にささげたと言いました。そのため、ユダは真っ先に、マリヤのやったことは浪費であるという不満をぶちまけ、他の弟子たちもこの意見を支持したのです。

【「むだにする」こと】

「すると、ある人々が憤って互に言った、『なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに。』そして女をきびしくとがめた」(マルコ14:4,5)

この聖句は、最後に私たちが共に深く考えることを主が望んでおられると私の信じること、すなわち「むだにする」という小さな言葉に表されているものに、私たちを導きます。

「むだにする」とはどんなことでしょうか。「むだにする」とは、まず第一に、必要以上を与えることを意味します。一シリングでいいのに一ポンドも支払ったとすれば、それはむだ使いです。二オンスで足りるところを一キログラムも与えてしまうなら、それたむだ使いです。ある仕事を終えるのに三日間ぐらいで十分なのに、五日間も一週間も使うなら、あなたは時をむだ使いすることになります。「むだにする」とは、あまりにも小さなものに、余りにも多くのものを与えることを意味します。もし、ある人が自分の価値以上に受けたとすれば、むだになるのです。

しかし今ここで私たちは、福音の行く所ならどこへでも、その福音と共に宣べ伝えられねばならないと主が言われた事柄を取り扱っているのです。このことを忘れないでください。なぜ主はこのように言われたのでしょうか。それは福音の宣教が、この場のマリヤの行動の線にそったものを生み出すことを、主は意図しておられるからです。すなわち主は、人々が御自分のもとに来て、主のために自己を「むだ」にすべきことを意図しておられるのです。これが主の求めておられる結果なのです。

私たちは、主のために「むだにする」というこの問題を二つの観点から見なけれななりません。すなわち、一つはユダの見解(ヨハネ12:4-6)、一つは他の弟子たちの見解(マタイ26:8,9)です。そして私たちの現在の目的のために、この両方の記述を一緒に考えていきたいと思います。

十二人の弟子たちは、一人残らず、それを「むだにする」ことだと考えました。イエスを一度も「主」と呼ばなかったユダにとっては、もちろん主に注がれたすべてのものが「むだ使い」でありました。香油が浪費であったばかりでなく、たといただの水であったとしても、浪費だったことでしょう。ここでユダは、この世を代表しています。世の評価をもってしては、主への奉仕とこのような奉仕のために自己に献げることは、全くむだなことであります。かつて主は、決して世の者から愛されたことがなく、世の人々は主を心にとめませんでした。そのため、どのようなものでも、主に献げることは浪費にほかならないのです。「○○さんはもしクリスチャンでなければ、出世したことでしょうに!」と多くの人は言います。なぜなら人は、世の人の目からすれば、なんらかの才能と財産を持っているものであり、そのため彼が主に仕えることは、世の人の目から見れば恥と思えるのです。世の人は、このような人材は、主にはもったいなさすぎると考えるのです。そして「意義ある人生をなんとむだにすることか!」と言うのです。

私の個人的な例をあげさせて下さい。1929年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまで眺めてこう言いました。

「ねぇ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみに随分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは、今、この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」彼は私を射抜くような眼差しで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間・・・それは私にとって、初めての経験でしたが・・・私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽すことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。

ユダはそれをむだと感じました。「私たちは金銭を、何かほかの方法でもっと有益に活用できるでしょう。貧しい人々も随分います。どうしてそのお金を慈善のために献げ、貧民の生活向上のための社会奉仕をするなり、何か実際的な方法で貧しい人々を援助するなりしないのですか。どうしてそれをイエスの足許に注ぎ出してしまうのですか」(ヨハネ12:4-6参照)。これこそ世が常に説きつけてくるやり方です。「あなたは、もっと生甲斐のあるすぐれた職場が見つけられないのですか。あなたはもっと良いことができないのですか。あなた自身をすっかり主の献げてしまうなんて、ちょっと行き過ぎですよ。」

しかし、もし主がそれに価するかたであれば、それがどうして浪費と言えるでしょうか。主は、そのように仕えられるにふさわしいかたです。主は、私を御自身の囚人にさせるのにふさわしいかたです。主は、私が彼のためにのみ生きるにふさわしい価値を持つおかたです。主は、私たちのすべてを受けるのにふさわしいおかたです。それについて世間がなんと言おうと、問題ではありません。主は「この女のするままにさせておきなさい」と言われました。だから、私たちも思い悩まないようにしましょう。人々は勝手なことを言うかもしれません。しかし私たちが、主が「それは良いことである。すべての真のわざは貧しい人々のためになされるのではない。すべての真のわざは、私のためになされるべきである。」と言われたその基盤の上に、立つことができるのです。ひとたび私たちの目が主イエスの真の価値に目覚めたならば、主に対して良すぎるというものは、何一つとしてなくなってくるのです。