ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

主のために「むだにする」②

私には尊敬するクリスチャンの兄弟がいますが、その方の聖書の解釈と解説でどれだけ助けられているか分かりません。この方はもっと用いられてしかるべきと常々思っているのですが、ご本人は大変謙虚な姿勢でいつもおられます。その事に対する答えも、主のために「むだにする」の続きに書かれていたので載せたいと思います。

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しかし私はユダに関して、余り多くのページをさきたくありません。次に他の弟子たちの態度について考えましょう。彼らの反応のほうが、ユダのそれより、私たちにとっては重大な意義をもっているのです。私たちは世間の言葉に対しては、大きな注意を払う必要はありません。私たちはそれを忍ぶことができるのです。しかし、当然理解を持つべきである他のキリスト者の言葉に対して、私たちは大きな注意を払います。しかも弟子たちは、ユダとその意見を共にしていることがわかります。それだけではなく、彼らはそのことについて心を乱し、憤慨さえしているのです。「弟子たちはこれを見て憤って言った。『なんのためにこんなむだ使いをするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに』」(マタイ26:8,9)

もちろん、「最小の労力で最大の高価を挙げよ」という態度は、キリスト者の間にも一般的なものであることを、私たちは知っています。しかしここではそういうことが問題であるのではなく、もっと深い所に問題があるのです。例をあげてみましょう。

「あなたはじっとすわっており、多くのことをしないから人生を浪費している」とだれかがあなたに言わなかったでしょうか。それらの人は言います。「あの人達は出て行ってこれこれの仕事をすべきだ。あのひとたちは、あの群の人たちを助けるために用いられることができるはずだ。それなのに、どうして彼らはもっと積極的でないのか」と。このように言う人たちの中心思想は、用いられるの一語に尽きます。彼らにとっては、すべてのものが彼らの理解している方法で十二分に用いられなければ、気が済まないのです。このような見地から、主に愛せられているしもべに関心をいだき、その人が多くのことをしていないと考える人たちがいます。彼らは、もしその人がどこかの団体に入ってそこで大いに受け入れられ、指導的な地位につくならば、現在よりはるかに大きなことをなし得るだろうと考えます。長年の知己である婦人宣教師のことは、前にも述べました。この人は私を最も助けて下さった人であると思います。この人は、私が親しくさせていただいた年月の間、非常に現実的な方法で主に用いられていました。もっとも、当時のことは私たち一部の者にとって、あまりはっきりわかりませんでしたが。ところで、私の心の中には「この人は用いられていない」という思いがあったのです。そのため私はいつでも自分自身にたずねていました。「どうしてこの人は、出かけて行って集会を開かないのか。どうしてどこかに出て行って、何かしないのか。あの人が、何事も起こりそうもない小さな村に住んでいるということは、あの人にとって生涯の浪費だ。」時には彼女を訪ねて、まるで叫ぶようにして言ったものです。「あなたほど、主をよく知っているかたはありません。あなたは、もっとも生きた方法で聖書を知っておられるではありませんか。あなたは周囲の必要がわからないのですか。どうして何かなさらないのですか。ただ何もしないで、ここでじっとしているなんて、時間の浪費、力の浪費、金銭の浪費、あらゆるものの浪費ですよ。」

しかし、主から見れば、用いられるということが第一のことではないのです。確かに主は、私たちが用いられることを望んでおられます。もし私が、消極的な態度で説教したり、世の必要に対して自己満足的な態度を正当化しようとしたら、主はお許しにならないでしょう。主イエス御自身、ここで言われているように、「全世界に福音は宣べ伝えられる」べきであります。しかし、問題は何を強調するかということにあります。しかし今日かえりみると、主は事実上、いかにその婦人を用いて私たち少数の青年に語りかけておられたかが分かります。当時私たちは、福音の働きのため、神の学校で訓練を受けていたのです。私はこの婦人のことを、どれほど神に感謝しても足りません。

では何が秘訣であるのでしょうか。それは明らかに次の点にあります。すなわち、ベタニヤでマリヤの行いをほめられることによって、主はすべての奉仕の基礎として、一つのことを制定されたのです。それは、あなたの全所有、あなたそのものを主に注ぐということです。そして、もしそのことが主のあなたに課されたすべてであるなら、それで十分ではありませんか。「貧しい人々」を援助するか否かの問題は、第一義的なことではありません。第一の問題は、主の御心が満たされたかどうかということなのです。

私たちが説教することのできる集会は多くあり、私たちが仕えることのできる修養会は多く、また私たちが責任をとることのできる伝道会は多くあります。私たちが、それらのことをすることができないというのではありません。私たちは十二分に用いられるまでに労することができます。しかし主は、私たちが主のための働きに絶えず携わっていることについては、それほど関心をもたれないのです。そのようなことが、主の第一の目的ではありません。主への奉仕は、目に見える結果によってははかることはできません。私の友よ、主が第一に関心を寄せておられることは、主の足下における私たちの立場であり、また私たちが主の頭に油を注ぐということです。私たちが「石膏のつぼ」として秘蔵しているいかなるものも、すなわち私たちにとって最も貴重なものであり、最も大切なものであっても・・・それらのものは、十字架そのものによって造られた私たちの生涯から溢れ出るものです・・・私たちはその全てを主にささげつくすのです。そのことは、よく理解しているはずの人々にとっても、浪費と思われるでしょう。しかし、このことこそ、すべてにまさって主の求めておられるところなのです。

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冒頭に書きました尊敬するクリスチャンの兄弟は自分の全てを主にささげつくしておられるので、主の心が満たされているのです。だからこそ、その兄弟を用いて、主は私やブログ読者に語りかけておられるのが分かりました。私もこの兄弟のことを、どれほど神に感謝しても足りません。

 

主のために「むだにする」①

父は私の受洗に大反対で、教会に押しかけて来たり、「目を覚ませ!」とビンタされたりしましたが、半年後に奇跡的に受洗出来ました。

その後、うちにやって来てはキリスト教に対して否定的な事を時々語りました。

今でも覚えているのは、職場に東大出身のエリートで、いずれ局長になるのではないかとみんなに噂されていた同僚がいたそうなのですが、奥さんがクリスチャンで、その影響を受け、キリスト教に「かぶれて」退職してしまった事。数年後に見かけたらとてもみすぼらしくなっていて、キリスト教になったって何も良い事がないというような話でした。

その時は何も言い返せませんでしたが、ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」の中にそれに対する答えが書かれていました。 

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最後の章の出発点として、十字架の影において起こった福音書中の出来事を取り上げてみましょう。それは、その内容において、歴史的でありしかも預言的である出来事でした。

エスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に効果で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスに注ぎかけた。・・・イエスは言われた・・・『よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。』(マルコ14:3,6,9)

このように主は、高価な油を注いだマリヤの話が、常に福音の物語に同伴するように定められました。すなわち、マリヤのなしたことは、常に主のなされたことと切っても切れない関係にあるのです。これは、主ご自身の声明です。では、主はこのことから、私たちに何を理解させようとなさっておられるのでしょうか。

私たちはだれでも、マリヤのなしたことをよく知っていると思います。ヨハネによる福音書十二章に出ている記事から見ると、(この出来事は、マリヤの兄弟ラザロのよみがえりからほどなく起こりました)その家庭は特に裕福ではなかったように推察できます。姉妹たち自身が家事の仕事をしなければならなかったのです。というのは、このもてなしのとき「マルタは給仕をしていた」と書いてあるからです(ヨハネ12:2,ルカ10:40と比較のこと)。明らかに彼女たちにとっては、わずかなお金も大切でした。それにもかかわらず、姉妹の一人マリヤは、自分の貴重な財産の中から、三百デナリの香油が入った石膏のつぼを取り出し、そのぜんぶを主のために使いはたしてしまったのです。人間の理性は、これを実に行き過ぎであり、過分なものを主にささげたと言いました。そのため、ユダは真っ先に、マリヤのやったことは浪費であるという不満をぶちまけ、他の弟子たちもこの意見を支持したのです。

【「むだにする」こと】

「すると、ある人々が憤って互に言った、『なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに。』そして女をきびしくとがめた」(マルコ14:4,5)

この聖句は、最後に私たちが共に深く考えることを主が望んでおられると私の信じること、すなわち「むだにする」という小さな言葉に表されているものに、私たちを導きます。

「むだにする」とはどんなことでしょうか。「むだにする」とは、まず第一に、必要以上を与えることを意味します。一シリングでいいのに一ポンドも支払ったとすれば、それはむだ使いです。二オンスで足りるところを一キログラムも与えてしまうなら、それたむだ使いです。ある仕事を終えるのに三日間ぐらいで十分なのに、五日間も一週間も使うなら、あなたは時をむだ使いすることになります。「むだにする」とは、あまりにも小さなものに、余りにも多くのものを与えることを意味します。もし、ある人が自分の価値以上に受けたとすれば、むだになるのです。

しかし今ここで私たちは、福音の行く所ならどこへでも、その福音と共に宣べ伝えられねばならないと主が言われた事柄を取り扱っているのです。このことを忘れないでください。なぜ主はこのように言われたのでしょうか。それは福音の宣教が、この場のマリヤの行動の線にそったものを生み出すことを、主は意図しておられるからです。すなわち主は、人々が御自分のもとに来て、主のために自己を「むだ」にすべきことを意図しておられるのです。これが主の求めておられる結果なのです。

私たちは、主のために「むだにする」というこの問題を二つの観点から見なけれななりません。すなわち、一つはユダの見解(ヨハネ12:4-6)、一つは他の弟子たちの見解(マタイ26:8,9)です。そして私たちの現在の目的のために、この両方の記述を一緒に考えていきたいと思います。

十二人の弟子たちは、一人残らず、それを「むだにする」ことだと考えました。イエスを一度も「主」と呼ばなかったユダにとっては、もちろん主に注がれたすべてのものが「むだ使い」でありました。香油が浪費であったばかりでなく、たといただの水であったとしても、浪費だったことでしょう。ここでユダは、この世を代表しています。世の評価をもってしては、主への奉仕とこのような奉仕のために自己に献げることは、全くむだなことであります。かつて主は、決して世の者から愛されたことがなく、世の人々は主を心にとめませんでした。そのため、どのようなものでも、主に献げることは浪費にほかならないのです。「○○さんはもしクリスチャンでなければ、出世したことでしょうに!」と多くの人は言います。なぜなら人は、世の人の目からすれば、なんらかの才能と財産を持っているものであり、そのため彼が主に仕えることは、世の人の目から見れば恥と思えるのです。世の人は、このような人材は、主にはもったいなさすぎると考えるのです。そして「意義ある人生をなんとむだにすることか!」と言うのです。

私の個人的な例をあげさせて下さい。1929年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまで眺めてこう言いました。

「ねぇ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみに随分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは、今、この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」彼は私を射抜くような眼差しで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間・・・それは私にとって、初めての経験でしたが・・・私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽すことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。

ユダはそれをむだと感じました。「私たちは金銭を、何かほかの方法でもっと有益に活用できるでしょう。貧しい人々も随分います。どうしてそのお金を慈善のために献げ、貧民の生活向上のための社会奉仕をするなり、何か実際的な方法で貧しい人々を援助するなりしないのですか。どうしてそれをイエスの足許に注ぎ出してしまうのですか」(ヨハネ12:4-6参照)。これこそ世が常に説きつけてくるやり方です。「あなたは、もっと生甲斐のあるすぐれた職場が見つけられないのですか。あなたはもっと良いことができないのですか。あなた自身をすっかり主の献げてしまうなんて、ちょっと行き過ぎですよ。」

しかし、もし主がそれに価するかたであれば、それがどうして浪費と言えるでしょうか。主は、そのように仕えられるにふさわしいかたです。主は、私を御自身の囚人にさせるのにふさわしいかたです。主は、私が彼のためにのみ生きるにふさわしい価値を持つおかたです。主は、私たちのすべてを受けるのにふさわしいおかたです。それについて世間がなんと言おうと、問題ではありません。主は「この女のするままにさせておきなさい」と言われました。だから、私たちも思い悩まないようにしましょう。人々は勝手なことを言うかもしれません。しかし私たちが、主が「それは良いことである。すべての真のわざは貧しい人々のためになされるのではない。すべての真のわざは、私のためになされるべきである。」と言われたその基盤の上に、立つことができるのです。ひとたび私たちの目が主イエスの真の価値に目覚めたならば、主に対して良すぎるというものは、何一つとしてなくなってくるのです。

 

真理への愛

今朝はⅡテサロニケを読んでいます。次の聖句を読んでいたら、ローマ書の聖句が思い浮かびました。

Ⅱテサロニケ2章

:9  不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

:10  また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす霊を送り込まれます。

:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。 

ローマ1章

:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、撮り、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

:24 それゆえ、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン

:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことをするようになりました。 

 ローマ書の1章では異邦人(未信者)が「彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」とあり、その結果「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され」たと書かれています。

Ⅱテサロニケ2章ではクリスチャンになった者について書かれていますが

「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」その結果、「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす霊を送り込まれます。」と書かれていて、救われたと思っていても「真理への愛」を受け入れないなら、惑わす霊を送り込まれ「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」とあり、とても厳粛な気持ちと悔い改めの気持ちが生じました。

「真理への愛」とは何でしょう。また私たちはどうしたらこのような者にならないでいられるのでしょうか。 

Ⅱテサロニケ2章

:13 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたががたを、初めから救いにお選びになったからです。

:15 そこで、兄弟たち、堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。

:16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、

:17 あらゆる良いわざとことばに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。 

私たちは主イエス・キリストの十字架と復活故に「御霊による聖め」を受けていること。その御霊は日々、働きかけて私たちをイエス・キリストに似た者とする「聖化」の過程へと導かれます。もし、宣教だけを念頭に置いて「聖化」の過程が疎かになり、「御霊の実」が成っていない状態なら、一度立ち止まり「真理への愛」を受け入れているのか確認した方がいいのだと思いました。

私たちは旧約聖書の「律法」からは解放されていますが、新約聖書に書かれている多くの「私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝え」があります。

その御言葉を守り行い、聖霊のかすかな声を聴いたなら「悔い改め」ていきたいと思います。

 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように・・・」(ヘブル12:14~15) 

 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授かったかを、あなたがたは知っています。

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。(Ⅰテサロニケ4:2-3)

離婚の原因

周りを見渡すと離婚率の高さに驚かされます。身近にいる方で離婚された方、また離婚に向かって話を勧めている方のご夫婦の様子を聞くにつけ、ご本人達の親の問題をそのまま継承していたり、親子関係の歪み「両親を赦さない事」「親子逆転」「代理配偶者」

親子逆転と代理配偶者 Ⅱコリント12:14 亀有教会牧師鈴木靖尋 2015.6.28: いのちのことば

「偽りを信じる」などの問題、つまり「罪」の影響のせいだと思っています。

この「罪」の問題が解決されないと、夫婦は本来神さまが造られた素晴らしい関係になる事はないのだと思わされています。

既に離婚している人、離婚に向かって進んでいる人が主イエスに出会い、その罪の問題に目が開かれ、悔い改めに導かれる時に初めて幸せな夫婦、家族となるのだと思います。もしかすると離婚していたご主人と元に戻る可能性もかなりの確率であるような気がしています。

精神薬のフラッシュバック

主人が「2週間くらい前から、ずっと頭の中が『気持ちが悪い』ので脳神経外科で見てもらう」と言って病院を受診しました。色々な検査をした結果、どこにも異常は見つかりませんでした。

元々首の骨の軟骨と軟骨が圧迫されている事は整形外科を受診して分かっていたので、医師にそれを伝えると、その事が影響しているかもしれないと言われ、薬を3つ出されました。

まさか・・・と思って確認すると三つの内、二つはまたしても「精神薬」でした。

①アンナカ「ヨシダ」

ジアゼパムセルシンサン1%)

③エペリゾン塩酸塩

小学校の同級生が精神医療問題を世に発信して本も出版しているので状況を説明したところ、色々アドバイスを下さいました。

アンナカ…は歌手のASUKAが捕まった薬で、ジアゼパムもかなり問題のある薬であること。

頭の気持ち悪さは「クスリのフラッシュバック」によるものの可能性が高い事。

「薬物は例外なく脂溶性なので、極めて長期間(10年・20年以上)脂肪組織の中に残留し続けます。これが何かの拍子に血液中に戻ってくるときに起きるのがフラッシュバックです。ですから、いつ何時、どのように起きるかは神のみぞ知る…というところなんです。それだけに怖いですね。」

「ここで、精神薬を飲んだら元の木阿弥」と私が懸念している事と同じ事を言ってくれたので、主人にも上記を伝えて、何とか飲むのを思いとどまってもらいました。本人は症状があるから飲みたくて仕方ない様子でしたが・・・。

主人は「精神薬」とその他の薬の線引きを知りたいと言うので、その事も確認すると 

正式名は精神神経製剤。以下の薬種に該当するものは全て含まれる。
抗うつ剤
・中枢神経刺激剤
統合失調症治療薬(メジャートランキライザー
抗不安薬マイナートランキライザー
睡眠薬
睡眠導入剤
ADHD治療薬
・抗パーキンソン病
・抗てんかん
認知症治療薬
基本的な薬理作用は麻薬と同じです。従いまして多くの精神神経製剤は「麻薬および向精神薬取締法」の規制対象薬物となっています。 

という事でした。

また、今回の事とは関係ありませんが以下の事も教えて下さいました。

・精神薬を服用すると精神薬は身体から徹底的にミネラルやビタミンを排出してしまう。

・ミネラルやビタミンが欠乏している状態ではなにをやるのも辛く、クスリを抜く場合、離脱症状に勝つことは極めて難しく、過酷な状況を生み出す。

・ミネラルを大量に補給(サプリメントでも可)、魚のダシ粉(100%魚や海藻の粉のもので添加物の入っていないもの)を食事に大量に混ぜるのも有効

 

頭が「痛い」ではなく、頭が「気持ち悪い」というのでおかしいと思っていました。5年前まで5年間飲み続けた「パキシル」と「エビリファイ」「デパス」のフラッシュバックなのだと思います。

幸い、主人の症状は軽減しており、クスリを飲まなくて本当に良かったと思っています。

友の渇き

昨日はYさん主催の未信者を対象とした「聖書の会」でした。

私は2年くらい前から声をかけて頂いて参加しています。

この会に今、神さまが働かれていて

お二人が6月に信仰告白をされ

もう一人はご主人との問題を抱えて苦しんでいるので、夏休みに教会の牧師にカウンセリングをして頂く事になっています。

さらに、もうお一人はずっと聖書の会に参加されていなかったのですが、数か月前から急に参加されるようになり(来ても会が終わる頃の参加が多かった)、やはりご主人との関係、子どもの不登校の事などの悩みを抱え、先月の会では涙を流しておられました。

「『聖書の会』が今の自分にとって大切な場所です。」とおっしゃり、

昨日は開始時間前に到着し、真剣な顔で聖書の学びに取り組む姿勢、一言も漏らさないように聞き入る姿勢に彼女の「渇き」を強く感じ圧倒されました。

「渇き」を癒す事ができる唯一のお方、主イエス御自身に彼女が出会い、永遠のいのちへの水がわき出ますように。 

エスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14) 

今日はOL時代の親友に会いに東京駅に行って来ます。彼女は私に「愛」を教えてくれた人です。当時、罪責感に苦しむ私を励まし、肯定的な言葉を沢山かけてくれました。入社1年で部内異動にあって、その課で働く事に誇りと夢を持って働いていたのが1年でその夢が断たれて落ち込んだ私に「上司はMIKUちゃんの事を何も分かっていない」と怒って一緒に泣いてくれました。

彼女は今、シングルマザーでお子さん二人を抱えて頑張っています。今日は久し振りにお互いの近況報告をして来ます。イエスさまの証しも携えて行ってきます!

イシュマエル(4)

【イシュマエルもイエス・キリストの型では?】

さて、この稿で今回のテーマの締め括りにしたいと思うが、先回はレビ記16章の二頭のやぎの記述が、一つは犠牲のために選ばれ、もう一つはアザゼル(追放または荒野の意)のため、汚れや罪咎を負わされて荒野へと追放される。実はこの罪のあがないの儀式は、今尚ユダヤ教の中で連綿として守られているという。アザゼルのやぎは荒野をさまよい、やがては疲労と渇きと飢えで死ぬ。それを見届ける伝令の報がシナゴーグに届くと「あなたの罪咎は赦された」という横断幕が掲げられるという。

僕の推論では、この二頭のやぎをアブラハムの二人の息子、イシュマエルとイサクに当てはめた。即ち犠牲のためにとっておかれるやぎはイサク

アザゼルのやぎはイシュマエルに符号すると考えた。

最初にこの聖書箇所を読んだ時に気が付かされた二つの物語の長さが等しいこと、真ん中にあるベエルシェバ(七つの井戸)の話を要に左右に並べられていること。そしてこの両方の記事の書き方に均等性がある。

これを分かりやすく表にしてみると以下のようになる。 

(イサク)創世記22:1-19

・神がイサクの名をつけられた。

・朝、早く、アブラハムはろばに鞍をつけ・・・

・イサクをほふろうとした時、神の声があった。

・角をやぶにひっかけた雄羊をみつけた。

・神のイサクの子孫への祝福の約束

・ベエルシェバに住み付いた

(イサクの年齢は15-16才くらい) 

創世記21:22-34 (ベエルシェバ)

アブラハムがアビメレクから七匹の子羊の代価で、ベエルシェバの井戸を買い戻す。(七つの井戸の意味) 

(イシュマエル)創世記21:9-21

・神がイシュマエルの名を与えられた。

・朝早く、アブラハムはパンと水の皮袋を取って・・・

・荒野で力尽きたとき、神の声があった・・・

・井戸を見つけた(ベエルシェバのあたりで)

・神のイシュマエルの子孫への祝福と約束

・パランの荒野に住み付いた

(イシュマエルの年齢は16才くらい) 

こうして表にしてみると、いかに二つの記事が同じように書かれているかが分かる。そして二人とも神が名前を付け、神がその行動を容認されている。そして両方ともに子孫への神の祝福が約束されている。そして一方はベェルシェバの泉でいのちを救われ、もう一方はベエルシェバに住み付く。このベエルシェバとは何か、両方の物語の最中に突然現れてくる事情であり、中心に置かれた物語。それはアブラハムが奪われた井戸を七匹の子羊の代価で買い戻す話である。聖書で7の数字は完全を表わす。完全な子羊、すなわちイエス・キリストによる買い戻し、「贖い」を意味するのではないだろうか。そしてその井戸はベエルシェバ(七つの井戸)と呼ばれる。つまり完全な井戸、ヨハネ4章のスカルの井戸でイエスが言われた

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ 4:14) 

 と言われたその井戸を意味するのではないだろうか。

このように解釈することができないだろうか。イシュマエルの物語も、人間のあらゆる不条理な罪を負わされて、十字架の上で一時的にも父なる神から捨てられたイエス・キリストを意味しているのではないだろうか。もちろんイサクの物語はイエス・キリストの贖いの子羊としての十字架を示していることは当然のことである。各々が神の贖いの方法を分担していることで、二人の息子は等しく、イエス・キリストを示している。そしてその中心にイエスが与える永遠のいのちの水が示されている。

イスラム教では昔からアブラハムがモリヤの山で神に捧げたのはイサクではなく、イシュマエルであったと主張している。ぼくもエルサレムに行ったが、エルサレムの神殿の岡、かつてモリヤの山だった所、そしてソロモンの神殿が建っていた所にイスラムのモスク、黄金ドームが建っている。その中には今でも下にモリヤの山の岩が敷かれている。イスラムの人々も神に選ばれたのは私達だと主張し続けている。そこから争いが生まれる。

今日も尚、イサクとイシュマエルの子孫たちは対立をくりかえしている。イスラエルパレスチナの土地をめぐっての紛争は解決の目処さえ見えない。双方にそれぞれの言い分がある。長い彼らの歴史を見ると、イサクの子孫であるユダヤ人はAD70年にローマ帝国により国を滅ぼされ、故国を追われディアスポラとして世界中に散らされた。これはイシュマエルの体験をなぞったことになる。そしてナチスによるホロコースト(全焼のいけにえ)ユダヤ人は「ショアー」と呼ぶ。正にイサクがモリヤの山に献げられたように600万人ものユダヤ人がガス室で焼かれた。その犠牲の上に今日のイスラエル建国がある。

イシュマエルの子孫たるパレスチナ人もまた1948年5月のイスラエル国独立により故国を追われたのである。そして二つの民族の対立は今も続いている。国連や諸大国もこの問題解決に手をつけかねている。

エスが十字架におかかりになる少し前に、数人のギリシャ人がイエスの所を訪れた。彼らはイエスに何を求めたのだろうか。パウロは「ギリシャ人は知恵を求める」と評した。ある訳に、この知恵を「知的な万能薬」と訳した聖書があった。つまりギリシャ人は問題解決、これは今日おパレスチナ問題の解決や、あらゆる人間が抱える問題解決を含む「問題解決の処方箋」を求めたと推理することが出来よう。

その問いかけに、イエスは「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)と答えられた。これがイエスの示された解決であった。

イエス・キリストの十字架の贖いの死が二つの裂かれた傷を癒すのである。対立する両者を和解させるのである。

創世記25:9にアブラハムの死に際し、「彼の子ら、イサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。」と記されている。父の葬儀を二人の息子たちが執り行っている姿から、兄弟のいさかいより和解の姿が見えて来る。

二人の息子は各々の痛みの経験を通して、父の死の悲しみを分け合うことで和解しているのである。聖書をよく読むと、その後この二人の兄弟の子孫は歴史の中で交差し、助け合っている記事が記されている。

ヨセフが兄弟たちのねたみから空井戸に投げ込まれた時、イシュマエル人のキャラバンが通りかかりヨセフをエジプトに連れて行った。とある。つまりイシュマエルの子孫により、イサクの子孫であるヨセフは命を助けられ、そのヨセフにより一族全部がエジプトで生き残るきっかけが作られた訳である。

そして、このイシュマエルにはもう一つ、今日の我々が直面している、自殺、いじめ、ひきこもりといった諸問題への切り口が一つある。数年前、僕は聖契キリスト教団の赤城山キャンプに参加した。そのときの講師は高名な精神科医の平山正実師であった。師が講演の中で聖書の人物を引用されるところで、「私にとって参考になる人物は立派な信仰の人、あるいは成功者よりも、聖書の中の失敗した人、敗けた人、弱さに悩む人物たちです。」と言われた。現実の問題に打ちひしがれ、ひきこもったり、精神を患ったりしている人々には、立派な信仰の聖人や英雄は役に立たず、むしろ失敗者や追放された人々への神の処方箋の方が助けになる。との言葉に僕は共感した。

お休み時間に平山先生に、僕のイシュマエルについての持論をお話したところ、まるで水を得た魚のように、お互いに肝胆合照らし、平山先生も僕の意見に呼応して下さり、その会話で時を忘れてしまい先生のお休み時間をすっかり奪ってしまた事があった。それで僕はこのイシュマエルに関する持論に大きな手応えを感じたのである。

平山先生は心の病に取り組んでおられ、それに関しての著書も数多く出版されておられる。少し前、新聞にも書かれた「自死」に関する先生の記事を読んで大いに共鳴させられた。僕も9歳の幼少期に母を病気で失くし、22才のとき、祖母を自死で失った。僕がイシュマエルのことに気付きが与えられたのも、この若い時に経験した、悲しみ、心の痛みの痛切さを身にしみて覚えたことが、あるいは下地になっているかもしれない。イシュマエルの名前の中にすでに神の答えがある。

「神はわたしたちの心の叫び、声なき声、痛みや悲しみを聞いてくださる」のである。

(完)                       臼井 勲