ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

イシュマエル(3)

【イサクとイシュマエルをどう理解するか】

先回においてイシュマエルという名が欧米で忌避されている理由を探ってみた。欧米のキリスト教成立の歴史とイスラム世界との対立事情がイシュマエルを解釈するうえに投影されているのではないかというのが僕の推論であった。

それは聖書が本来伝えようとするメッセージを歪めているのではないかという疑問が湧いて来たのである。むしろその歴史過程の外にある私たち日本人の日本人的心情やセンスによって、このイシュマエルとイサクの関係を読み解く方が聖書本来の主張に肉迫できるのではないかと言うのが僕の思いである。

欧米の神学を極めた方々から見れば、僕などの素人の意見など片腹痛いという感じであろう。しかし僕なりに言わせて頂ければ、日本のキリスト教の牧師、聖書学者はバルトやブルンナーについては詳しくても、日本の文化や歴史、日本人の心底に流れる感受性や心理、その納得の仕方について、どれほどの研鑽を積んで来ただろうか。

「福音の土着」ということが叫ばれて久しい。イエス・キリストの福音が理知的に受け入れるだけでなく、心の深い琴線に触れて、心から納得し、悟るものでなければらないと思う。

【北森神学からイサクの意味するものを探る】

幸いにも僕は日本が世界に誇ることが出来る、独自の神学をうち立てた北森嘉蔵博士の神学に、若い時触れることができた。早稲田大学の4年生の時、大学の文化祭の特別企画で北森嘉蔵と亀井勝一郎両氏のジョイント講演「宗教と文学」を大隈講堂で聴いた。北森博士の肉声に接したことは、僕の人生で実に幸運であった。その時の話しはピリピ2:6-11からのもので、若い僕の心に福音の神髄が心底にしみわたるのを覚えた。以来、北森師の著書に親しんで来た。特に「神の痛みの神学」「日本の心とキリスト教」「自乗された神」などを精読した。中でも「旧約聖書物語」は神の痛みを根底にして、アブラハムとイサクのモリヤの山の体験を、イエス・キリストの十字架のあがないが、神の義と愛の交差し、成就する場として、日本人の心情からも深く納得を迫るものであった。

その本の中で最も僕を感動させた所は申命記22:6-7の神の命令「たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて子を取らなければならない。それはあなたがしあわせになり、長く生きるためである。」を北森師は引用され、主はこれほどまでに母鳥の心情を大切にされている。親の心の痛みに配慮されている。この聖書箇所は、神が痛みに敏感な感受性豊かな方であることを、われわれに示しておられる所だと師は指摘されている。この聖書箇所を発見された北森博士のセンスにも深い感動を覚えた。そんな小鳥の心にも配慮される神が、最も忌み嫌われたのがカナンの地方で専ら行われていた、モレク神へ、自分の子を供儀する礼拝であった。「またあなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ記18:21)と厳しく禁止しておられる。

この二つの聖句は、いずれも神の愛とあわれみ、それゆえの痛みを深く覚える心情を表わしている。その神が人間の罪を解決されるためには、御自分が最も忌み嫌われる異教の方法を採用されねばならなかった。それがモリヤの山で、アブラハムがイサクをささげる行為であった。それはゴルゴタの十字架にご自分のひとり子をささげられる行為に通底する。

その神の痛みを私たちに感じさせる実例の物語を北森師は提示されている。

それは士師記11章のエフタの物語である。遊女の子であったエフタは期せずして、イスラエルの指導者に選ばれた。彼は強力な敵、アモン人との戦いを課せられる。エフタは戦いの前に、主に誓願を立てる。「もしあなたがアモン人に勝たせてくださるなら、私が戦いから無事帰還したとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」と約束してしまうのである。やがてエフタは勝利の帰還をはたして、自分の家に帰ると、なんと自分のひとり娘がタンバリンを鳴らして踊りながら迎えに出て来たのである。エフタは彼女を見るや、「あぁ娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめした。」と言い、自分の着物を引き裂いた。エフタにとって思ってもいない悲劇であった。しかし神と約束した勝利のいけにえは果たさねばならなかった。ここにも神が忌み嫌われるはずの人身御供が表わされる。

北森師はこう解説される。一人娘を見て打ちのめされた父エフタの心は主なる神の心そのものである。神は人類を敵サタンの支配から解放するため、自ら誓願を立て給うた。しかし、はからずもそれは、御自分の独り子を犠牲として献げることに他ならなかった。そこに父なる神の痛み、深い悲しみがある。北森師は、このテーマは日本人なら最も理解できることとして、日本の伝統的文化である歌舞伎の演目「菅原伝授手習鑑」の中の「寺子屋」の段を挙げている。菅家の家来松王は、一人息子を菅原道真寺子屋で学ばせている。道真は謀られて謀反人にされてしまう。彼の一人息子菅秀才を捕らえて、殺して首を差し出せとの命が下される。松王は主人への義理(忠義)から、自分のひとり息子をその身代わりとして差し出す物語である。主人の息子、実はわが子の首に対面する「首実験」の場において、松王が妻に言うセリフ「女房喜べ。せがれがお役に立ったわやい!」しかし、つぶやく「せまじきものは宮仕え」と。

このことばは日本人であれば、義理の上での忠義の行為も、情においては忍び難い、心の痛みを、観る者も感応して涕泪(なみだ)をしぼる場面である。

アブラハムがモリヤの山でイサクを献げる心の痛み、神がひとり子をゴルゴタで献げた痛みを日本人は理解できる。

アザゼルのやぎとは誰か】

さて僕の本論に戻すと、このようにアブラハムとイサクの物語は、イエス・キリストの十字架の型として、古来から引用されて来た。ではアブラハムとイシュマエルはどうであろうか。ここで僕は最初の稿で指摘した、イシュマエルとイサクの物語の同等性と並列性に目を向けたい。北森師の影響を受けてレビ記を読み進むうちに、この創世記の記事と呼応すると思われた箇所にぶつかった。それはレビ記16:7-10である。

「アロンは、二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。」さらに、21-22節に「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であってもこれを全部それの上に告白し、これらをやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼のすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」

このアザアゼルのやぎは正にイシュマエルの姿ではないか。彼自身には何の咎もないのだ。主に女主人サラの利己的保身の動機、アブラハムの気弱さ、またねたみや虚栄心、ライバル意識、いつわりやあらゆる不合理や理不尽さ。つまりアブラハムとサラの不信仰故の罪の重荷を、少年イシュマエルの肩に負わせ、わずかばかりの食料と、皮袋いっぱいの水を与えられ、当然、疲労と渇きと飢えで荒野で早晩死を運命付けられているアザゼルの荒野に放逐されたのである。そしてその姿はイエス・キリストの姿でもある。あらゆる人類の醜い、汚れた罪咎が、ゲツセマネの祈りの時、イエスに負いかぶせられたとき、「父よ。どうかこのにがき盃をわたしから取り去ってください。しかしわたしの思いではなく御心のとおりにしてください。」とイエスは血の汗をひたたらして祈られたではないか。

またゴルゴタの十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが父よ。何故わたしを捨てられたのですか)」と悲痛に叫ばれたのではないか。人類の罪、わたしの罪がイエスの頭上に置かれた時、神は一とき我が子を見捨てられた。その悲しみの故に天地は暗くなったと記されている。その悲痛さの故に、エフタが自分の衣を裂いたように、あの神殿の分厚い至聖所の幕が上から下まで真二つに裂けたのである。そしてその裂け目から私たちは、はばからずして、神の聖所に入ることができたのである。

(4)に続く

 

イシュマエル(2)

【欧米人になぜイシュマエルの名がないのか?】

キリスト教がヨーロッパ、ロシア、アメリカに拡がっていき、欧米の人々は、生まれた子どもに聖書の中の人物からその名を引用して命名した。そして男性に限ってではあるが、好まれる名前のベスト10を挙げると

1、デイビッド(ダビデ)2、スティーブン(ステパノ)3、ポール(パウロ)4、マーク(マルコ)5、アダム 6、ロバート 7、リチャード 8、マイケル(ミカエル) 9、クリストファー 10,フィリップ(ピリポ)

だそうである。これを見ても、いかに聖書の人名が多いかがわかる。その他にもアブラハム、イサク、ヤコブ、ペテロ、ヨハネ等枚挙にいとまがない。しかしイシュマエルの名だけはない。皆無ということはなかろうと思い、以前から親しい何人かの米国宣教師に聞いてみた。「知人、友人にイシュメール(イシュマエルの英語)の名はあるか。あるいは生まれた子どもに、この名を付ける可能性はあるか」などの質問をしたところ、答えは「ノー」であった。「おそらく欧米人では決してこの名を子孫には付けないだろう」ということであった。なぜこれほど、この名前が嫌われ、避けられるのであろうか。

誰でも自分の子には好感のもてる名、評判の良い、縁起の良い名を付けるのが人情であろう。反面、そのイメージに反する名前は忌避されることになる。

少し前、日本でも自分の子に「悪魔」と命名して物議をかもした事件があった。結局、市役所が子どもの将来の為によからずと受理しなかった。

イシュマエルは物語の状況から、追放された者、のけ者、宿無し等のイメージを涌かせるためか、あるいは聖書の「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮す。」(創世記16:12)の預言が与えるイメージのためか。でもこれは読み方によっては、とても独立独歩の男らしい姿にも映る。

とにかく欧米ではイシュマエルの名はタブーであるようだ。しかし欧米を離れて中東のイスラム教圏では、この名前は名誉ある人気のある名前となる。「イスマエル・・・・」の名は、エジプト、パレスチナイラクなどのアラブ世界で、トルコやイラン、インドネシアなどのイスラム教世界ではよく目にする名前である。まるで「イシュマエル」の名は二つの世界で寸断されているように映る。そしてこの名の発祥であるユダヤ人の名にも、古い時代にはイシュマエルの名の人物が見られるが、ある時代からはなくなる。その分水嶺となる歴史的事件は7世紀に始まるモハメッドによるイスラム教世界の出現であろう。そして11-13世紀に亘る十字軍の聖地争奪戦争の中で、この二つの世界、キリスト教世界とイスラム教世界の対立、亀裂状態は決定的になったのではないだろうか。「イシュマエル」は同じ一神教の祖、アブラハムの長子としてイスラム世界の象徴となり、先祖となった。

そして「イサク」は同じアブラハムの正統の子孫としてユダヤキリスト教世界の象徴となり先祖となった。そしてイシュマエルの名は、ユダヤキリスト教世界から切り離された。

※この後、小説『白鯨』の主人公で語り手でもある名前を「イシュメール」としていた事についての説明がありましたがそれは省略します。

今でこそ傑作とされるこの文学作品は、当時は清教徒的世論の批判を浴びて、メルビルの作品は売れなくなり、作家生活は立ち行かなくなって没落してみじめな生涯を彼は終えることになった。今は亡き清水 氾先生(奈良女子大教授で英語学者)の解釈によれば、この白鯨は、メルビル自身も影響を受けていたかもしれない当時流行の理神論の神の象徴であると言う。この神は創造主ではあるが、人間の運命には無関心であると説かれていた。その神に立ち向かったエイハブ(アハブ)そして生き残ったイシュメール(イシュマエル)。その名前こそが当時の清教徒たちの心理を逆なでしたものだったかもしれない。たった一人欧米人の中で、小説の中とは言え、その名が付けられたイシュマエル。これでさえタブーを犯すものとして嫌悪されたとなれば、今日尚、欧米の神学の影響の中にある日本の学者や牧師たちが、この名にびびるのは無理もない。

しかしぼくは思う。これは後世の歴史の出来事、十字軍の運動などはヨーロッパに大きな影響を与えた。これによってヨーロッパに入って来たイスラム文明。この中には古代ギリシャやローマの文化や文明が高度に保存されており、これをもとにヨーロッパのルネッサンスが起こったとされている。

しかし十字軍の動機や原因は聖地を解放するというのは口実で、実際はイスラム諸国の富と物への貪欲さであり、しばしばイスラムへの刃は近隣の弱いユダヤ人に向けられ、彼らを虐殺し、金品を強奪した。この十字軍運動が決して正しい信仰的動機や正しいイエス・キリストの福音理解に基づくものではない。これによってもたらされたキリスト教イスラム教との敵意とか偏見が歴史を遡行して原典の聖書解釈に影響するとしたら、それは果たして正しいことだろうか。

未だに米国のキリスト教会の一部が堂々と、キリストの福音伝道にクルセード(十字軍)と言う用語を使用するのは理解できないことだ。これは一種の歴史的音痴か、自分たちだけがいつも正義であるというパリサイ的傲慢さかのどちらかであろう。

むしろそんな十字軍やユダヤ人迫害の歴史的体験や伝統のない、私たち日本人がふつうの日本人的感性によって、じかに原典の聖書を先入観や偏見なしに、白紙のままの心で読んだときの感動や印象の方が、より神が言わんとしておられる真髄を汲み取ることが可能なのではないだろうか。(3)に続く

イシュマエル(1)

今朝はベエル・シェバの荒野をさまよい歩くハガルのような心境で、彼女が声をあげて泣いたように私も泣いた。(創世記21章14-16)

神学校で教えて頂き心に残っていた「イシュマエル」についての説教を思い出し、ここに残しておきたいと思います。書き起こしつつ神の愛に涙し、私の心の叫びを聞いて下さる神に感謝しています。

【聖書研究余録 聖書の中の気になる人物「 イシュマエル 」】 臼井 勲

創世記の講解説教を永く続けて来た。創世記の中に登場する人物はそれぞれ個性豊かでつきない興味を抱かせる。中でも僕にとってイシュマエルという人は特に僕の心に何事かを訴えかけるものを持っている。そして、ただ単にこの人物の生涯を考えるだけでなく、聖書の中で彼が占める役割、あるいは長いキリスト教史の中に、彼が占める問題点。これは僕の生涯の研究課題になるであろうと思う。

まだJTJ神学校で学びながら母教会の平塚聖契教会で、月一回の説教奉仕をさせて頂いていた頃、15年ほど前になるが。このイシュマエルが出て来る創世記21章に来た時、イシュマエルについて聖書の注解や講解、説教集等と調べていて、このシュマエルに対する、何とも言えない冷淡さを感じた。ある方は全く無視した形を取っていたし、ある方はタブーを恐れるかのように、おっかなびっくりの態度が感じられた。「いったいこれは何だ!」という思いを持った。

僕は説教を準備するとき、とにかく原典である聖書を、真っ新な頭で、先入観や他の人、それが高名な学者や説教者であっても、その神学や説教を脇に置いて、今、神が自分に語られている手紙を読むように、あるいは初めて新聞の記事を読むように聖書を読もうと心掛けて来た。そうすると今まで見えなかったものが見えて来ることがある。

そのように創世記の16-17章、21-22章を読んでみると、イシュマエルとイサクに関する記事がほぼ等しい長さ、分量で書かれているのに気付いた。何でもない発見のようであるが、中々重大な意味がある。聖書を読んでいると重要な記事は長く、内容豊かに描かれ、そうでない記事は簡単に数行で記されている。「某は何年生きて、何歳で死んだ」のように。

イシュマエルもイサクも共にアブラハムの子どもである。そして聖書は昔は羊皮紙(パーチメント)の巻物に書かれていた。その巻物を開くと、特に21-22章でイシュマエル、イサクに関する記事は21:22-34に唐突に出て来る。アブラハムがアビメレクからベエル・シェバの井戸を買うという物語の記事をちょうど扇の要のようにして左右にほぼ均等に振り分けられているのである。

【声なき声を聞かれる神】

創世記16章には、ハガルの物語が語られている。アブラハムの正妻サラに、アブラハムの世継ぎが生まれるという約束が神の使いによってアブラハムに語られるのを、サラはテント越しに立ち聞きして、夫と自分の高齢の故と生理的にも不可能であることを思って、不信仰の笑いをもらす。それは神の約束と聖なる計画を「嗤う」行為であった。

そして神の約束を待てなかったサラは当時としては当たり前で常識的であり、合法的でもあった方法で、自分の子を得ようと策をめぐらす。それは自分に仕える若いエジプト人奴隷ハガルによって子を得るという方法であった。つまり自然的生殖によらず、法的に母になる手段であった。一時的な公認の夫の浮気という不快を忍べば、自分は母になれると思い込んだ。これは神の約束を待つ「先ず神の国と神の義を求める」のではなく、己の知恵を第一にするものであり、神が定めた人倫の法にも適わないものだった。サラにとってハガルは人格的な存在ではなく、いわば生む機械に過ぎず、単なる使い捨ての道具であった。その道具、マシーンに過ぎないと思った者が妊娠した途端、自分が見下されるという屈辱を味わった。誇り高いサラは我慢がならず、ハガルをいじめぬいて逃げ出さざるを得なくしたのであった。ハガルは生まれ故郷エジプトへと向かうが、主なる神は荒野の井戸の傍でハガルに会い、やがて生まれる子を祝福し「イシュマエル」と名付けよと主御自身が命名され、その子孫の祝福を約束された。主御自身が命名された例はイサク、サムエル、ヨハネ、イエスの他にはないほど希少である、それだけ重大な名前であることを私たちは心する必要があるのではないか。そして主はハガルに、主人のもとに戻るよう促された。

彼女は主なる神のことばに従い理不尽な女主人のもとに帰るのである。神は、この理不尽なアブラハムとサラよりも奴隷のハガルと胎内の子イシュマエルに多大の同情を向けておられることが感じられるのである。そしてイシュマエルは生まれ、アブラハムの長子として育つのである。

イシュマエルが15才になった時、主の約束の通り、サラに待望の息子イサクが生まれる。イサクの2歳の祝いが盛大に催された時、イシュマエルがイサクをからかっている姿をサラは目撃する。人間は自分が日頃思っている幻想や恐れを事件として投影するものだ。ただの兄弟同士のふざけ合いを、いじめと取る。「写真は正直だ」などとよく言われるが、自分もよく写真を撮るものとして、作意によりどのように撮ることもでき、撮った人のコメントが付けば、その映像が世界を動かすことだってある。

「二人以上の証言がなければ証拠として取り上げてはならない」と別に聖書は云っている。

サラの故意の証言は夫アブラハムを言いくるめ、ハガルとイシュマエルを遂に追放することに同意させてしまうのである。「めん鳥すすめて、おん鳥ときをつくる」である。しかし、これが初めから神の計画のように大手を振って行われることに人間のあさましさ、罪深さがある。これは神の計画ではない。自分がまいた結果である。「もう用は済んだからいらない。ポイ!」のようにハガル、イシュマエル母子はわずかの水と食料を持たされ荒野に遺棄された。ハガルが目指す故国エジプトまで男のキャラバンで一週間、女子共では10日以上の道程である。アブラハムが苦しんだという描写はないが、苦しんだはずである。後のイサクの場合と同様、神に激しく祈り、神からの赦しと保障を頂いた後の決断であった。

【イシュマエルの心身症

イシュマエルはこの時16歳になっていた。この歳の少年の体力は大したものがある。山登りや水泳でも大人以上に力を発揮し疲れを知らない。しかしこの場面、母のハガルより、彼の方が先にまいってしまっている。ハガルは息子の死ぬのを見るに忍びず、絶望の中で泣いた。なぜ母より体力のある少年イシュマエルが声も上げられず、死ぬばかりになったのか。それは彼が「父に捨てられた」という深い悲嘆に心がズタズタに裂けた為ではなかったか。人は心のダメージが肉体に現れるのである。

イシュマエルは昨日まで法的にも習慣的にもアブラハムの長男として、皆に傳ずかれ、尊厳を持って遇されて来た。それが一夜にして野良犬のように放逐されたのである。心と魂の痛みが体に出ないわけがない。もう最後!と思った時、神の声がハガルに響く。

「神は少年の声を聞かれた。」不思議なことに、声を出して泣いたのは母ハガルであって、息子イシュマエルではない。彼は息も絶え絶え、声も出ない。しかし主はその少年の声なき声、叫びを聞かれたのだ。

「父よ。なぜ私を捨てられたのですか!」十字架上の神の子イエスの叫びと同じ声を。

さらに神は「(あそこにいる)少年の声を聞かれた」からだと再び言われた。

「この少年の声を聞かれた」はヘブル語で「イシュマエル」である。神は「イシュマエル」「イシュマエル」と二度呼ばれた事になる。聖書の中で二度個人名を繰り返すことは最も重要な神の関心事に限られていた。主は「アブラハムアブラハム」と声をかけ。「モーセモーセ」と言われ、「サムエル、サムエル」と少年サムエルを呼ばれた。我に返ったハガルは自分のそばに泉があるのを発見した。そして母と子は助けられた。

(2)に続く

かおり

 「すると、香油のかおりが家にいっぱいになった」(ヨハネ12:3)  

 つぼを砕き、香油を主に注いだ時、なんとも言えない良いかおりが家にみちあふれました。すべての人がそのかおりをかぐことができ、それに気付かない人は、一人としてありませんでした。これは何を意味するのでしょうか。

あなたが真に苦しみを味わった人・・・主と共にあって自らの限界に行き詰る経験を主と共に通り、神に「用いられる」ために、自由の身になろうとする代わりに、喜んで主の「囚人」となり、ただ主にのみ満足を発見することを学んだ人・・・に出会う時にはいつも、すぐさまあなたは何ものかに気づきます。その時、直ちにあなたの霊的感覚は、キリストの芳香を感じます。何ものかが砕かれ、その人の生涯において何ものかが破られたのです。そのためあなたは、かおりを感知するのです。

かの日、ベタニヤにおいて家中に満ちたかおりは、現在もなお教会に満ちています。マリヤのかおりは、決してなくなることがありません。主のためにつぼを砕くときには、ただ一撃しか必要でありませんでした。しかしその一撃と香油のかおりとは、永久に残るのです。

私たちはここで、私たちが何をなし、何を説教するかを語っているのではなく、私たちはいかにあるべきかということを問題にしているのです。おそらくあなたは、主ご自身の印象を他の人に与えるために、自分を用いて下さるようにと求めてきたかもしれません。このような祈りは、説教したり教えたりするための祈りではありません。むしろ、他の人との接触において神を知らせ、神の臨在、神の意識を与えることができるようにとの祈りです。しかし愛する友よ、主イエスの足下においてあらゆるものを、しかり最も貴重なものでさえも砕いてしまわなければ、あなたは神についてのこのような印象を他の人々に与えることはできないのです。

しかし、一たんこのような点に到達したならば、あなたは外面的にみて大いに用いられていても、いなくても、ほかの人々の中に渇きを起こさせるために、神によって用いられ始めるのです。人々はあなたの中に、キリストを感知するでしょう。主のおからだに連なっている最も小さな聖徒でも、それを感知するでしょう。それらの人は、ここに主と共に歩いた人、苦しみを受けてきた人、自分勝手な行動を取らなかった人、しかも主のためにすべてを明け渡すとはどのようなことか知った人がいる、と感じ取るでしょう。そのような生涯が、人々に感化を与えるのです。そしてその感化は、人々の心の中に渇きを生じさせ、その渇きは神の啓示によって、キリストにある満ちあふれたいのちに入る所まで追求していこうとの意欲を、人々に起させるのです。

神は私たちは、まず第一に説教したり、あるいは神への奉仕をしたりするために、この地上に置いておられるのではありません。神がこの地上に私たちを置かれる第一の目的は、人々の心の中に神に対する渇きを起こさせるということです。つまりこのことが、説教のために土壌を耕すことであるのです。・・・・(中略)・・・何よりもまず、自分に欠けたものがあるとの意識が生じてはじめて、真のみわざがその人の生涯の中で開始されるのです。しかし、それはどのようにしてなされるのでしょうか。私たちは強制的に人々に霊的欲求を植え付けることはできません。私たちは人々に空腹を強制するわけにはいきません。飢え渇きは、造られるべきものです。そしてその渇きは、神の印象をたずさえている人によってのみ、他の人のうちに造られるのです。

私はいつも、かのシュネムの大きな婦人について考えるのが好きです。彼女は、だれであるかはよく分からないけれども、自分が見た預言者について、「いつもわたしたちの所を通るあの人は確かに神の聖なる人です」(列王下4:9)と言っています。彼女にこのような印象を与えたのは、エリシャが言ったことでもしたことでもなく、彼の存在自体であったのです。彼がただそこを過ぎ去ることによって、彼女は何ものかを感知することができたのです。すなわち見ることができたのです。私たちの回りの人々は、私たちからどのようなものを感知しているでしょうか。私たちは自分が利口だとか、才能があるとか、自分はこれこれのものであるとかの印象を残すかもしれません。しかしそうであってはなりません。エリシャによって残された印象は、神御自身の印象だったのです。

私たちが人々に与える感銘というこの事柄は、一つのことにしぼられます。すなわちそれは、神のみこころを満足させるということに関する私たちの内における十字架の働きです。それは、わたしが神の満足のみを求め、そのために払う犠牲の価がどのように大きいかについては考えないことを要求します。すでにお話した婦人宣教師が、ある時非常に困難な事態に立ち至ったことがあります。それは彼女にとって、すべてを費やさせるほとのものでした。その時私は、彼女と一緒にいたので、共にひざまずいて涙の中に祈りました。「主よ、あなたのみここころをお喜ばせすることができるために、私は喜んで自分の心をも砕きます。」このように傷心の物語を話すのは、多くの人々にとって、単なる感傷としか響かないでしょう。しかし、特別な環境に立たされていた彼女にとっては、まさに断腸の苦しみであったのです。

キリストのかおりを放ち、ほかの人の生涯に欠乏感を起こさせ、彼らをして主を知るために行動を起こさせるためには、進んで明け渡すこと、および一切のものを主に注ぐということがなされなければなりません。これこそ、すべてのものの中心であると私は考えます。その一つの目的として、福音は私たち罪人の内に、神の御旨を満足させる状態を造り出すことを目指しています。しかし、主がそのようなものを受け取られるためには、私たちはすべての持ち物をもって、また全存在をもって主のみもとに行き・・・私たちの霊的経験における最も貴重なものすらもたずさえて・・・次のように主に言わなければなりません。

「主よ、私は喜んであなたにこれらすべてのものを明け渡します。単にあなたの働きのためだけではなく、あなたの子らのためではなく、他の何もののためにでもなく、ただあなた御自身のためにこれらのものを献げます!」

あぁ、自らがむだになることの祝福よ!主のためにむだになることは、祝福されたことです。キリスト教会におけるなんと多くの名の知れた人たちが、このことを知っていないことでしょう・・・私たちの多くの者は、十二分に用いられてきました。むしろ用いられすぎているというべきでしょう・・・が、私たちは、神に対してむだになるということがどんなことか知らないのです。私たちは絶えず動いていることを欲しますが、主はむしろ、時には私たちが牢獄に入ることを望まれるのです。私たちは使徒の伝道旅行について考えます。しかし神は、御自身の最大の使者たちをあえて獄につながれるのです。 

「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである」(第二コリント2:14)

「すると、香油のかおりが家にいっぱいになった」(ヨハネ12:3)

主が私たちに、いかにして主をお喜ばせするかを学ぶために恵みを与えてくださいますように。パウロのように、私たちがこのことを最高の目的とした時(Ⅱコリント5:9)に、福音はその目的を達成したことになるのです。 

そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(Ⅱコリント5:9) 

 ウォッチマン・ニー 「キリスト者の標準」 【福音の目的・・・かおり】

四福音書における主の御姿

神は大きな恵みをもって私たちに四つの福音書を与えてくださいました。一つの福音書のみでは、主イエスの栄光を充分に現すことができません。主は四つの福音書をもって私たちにご自身の生涯を示してくださいました。四つの福音書はそれぞれ異なる面をもっていますから、私たちはこれによって初めて主の全き栄光を見ることができます。

たとえばナポレオンの人物を知ろうとすれば、その戦争の様子を見ることによって大将としての彼を見ます。その立法行政がどうであったかを研究することで、皇帝としての彼の栄えを見ます。また私人としてのナポレオンを知ろうとするならば、彼の家庭の様子を探らなければなりません。

このようにイエスはご自分の全き栄光を示すために、私たちに四つの面を残してくださいました。四つの福音書の目的は何でしょうか。ある人はそのことを考えないで、四つを一つに組み合わせて主の生涯を漏らさずあらわそうとしました。これは確かに有益なこともありますが、それと同時に大きな不利益をももたらします。聖霊は主イエスの御生涯を四つの書物に記させなさいました。同じ一つの行為が繰り返し記されているのは、ただ重複しているということではありません。それぞれが異なる面を示そうとするためです。

たとえば、主の死について見ましょう。レビ記の初めに四つのささげ物が出て来ます。これは四つの面から主を現したものです。すなわち、主の死は芳しい全焼のいけにえの香りです。神を喜ばせる犠牲です。神の前にのろわれた犠牲、そして神より追放された犠牲であることを見ます。主の死を深く味わおうとするならば、このように種々の面を研究しなければなりません。主の四つの生涯は、異なる四つの意味を教えるのです。

最も幸いなことは主を知ることです。人は自分が無学であることを恥ずかしく思います。けれども実は、天の宝を知らないことほど恥ずかしいことはありません。最も素晴らしい学問は何かというならば、それは主を知ることです。天における学問の中心は主イエスです。

聖書の中で最も美しい部分はどこでしょうか。旧約聖書にも新約聖書にも、福音書にも書簡にも黙示録にも、主が示されています。けれどもそのうち主のことが最も明白に示されているのは四つの福音書です。もちろん、聖霊によるならば、聖書の中のどこにでも主イエスを見ることができます。とはいっても、聖書の神髄は四つの福音書である、四つの福音書の神髄はヨハネ福音書であると言えるかもしれません。

四つの福音書は、それぞれ独自の特別な使命を帯びています。ヨハネの黙示録4章7節は四つの福音書を示していると二世紀ごろから言われていますが、これは誤りではないと思います。四つの福音書を研究するうえで、これは真実のように思われます。

 

第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。(黙示録4:7) 

ヨハネの黙示録四章七節はもともとケルビムの四つの形を示しています。ケルビムは目に見える形で神の力を示しました。ですから、時として天使はケルビムです。人もまたケルビムです。そして神の子もまたケルビムです。

ここに第一の生き物は獅子のようであるとありますが、マタイの福音書に、主イエスは獅子として示されています。ヨハネの黙示録五章五節に、主は「ユダ属から出た獅子、ダビデの根」とあります。そのように獅子は常に王を示します。すなわち、マタイの福音書に「獅子」とあるのは、王を示すのです。ヨハネ福音書十九章十四節でピラトがユダヤ人に「見よ、これがあなたがたの王だ」(口語訳)と言いましたが、私たちはマタイの福音書によって主イエスが王であることを見たいと思います。

マタイの福音書二章二節で、東方の博士たちが王をたずねて来たとあります。マタイは、主イエスが彼らの求める王であると記しました。マタイの福音書五章には、主が王のように命令を与えておられるように読むことができます。これは天国の憲法です。モーセの律法ではこう言われているけれども、「わたしはあなたがたに言います。」と主は王の権威をもって言われました。またマタイの福音書十一章二十八節で、「わたしのところに来なさい」とお命じになりました。このように天国を示し、これを明らかにし、最後には、「わたしには天においての、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(28:18-20)と大きな権威をもつ王のことばでこの福音書を結ばれました。

マルコの福音書では、主は第二の生き物である雄牛のようです。雄牛は、忍耐をもって人のために働く動物です。イザヤ四十二章一節に、「わがしもべ・・・を見よ」(口語訳)とあります。雄牛は「しもべ」を示します。このように、マタイの福音書には「王を見よ」、マルコの福音書には「しもべ(すなわち雄牛)を見よ」とあります。主は神のしもべとなり、また人のしもべとなり、神と人とのために力を尽くされました。私たちはマルコの福音書において、命を惜しまずに労されたしもべとしての主イエスを見るのです。

ルカの福音書に現された主は、第三の生き物で「人間」のようです。すなわち、そこに「人の子」である主イエスを見ます。ヨハネ福音書十九章五節で、ピラトは人々に向かって「この人を見よ」と言いましたが、ルカの福音書ではこのことを見ます。マタイの福音書の初めには王の系図があります。ルカの福音書の三章では、人としての主の系図を見ます。旧約において、多くの預言者は人である神と交わることができませんでした。けれどもルカの福音書で、人となられた主を見ます。どんな人でも、人となられた主と交わることができるのです。

ヨハネ福音書には、「鷲」のようなお方として主が現されています。天に属するもの、神の子である主イエスが現されています。ですから、ヨハネ福音書には、地に属する主の系図がありません。その最初にある系図は、王ではなく、人ではなく、父母も祖先もない、永遠の初めより存在される道である主、神の系図です。主はいかなる御方ですか。三章十三節には「鷲」の姿が現れます。「天から下った者」とあるのです。けれども、常に天におられる飛ぶ鷲です。ですから、主はまた天使のようでもあります。ご自分を父より遣わされた者であると言われました。ヨハネ福音書はその意味が最も深遠であると言う人もあります。けれども、さらに大きな悟りを啓かれるならば、ほかの福音書にも同じ深い奥義が示されていることを見るかもしれません。ヨハネ福音書には黄金が明らかに現されています。ほかの三つの福音書にはこれが幾分か隠されています。

さて、主はだれに福音書を書かせたでしょうか。主は各人の性質に応じてこれを書かせられました。マタイは帝国あるいは王国の取税人でした。それで主は彼に王の福音を記させました。マルコはペテロの僕です。それで僕である主を示しました。ルカは異邦人で、広く人類という思想をもっていると思われます。それで、彼は人の子としての主を示しました。また、天の父のふところにあるお方を書くには、主イエスのふところにいたヨハネが適当でした。神がこのように四種の福音書を与えてくださったのは、主の栄光を四つの面より見せるためでした。私たちを、この主に倣わせるためです。

四つの福音書を研究することは実に大切です。四つの福音書の四つの面は、また私たちの経験です。主はそのように現れました。私たちもまたそのように現れなければなりません。マタイの福音書における主のように、私たちは主によって王とされました。悪魔の上に立って力ある者でなければなりません。ヨハネの黙示録一章六節に、王とされる約束があります。(新改訳欄外注参照)また、王となって悪魔の上に立って力ある者となったときには、どのようにして神と人とに仕えるべきかを学ぶことが大切です。マルコの福音書に示された主に従って、人々のうちにあって全き人であるべきです。主は深く罪人と交わられましたが、絶えず父の恵みに浴して潔くあられました。汚れた世の中にあっても汚されませんでした。私たちもこのように完全な者でありたいと思います。そして、すでに全き人であるならば、またヨハネ福音書に示されているように、神の子また天使であらなければなりません。神より遣われた使者、天にある者、イザヤ四十章三十一節のように「翼をかって上る鷲」のようにならなければなりません。

また、四つの福音書の順序も偶然ではありません。進む道筋です。第一より第二は、恵みによって進むのです。「王を見よ」、これは第一です。「しもべを見よ」、これは第二です。すすんで人である全きイエスを見、またすすんで神の道である主を見ます。私たちの立場はどこにありますか。私たちは主を見て、だれであるとしますか。マタイの福音書十六章十五節の問いかけは大切です。その答えによって、その人の信仰を知ることができます。ある人は「王の王、主の主」としてのイエスを見ます。ある人は、人のため神のため自らを捧げた僕としての主を見ます。ある人は、人の子とし、また神の子とします。けれども、私たちは四つの面から見ることによって、全き主を知らなければなりません。(バックストン ヨハネ福音書講義上 緒論 第一)

 

生まれたばかりの乳飲み子のように

あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、 Ⅰペテ2:1-2

最近、部屋替えをしましたが、準備に時間がかかりました。部屋を移るだけでなく、ガラクタを処分してすっきりと新たな生活を始めたかったからです。

捨てる物、献品する物、リサイクルする物など、分別は骨の折れる仕事でしたが、ご褒美は美しい部屋です。そこで生活すると思うとワクワクしました。

ある現代語訳聖書ではペテロの手紙第一2章1節は

「家を掃除しなさい。悪意やごまかし、ねたみ、悪口を箒で掃き出してきれいにしなさい」

ですが、そのみことばが新鮮に響きました。

まず、キリストを信じて新生したという宣言があり(1:1-12)、 

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて生ける望みを持つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3) 

その後に悪い癖を捨てなさいという促しがあるのは、興味深いことです。

信仰の歩みが乱れたり、純粋な愛が無いと感じたりしても、自分の救いに疑問を抱いてはいけません。救われるために変わるのではなく、救われているから変わっていきます。 

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。(Ⅰペテロ1:23) 

キリストを信じて新たにされたのは真実ですが、悪い癖や習慣が一夜で消えるはずはありません。ですから、毎日、「家を掃除して」

・人を愛すること

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から愛し合いなさい。(Ⅰペテロ1:22) 

・成長 

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(Ⅰペテロ2:2) 

を妨げているものを捨てましょう。

そうするなら、新しくきれいになった場所で、キリストの御力といのちによって、霊の家が築かれていくという経験をします。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(Ⅰペテロ2:5) 

— Monica Brands

天の父よ、主イエスを通してあなたが用意しておられる 新しいいのちを感謝します。日々、きよく新しくされることを 願って、あなたを求めていけるように助けてください。私たちは日々、自分の悪癖を退け、 イエスにある新しいいのちを体験できる。
あなたは未来を変えられる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

上にあるものを求めなさい

★今日のみ言葉★
+++++++++
「心引かれるもの」

今何か、心引かれているものがありますか。
今風の言い方をすれば、今、ハマッテいるものが何かありますか。
そのような人に、今日のみ言葉は少しキツイなーと思われるかもしれません。
=========
コロサイ3:1~2
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。
そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。(新共同訳)
=========
若い時ならいざ知らず、長い人生、甘いも辛いもすべて味わい尽くしてきたような老後の生活では、もう地上のことに心引かれるものは何もありません、と言える人はどのくらいいるでしょうか。
地上のことに心を引かれているクリスチャンたちが初代教会にも結構いたようです。
だからこのように言われているだと、想像できます。
この地上に心引かれるものが、2000年前に比べて今の時代の方が、はるかにいろいろとあるのではないでしょうか。
その点では、初代教会のクリスチャンたちよりも現代のクリスチャンたちの方がもっと上にあるものを求めることが難しくなっています。
今の時代は、お金さえあれば、ほとんど何でも手に入ると思えるからです。
どう思いますか。

 

+++++++++
★今日のみ言葉★
+++++++++
「上にあるもの」

前回のみ言葉を覚えていますか。
上にあるものを求めなさい、というみ言葉でした。
では、上にあるものとは何でしょうか。
=========
ヤコブ 3:17
しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。(口語訳)

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。
憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(新共同訳)

But the wisdom that is from above is first pure, then peaceable, gentle, willing to yield, full of mercy and good fruits, without partiality and without hypocrisy.(NKJV)
=========
上にあるものが何であるかが分かりますね。
ここでは知恵と言われています。
知恵と言えば、頭の働きのようですが、上からの知恵は、どちらかと言えば、心に触れるものです。
平和(平安)、寛容、温順、あわれみをすでに経験しておられる方は、それは上からの知恵であると受け止めていますか。
そこには偏見や偽善的なものはありません。
聖書の中で、「新しく生まれる」という言葉がありますが、あそこは「上から生まれる」とも訳されているところです。
この地上のもの以上に上にあるものを求める、その人は上から生まれた人だからです。
どう思いますか。

浜崎英一