ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

罪を罪と感じないこと

三浦綾子さんの「光あるうちに」の中に

最大の罪とは、「罪を罪と感じ得ないこと」 とあった。

それは人が「自分の罪を計る物指し📐」と「人の罪を計る物指し📐」と2つ持っているからで、人には厳しく自分には甘いので、自分の罪には気付きにくいというものだ。
この自分に都合のよい計りが自己中心のあらわれであり、罪の元である。

例えば、子どもが花瓶を割ったら酷く叱るのに、自分が割ったらちょっと舌を出した程度で、自分の過失は赦し、子どもを叱る時のようには自分を叱らない。

ある人が車で子どもをひいてしまった。急に飛び出して来た方が悪い、子どもをよく躾けていなかった親が悪いと言っていた。
ところがその後、自分の子どもが車にひかれて死んだ。
その人は半狂乱になり、「こんな小さな子どもをひき殺すなんて」と運転手に食ってかかり殴りつけた。
自分が子どもをひいた時は相手の親が悪く、自分の子がひかれた時は、ひいた運転手が悪い。

三浦綾子はこの人を笑うことはできないと言っている。
これは私達人間の赤裸々な姿で、私達は自分の罪が分からないということでは、この人と同じであると言っている。

「自分に都合の良い計りを持っている」 これが自己中心のあらわれであり、罪の元である。
自己中心な人間は、自分の考えに拍手喝采してくれないものを憎む。
自分が悪口を言う時に、共に悪口を言わぬ相手を嫌う。
自分が怠ける時、共に怠けない友を疎む。
酒を飲む人間は飲まぬ人間を軽蔑する。
つまり自分の共犯者でない者は嫌いなのだ。
考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、
正しく聖い存在は誰か。
それは神である。
だから自己中心であればあるほど、神を嫌う。
神を見ようとはしない。神を無視してやまない。
「神のほうを見ない」これが原罪である。

その他、泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか?
牧師は説教の中で「悪口の方が罪深い」と言った。
大事にしているネックレスが盗まれたとしても
「高価なものだったのに惜しいことをした」という痛み程度にとどまる。
泥棒に入られた為に自殺した話はあまり聞かない。
だが人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年少女の話は時折聞く。

私達の何気なく言う悪口は、人を死に追いやることもある悪の力だ。
泥棒などのような単純な罪とは違う。
もっと泥々した黒い罪だ。
人を悪く言う心の中にとぐろを巻いているのは何か?
敵意、妬み、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが、
悪口、陰口となってあらわれるのだ、
この世に悪口を言ったことのない者は無いに違いない。
それほど私達は一人残らず罪深い人間なのだ。
にもかかわらず、私達はその罪の深さに胸を痛めることは甚だ少ない。
「罪を罪と感じないことが罪だ」と書いた。
こう書きながら、わたしは、私の罪に対する感覚の鈍さに慄然としてくるのである。
三浦綾子さんは書いている。

 

今朝の通読箇所

※しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。(マタイ15:18.19)