ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

我が家に飾ってある十字架

我が家の壁に飾ってある十字架

 

(上)ブログを通して知り合った クレイ作家かなさんの作品

さいたま & 神戸 クレイフラワー クレイケーキ スイーツデコ 少人数制 子連れOK happy*rose*time*

(下)同じくブログを通して知り合った ガラス作家 grapevineさんの作品

Glass ぶどうの実

 

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生まれ変わった人に対する三つの事実☆

生まれ変わりを体験したパウロはローマ7章14節以下で自分の中に三つの事実があることを確認しています。
 
1、私のうちには罪が宿っていること(17,18,20,23,24節)
2、私は善を欲してはいるが、それをなすことができないということ(19,22節)
3、私は悪を行っているが、それは自分がそう望んでしているのではないということ(19節)
 
14∼25節の間には「私」ということばが25回以上も出てきますが、
この私という言葉は未信者を指しているのではなく、信者を指しているのです。
7章は私たちに、信仰に入った人の本当の姿を示しているのです。
 
パウロのように、神さまの望んでおられるとおりに自分の本当の姿を認めた人は幸いです。
生まれ変わった信者は、心から良いことをしたいと望んでいますが、彼にはそれができないのです。
ですから人は、自分の心の中が引き裂かれて、悩むのです。
それは、自分のしたいことが実際にはできないからです。すなわち信者の心の内に住んでおられる御霊の力と、同じく信者の心の内に根付いている罪の力との戦いであるということができるでしょう。
主イエスの望んでおられることは、信者が一切の妥協を排して、ご自身に従ってくることです。しかし、信者にはそれをする力がありません。ですから、信者は、主イエスに従っていこうとすればするほど、失望し、落胆して力を落としてしまうのです。
このようにまじめに努めようとする信者の結果は、7章24節にパウロが言ったように、「私は本当にみじめな人間です。」という叫びとならざるをえないのです。
このように欲しながら実際に行うことのできない人は本当にみじめさを経験します。
 
しかし、その状態にととまり、がっかりしてしまう信者が何と多いことでしょうか。
これらの信者たちは、ただ自分の罪が赦されたということと、神との平和が与えられているということだけが全てであると思い、聖書には喜びや勝利についても書いてあることを知りながらも、実際には自分のみじめさを悩み続けて、7章に書かれているようなみじめな生活を一生続けていくのです。
 
けれども、主イエスは私たち信者をこのようなみじめな生活に導かれるために、私たちを救われたのではなく、私たちを「圧倒的な勝利者」にするために私たちを救ってくださったのです。
 
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んで下さらないことがありましょう。
 
しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これら全てのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:32,37)
 
この14∼25節までの間で、私たちは私たち信者が引き裂かれた心の持ち主であることを教えられます。私たちの内には、罪が住み付いており、この罪が私たちの肉を通して私たちの魂に戦いをいどんでいるのです。
私たちの内に住みたもう御霊は、主イエスに対して「しかり」と応え、私たちの内なるものは「否」と叫んでいるのです。ここに私たちの心の戦いがあるのです。
この戦いは信者にとって一生続けられる戦いです。
新しく生まれ変わった人の中には、やはり罪の性質が残っているのです。
 
このことを聖書ははっきりと教えています。
 
この事実を否定する、いっさいの教えは誤った教え、すなわち異端です。人間の中から罪を完全に取り除こうとすれば、人間のいのちを取り去らなければ不可能です。しかし、主イエスは私たちからいのちを取り去ることを望んでおられるのではなく、私たちをご自身の道具として用いられようと望んでおられるのです。
 
 

クリスチャンは2度破産しなければいけない。

 

3つの重要な要素
① 人間は神のみ姿に造られていること。
② 人間は、罪によって堕落してしまっていること。
③人間が善をなす力を全く持っていないということ。
 
ローマ人への手紙7章でパウロは「私はかつて律法なしに生きていました(9節)」
と言っています。誰でも、ごく幼い時には、律法なしに生きているものです。子どもは本能的に生きており、何でも思いつくまま行動します。おなかがすけば乳を欲しがりますし、疲れるとすぐに寝てしまいます。気分が悪くなると泣きだします。子どもは律法というものを持っていません。しかし子どもは大きくなると、ある日、母親の「~してはいけません」という命令の声を聞くようになります。
子どもはして良いことと、してはいけないことがあることを知るようになります。
母親の言っていることがいくら良くて正しいであっても、子どもはそれに対して反抗しようとするものです。母親の戒めの声を通して、子どもの中から悪い性質が、つまり罪の性質が明るみに出てくるのです。
これと同じように、正直な人は、律法を通して自分の内にある暗い性質が明るみに出されてくるのを認めるでしょう。
 
人間は頭の先から足の先まで汚れたものであり、不真実なものであり、自己中心的なものです。このように人間は罪の奴隷ですから、彼らは不幸になるのです。
しかし、律法は鏡のように、人間の罪の汚れた状態を示すだけではなく、いわば道しるべとして、主イエスに至る道をも示しているのです。
 
エスに向かって次のように心から祈る人は、必ず新しい生まれ変わりを体験するでしょう。
 
「私は罪を犯しました。私は汚れたものです。私は不真実なものです。私は自己中心的なものです。私は心から生まれ変わりたいと願っています。私は、あなたが私のために血を流して下さったことを心から感謝しています。どうぞ、私の神、主になってください。」このように祈る人は必ず救いの体験を与えられます。
 
このような祈りをする人の心は、開かれており、その人の心の中に主イエスが入って下さるのです。まことに多くの人達が、このようにして、主イエスが罪を赦してくださるだけではなく、新しいいのちも与えてくだる方であることを体験してきたのです。
 
どのようにして主イエスは全ての人の個人的な救い主になってくださることができるのでしょうか。主イエスの救いに対して感謝をささげ、自分の生活を主イエスの支配に委ねることによって、主イエスは私たちひとりひとりのための個人的な救い主になってくださるのです。
律法は、このようにして、人間を徹底的な破産に追い込みます。
 
しかしそれだけではなく、このように破産を体験した人は主イエスのみもとに行き、このお方が決して破れ果てたものを追い出すことなく、受け入れてくださるということを体験するのです。主イエスとの個人的な出会いの体験を通して、人は主イエスの血潮のきよめの体験をするのです。(ローマ5:1,エペソ1:7)
 
しかし律法は、私たちの「古き人」を破産へと追い込むばかりではなく、私たちの「新しい人」をも破産に導くのです。
このことを私たちはローマ人への手紙7章を通して見ることができます。
新しい人は、自分の罪が赦されていること、自分が神の子であること、また、自分は神のものであるということを知っています。しかし、このように生まれ変わった新しい人、すなわち信者が律法を行い、神さまの御心に叶った生活を始めようとするといなや、その人は必ず自己破産へと導かれるのです。
 
たとえばアブラハムは「私はちり灰にすぎないもの」であると告白しています。
またイザヤは、「わざわいなるかな。私は滅びるばかりだ。私は汚れたくちびるのものだ」と叫びました。
ヨブは「私は自らを恨み、ちり灰の中で悔います」と言っています。
パウロもまた「私は罪人の頭です」と告白しているのです。
これらの人々はみな、いうまでもなく信者でした。
 
しかし、この人たちは、事実、破産へと追い込まれて、このような告白を残しているのです。
 
ですから何が悲しむべきことであるかと言いますと、実に多くの信者たちがいまだにこのような「破産へと導かれていない」ということです。 
 
このような破産を求めたことのない信者は、いまだに自分の力で主に仕えようと努力しているのです。
 
従って、律法の目的は、次の2つのことであると言えるのです。
 
Ⅰ) 生まれながらの人たちを破産へと導いて、主イエスのもとへ来るようにさせること。
 
Ⅱ)生まれ変わった人たちを同じように破産へと導いて、御霊の完全な支配のもとに至らせること。
 
 

新たにされた生涯(キリストの内住の啓示 救いの確信)

                                                   そうです わたしのうちに

           わたしのうちに 主は住まわれます
           主のうちのわたし わたしのうちの主!
           今も そして永遠までも
           わたしのからの魂を満たされる

                                                                                                                                                   H・ボナー

 
ハドソンテーラーは中国宣教において素晴らしい働きをしていましたが、
その内面は
 
「毎日、ほとんど毎時間、罪の自覚にわたしは押し付けられていました。
もしも、キリストの中にいることができさえするならば、すべてはよくなるだろうとわたしは知っていたのですが、それができませんでした。
たとえ一瞬間であっても主から目を離さないつもりで、祈りによって一日を始めようとはするのですが耐えきれないほどに苦しい仕事の圧迫や、仕事を中断されることによって、しばしばわたしは疲れ果てて主を忘れてしまうのです。
 
こうした状態の中では、神経が異常に高ぶって、いらだちやすくなり、かたくなな考え方をしたり、冷たいことばを押さえるのが困難になるような状態でした。
毎日、罪と失敗と力の欠乏が記録されるばかりでした。
願い求める気持ちはあるのに、どうすればよいのか、わたしには分からないありさまでした。」
 
そんな時に友人のマカーシーの手紙の一節がハドソンテーラーの目のかすみを取り除き、神の霊が、私たちはイエスと一体であるという真理を、今までにないほど明らかにしてくれたと綴っています。以下、マカーシーの手紙と妹に送った手紙の中のテーラーの言葉。
 
『しかし、信仰を強められるためには、どうしたらよいのでしょう。それは、信仰を求めて努力するのではなく、忠実なおかたに寄りかかることによるのです。』
 
それを読んだ時、わたしにはすべてがわかりました。
「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。」
わたしは主を仰ぎ、「決してあなたを見捨てない」と言われる主を見たのです。
わたしが見上げた時、ああ、どんなにうれしかったことでしょう。
 
「ああ、安息がある」と考えました。
「主のうちにいこおうとむだな努力をした。もう努力はすまい。
主がともにいて下さると約束されたのではないか。
決してわたしを見捨てず、見放すこともないと。
愛する妹よ、確かに主は決して見放されません。」
 
これは、主が私に示して下さったことの全てでもなく、半ばでもありませんでした。
ぶどうの木と枝のことを考える時、祝福の聖霊はなんとすばらしい光を、わたしの魂に注ぎ込まれたことでしょう。
 
主から活力や満たしを取り出そうと願ったことが、どれほど大きな間違いであったかを、よく考えさせられました。
わたしは、イエスが決してわたしを見捨てられないということだけでなく、わたしが主のからだの一部分であり、主の肉の一部分であり、主の骨の一部分であることを知ったのです。(略)
 
愛する妹よ、よみがえり、昇天された救い主と、真実に一体であること、キリストの枝であることはすばらしいことです。(略)
キリストがこのように信仰によって私の内に住んでいて下さってから、どれほど幸福になったことでしょう。
書くよりは、直接お話しできればと思います。わたしは以前より楽になったというわけではありません。ある意味でそれは、願いもしなければ、またそうなるように努力もしません。
しかし、わたしはキリストとともに死に、葬られ、そうです、ともによみがえりました。そして今、キリストはわたしのうちに生き、「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのです。
 
もう筆を置かなければなりません。神さまがこの祝福の真理をはっきりとあなたにつかませて下さるように。
神がご自身と私たちを一つのものにして下さり、ご自身のからだの枝として下さったのに、主が遠く離れているように考えたりしないようにしようということです。
また、この経験と、これらの真理とが、少数の者のためであるとみなすべきではありません。これはひとりひとりの神の子が持つ生まれながらの特権であり、主を汚すことなしにそれを無視することは、だれもできません。
 
「あなたはキリストにあることを、いつも意識しておられますか?」と、何年もあとにテーラーは聞かれた。
 
「昨晩、寝ている時にわたしは、ここおにいることを意識していませんでした。
しかし、それだからと言って、わたしがあなたのお宅にいなかったのでしょうか。
キリストのうちにいない、という意識は、決して持つべきではありません」と彼は答えた。
 
    『ハドソン・テーラーの生涯とその秘訣』  ハワード・テーラー著より
 
 

「放蕩」する神

ティモシー・ケラー著 『 「放蕩」する神 』 をプレゼントして頂き読みました。
 
この本を読むまで、ルカの福音書15:1-3,11-32の放蕩息子の譬え話の箇所から思い浮かぶ事は
 
弟=新生してすぐのクリスチャン
兄=信仰歴が長くなったクリスチャン
で、クリスチャンなら、どちらの立場も経験するのではないかという事でした。
 
また、悔い改めた弟を父親が無条件で受け入れた側面に強調点が置かれ、たとえどんな過去があるにしても父なる神がいつも愛し受け入れてくださると聞いた聴衆が、感動のあまり目をうるませてしまうようなメッセージが教会では語られると思います。
 
ところが、もしそこでとどまるなら、私たちはこの譬えを単なる感傷的なストーリーとしてしか、捉えていないと著者は言います。
 
「このたとえは、『自由奔放な罪人』ではなく、聖書が教えるすべてを守り行う、敬虔で信仰深い人々に向けて語られたからです。
不道徳な部外者ではなく、むしろ道徳的な身内に強く語りかけたのです。
エスが伝えたかったのは、彼ら自身の持つ視野の狭さ、つまり、偏った、自分が正しいという姿勢と、その心のあり方が彼ら自身だけでなく、その周囲のたましいを、どれだけ蝕んでいるか、ということでした。ですから、このたとえを、単に弟タイプの罪人たちに神の無条件の愛を保証するもの、としてだけ捉えるのはまちがっています。
語りかけられた人たちは、感動の涙に酔いしれるどころか、ショックを受け、深く傷つけられ、怒り心頭に発したのです。イエスは、最初から心温まるお話ではなく、隔ての壁を粉々に打ち砕くことを目指していたのです。・・・・・(略)」
 
※ルカ15:1-3はこのように始まります
「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された」)
つまり、パリサイ人、律法学者に向かって語られていることを念頭に置かなければなりません。
 
「もちろんこのたとえは、弟の破滅的な自己中心さを明らかにしてはいますが、むしろ兄の道徳的、倫理的生活に最も非難を向けているのです。
エスが言っていることは、こうです。信仰深い、信仰深くないにかかわらず、どちらのタイプも霊的には失われているのだと。どちらの人生も、その結末は袋小路だと。そして、人間が歴史上あらゆる努力をしてきた、神とのかかわり方すべてがまちがいだったと。」
 
このたとえは「放蕩息子のたとえ」ではなく、「失われた二人の息子」と名付けた方が適切で、それは全2幕のお芝居のようです。
第一幕は「失われた弟」
第二幕は「失われた兄」です。
 
 
「第二幕では兄に焦点が向けられています。生真面目に父親に従っていた彼は、要するに神のおきてにも従っていたことになります。非常に冷静で、自制心を持っていたはずです。となると、ここにいる兄弟は、世間体の悪い弟に、出来の良いお兄ちゃん、ということになりますが、その二人ともが、父親に背を向けていました。
父親は、この二人に対して、自分から出て行って、愛のこもった宴会に招き入れる必要がありました。ですから、このたとえには、一人ではなく、二人の、失われた息子たちがいることになります。
しかし第二幕は考えられないような結末を迎えます。話し手のイエスは、わざと兄と父の関係に解決を与えないまま、話し終わるのです。悪い息子が父親の宴会を楽しみ、良い息子は入ろうともしないのです。女遊びにうつつを抜かしていたあの息子が救われ、日々忠実におきてを守り行っていた息子が救われない状態です。
エスが話し終えた時のことを想像すると、まるでパリサイ人達が驚きのあまり息を飲むのが聞こえるかのようです。それは、今まで、彼らが教えられてきたすべてを、根底から覆すメッセージだったからです。
二人の関係が修復されないばかりか、イエスのメッセージはさらに衝撃的でした。
なぜ兄は中に入らなかったのでしょう。
その理由が兄自身の言葉に見られるからです。
『今まで一度だってあなたに従わなかったことなどなかったじゃありませんか!』
兄は、その正しさにもかかわらず、父の愛を受け入れなかった、というのではありません。その正しさゆえでした。父と兄を隔てている壁は、兄の犯した罪ではなく、兄自身が正しいことをしてきたという自負、プライドによるものでした。
父の開いた祝宴に入ることができなかったのは、彼が何か過ちを犯したからではなく、むしろ、正しすぎたからでした。」(略)
 
「兄が一番欲しかったものは何でしょう。考えていくと、兄が欲しがっていたものも、結局は弟のそれと変わらないとくことが見えてきます。兄も弟と同じくらい、父親に反抗していました。兄もまた、父親自身よりも、父親の所有物が欲しかっただけなのです。弟のように、そのために遠く離れて行くかわりに、兄はとどまり、父に『一度だって従わなかったことはなかった』のです。それが、兄なりの、欲しいものを手に入れるための手段でした。言葉にはされない、彼の要求はこうでした。
『僕は今まで一度だって、あんたに従わなかったことはなかった。だから、今度は、あんたが、僕の思うとおりに動いてくれる番だ!』
兄弟二人の心は同じでした。二人とも父親の権威を拒絶し、そこから離れて自由気ままに生きることを望んでいました。二人ともそれぞれ父親を自分のいいなりにできるだろうと思われる立場に身を置いたのです。それぞれが、つまり反抗したのです。一人は誰の目にも明らかな反抗を通して、一人は、あまりにいい子になりすぎることによってです。二人とも父の心からは遠く離れ、つまり、失われていたのです。
それでは、ここでイエスは何を教えようとしていたのでしょうか。二人とも、父親自身を父親だからという理由では愛していませんでした。むしろ自分たちの自己中心的な欲求を満たすために、父親を利用していたのであって、息子として父を愛し、喜び、仕えることをしなかったのです。これは言いかえれば、私たちは誰でも、神に反抗することができるということです。その掟を破ることによってはもちろん、その掟を忠実に守り行うことを通しても、です。
 
罪とは何でしょう。このたとえを通してイエスは、私たちが今まで思いもしなかった、さらに深い罪の概念を示しています。たいていの場合、罪とは神のおきてに従わなかったこと、破ったことを思い起こさせますが、イエスの説明は、さらにその先を行きます。(略)
あなたはすべての道徳的規準を満たすことによって、救い主であるイエス自身を避けられます。もし、すべての道徳的規準を満たすなら、あなたは『権利』を手に入れます。それは、神があなたの祈りにこたえ、良い人生を与え、死後、天国行きの切符を与えてくれるという権利です。無償の恵みによって、すべての過ちを赦してくれる救い主など、必要ないのです。なぜなら、あなた自身が自分の救い主だからです。
これこそ、兄の心の姿勢でした。なぜ彼は、あんなにも父親に怒りを覚えたのでしょうか。それは、着物や指輪や家畜など、家の財産の使い道について、彼も意見する権利があると感じていたからです。同じように、道徳的規準をことごとく守る信仰熱心な人たちは、実際のところは神の上に立ち、神をコントロールし、いつか返してもらえるように、神に借りをつくらせようとしているのです。つまり、その道徳的な熱心さや敬虔深さにかかわらず、彼らは、結局神の権威に対抗していることになります。
もしあなたが兄のように、こんなに一生懸命神に仕えて働いて従ってきたのだから、神は私を祝福し、助けるべきだと考えているとしたらどうでしょう。
 
そうするとイエスは、あなたの助け手であり、模範であり、あるいはインスピレーションの源かもしれませんが、救い主ではありえないのです。あなたの救い主としての役割は、あなたがすでに、自分自身で担ってしまっているからです。
二人の兄弟の、ことごとく違う行動パターンですが、その底辺に流れているのは同じ動機であり目的です。二人とも、その心が追い求めるものを得るために、父親を利用していただけでした。それは、父の愛ではなく、富でした。そして二人とも、その富が自分を幸せにし、満足させるものだと信じていたのでした。
最終的に祝宴に入っていくことによって、兄は父との関係に本当の喜びを見出す機会を与えられていました。しかし、彼のかたくなまでの拒否反応は、父親の幸せが究極的な目的ではないことを示しています。父が、兄の取り分がさらに少なくなることをも顧みず、弟を再び家族として迎え入れたと知ったとき、兄はその本当の気持ちをむき出しにしました。父親を、どんな手段を使っても傷つけ、拒絶しようとしたのです。」
 
長くなりましたが以上が一部、抜粋です。
 
現在の教会は、この兄タイプがかなり多いと著者は言います。
 
この本を読んで、この3つの譬え話が、罪人たちを受け入れて食事をしているイエスさまに対して文句を言っているパリサイ人、律法学者に対して語られた話であることがはっきりと分かりました。そしてこの譬え話を通して、主は彼らに向かって、兄に向って言ったように、『一緒に祝宴に入ろう』と痛切に招いておられる事も分かりました。
 
15章は『迷い出た羊』の話と『なくなった金貨』の話とこの『失われた二人の息子』のたとえの3つですが、最初の2つはなくしたものを、どんなことをしても見つけようと探す人が登場しますが、『失われた二人の息子』には出てきません。本来、いなくなった弟を捜しに行くのは兄であることが創世記のカインとアベルの箇所から分かります。
『おまえこそ、弟の番人であるべきなのに』・・・・。
 
「不完全な兄を登場させることによって、イエスは本当の兄とはどんな姿なのかということを想起させようとしています。私たちには、その兄がいます。
行方不明の弟を捜しに隣の国に捜しに行くような兄でしょうか。いいえ、天高くから、この地上まで降りて捜しに来てくれた方です。私たちは、単にある程度の額を支払ってくれる保証人がいるだけで十分でしょうか。私たちの抱えている負債はあまりにも多額です。そんな私たちが神の家族として迎え入れられるためには、どんな借金でも肩代わりできる方、ついには自身のいのちさえ犠牲にするほどの方が必要なのです。」

アビガイルに学ぶ②

 
 
アビガイルはナバルと夫婦でありながら、精神的にはナバルと異なる次元に生きていました。
ナバルの妻でありながらアビガイルはナバルに染まらずにあのような人物になったのです。
 
第一サムエル記25章26節を見ると、アビガイルはダビデがまだ復讐心に燃えていた時に、すでに主が復讐を止めさせて下さったという確信を持ちました。
しかもそのことをダビデに対して断言したのです。
 
30節では、「主があなたをイエスラエルの君主に任じたられた時・・・」と言っています。
アビガイルはダビデがやがて王になることを確信していました。
 
この時、ダビデはサウル王から追われる身、王になることなど考えられない状況にあったのです。サムエルから受けた油注ぎが遠い昔のように思えたことでしょう。
 
31節では「むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように・・・」と言っています。
 
アビガイルはむだに血を流すことや、復讐することがダビデのつまずきになり、心の妨げとなることを知っていました。
 
しかもこのことがダビデにとって、ある意味で王になる以上に重要だということをも知っていたのです。
これがアビガイルの霊的生活を示唆する非常に重要な箇所です。
 
その結果32-34節で、ダビデは主がアビガイルを送って下さったことに気付きます。
そして主がダビデをとどめたことに気付きます。
アビガイルは復讐心に燃えていたダビデの心を主に向けさせました。
 
アビガイルがナバルと結婚していなければ、これほど主を求め、これほどまでに主と親しくはならなかったでしょう。
 
若者たちの言葉やナバルの暴言から判断すると、アビガイルがナバルと話す時には、
言葉を選ばなければ怒鳴られたり、暴力をふるわれたりしたことと思われます。
そのような関係では、「神さまが導かれることだけを語る」ことが求められます。
 
聖霊バプテスマを受けると、聖霊が語らせるままを語ることの恵みを味わいます。
祈りにしても自分の思いをぶつける祈りから、聖霊が祈らせるままを祈る祈りに変わります。
神であられる聖霊さまは御言葉と一致した祈りを導いて下さいます。
私たちがこのような祈りを経験すると、神さまの心を祈らせて頂いていることに気付くようになります。
その時、神さまの願いと私たちの願いが一つになるのです。
 
ですから主がすでにダビデの復讐を止めたことと、ダビデが必ずイスラエルの王となることを、アビガイルが祈りのうちに確信していたのは当然のことだったと言えます。
 
復讐心に関して言えば、アビガイルも私たちと同じ人間でしたから、結婚当初はやられたらやり返す衝動に駆られ、ナバルを赦せないという思いに駆られたことでしょう。
 
ところがそのことが実は、自分と神さまとの関係を妨げるということを、アビガイルは味わい知ったのです。
だからこそ、ダビデに対してあのような強い進言をすることができたのです。
 
神さまとの交わりが深ければ深いほど、その交わりを失いたくないものです。
その交わりを損なうものは全て排除したくなるのです。
 
アビガイルは主との麗しい交わりを体験していました。
しかもアビガイルはダビデが同じ経験をしていることを知っていたのです。
 
一方、アビガイルの言葉を聞いたダビデは、主ご自身がアビガイルを通して語っておられることを認めざるを得ませんでした。
へりくだって、主の安息のうちに冷静に、神さまが語らせるままに語っているアビガイルの言葉はダビデの心を捉え、主に向けさせました。
 
そしてダビデは復讐心を治めることができたのです。
もしここでダビデが復讐心を克服していなかったら、王になっていなかったかもしれません。
 
一人の信仰深い女が、逆境の中で主との麗しい関係を築き、ダビデを王としたのです。
アビガイルは逆境によって主に逃げ込むことを学びました。
 
鼻から息する人間を頼りとせず、主に望みを置くことによってのみ得ることのできる柔和で穏やかな霊を飾りとしていたのです。
 
だから彼女にとっては目に見えるナバルよりも、目に見えないお方の方がリアルでした。そしてナバルの支配下にあっても、彼女の人生は主に支配されている確信を得たのです。
 
愛する日本の女性のみなさん、私たちの人生は夫や環境など、目に見えるものによって決まるのではありません。
すべて神さま次第です。
神さまに私たちがどう応答するかで人生が決まります。
 
このお方を見上げ、
逆境の中で主を知り、
逆境の中で輝く女性になりましょう。
 
テル子・ジュデイ・ミドルトン

アビガイルから学ぶ①

 
 
アビガイルは、カルメルという地域で羊3000頭、やぎ1000頭を所有していた事業家ナバルという男の妻でした。
 
ダビデとその僕たちは昼も夜もナバルの羊の見張りをし、泥棒や猛獣から財産を守ってやっていました。
ですから、ナバルは羊の毛の刈り取りの祝いの時、「おかげで羊1匹も盗まれる事なくこの日を迎える事ができた。共に祝ってくれ」と言って、ダビデと僕たちを祝宴の場に招いて当然の立場でした。
 
ところがナバルはダビデのことを「主人のところを脱走する奴隷」呼ばわりし、ダビデのことを激しくののしり、僕たちを追い返したのです。
 
その様子を見ていたナバルの若者たちは、アビガイルの元に走って行って、報告します。
ナバルに伝えても無駄だということを知っていたからです。
 
その話を聞いたアビガイルは、すぐさまダビデと部下たちのために沢山のご馳走を用意して、何頭かのロバに乗せダビデに会いに行くのです。
 
このことから、彼女がナバル一族の食料をしっかり管理していたことが分かります。
しかも彼女は、とっさの時にも迷うことなく正しい決断をし、すぐさま行動に移すことができたのです。
そうしていなかったら、後になってからダビデ自身が認めたように、アビガイルをはじめナバル一族は皆殺しにあっていたでしょう。
 
ここで注目すべきことは、若者たちが当然のようにアビガイルに従ったということです。まかり間違えば彼女も若者たちもダビデに殺されるかも知れないというのに、
若者たちは彼女の前を進んで行きます。
若者たちがアビガイルを尊敬し、信頼していたことが分かります。
 
このように、アビガイルが「聡明」という一言では片付けられないほど知恵深い女性であると分かります。
しかも彼女の財産管理能力、問題処理能力、危機管理能力、指導力、謙虚さ、判断力、どれを取ってもお見事としか言えないことばかりです。
 
これだけを見ても並みの女性ではないと分かりますが、彼女の真価は、
彼女がダビデに告げたところの、全部で8節にもわたるスピーチの中に表れます。
これについては次回扱います。
 
アビガイルはどのようにして、このような人物になることができたのでしょうか?
たまたま秀でた人物だったのでしょうか?
たまたまそのように生まれついたのでしょうか?
私はそうは思いません。
なぜならはじめからできあがっている人物など存在しないからです。
アビガイルもエリヤも私たちと同じ人間なのですから。
 
しかも彼女の夫はナバル、その名のとおりの愚か者でよこしまな者だったのです。
普通の女性ならそのような男と寝食を共にするなんて考えられないことですね。
美人で聡明なアビガイルからすると、ナバルと一緒にいること我慢できないことだったでしょう。触られるのも汚らわしいと・・・。
 
普通の女性なら、ナバルに怯えて萎縮してしまうか、または逆に強い女になって、
赦せない気持ちを抱き続け、とげとげしい言葉をナバルに投げつけていたかもしれません。
 
そうなると、いつの間にか相手そっくりの人間になっていくのです。
やられてはやり返す、夫婦そろって復讐心に満ちた人間になっていたかもしれません。
 
ところがアビガイルは、ナバルと同じ天幕に住ながら、精神的にはナバルと異なる次元に生きていました。
二人は夫婦でありながら、同じカルメルに住ながら、
ナバルは地上的な生活をし、
アビガイルは天的な生活をしていたのです。
 
アビガイルはナバルと同じ食卓につきながら、ナバルとは異なる糧を得ていたのです。
その糧こそ真の糧、真に人を生かす糧でした。
彼女は常に、ダビデのように、全能者の陰に宿る秘訣を知っていたのです。
 
ナバルは事業家であったけれど、アビガイルは実際上の事業主が主なる神であることを知っていたのです。
 
アビガイルはどのようにして、あのような環境で天的な生活をすることができたのでしょうか?
この地上にいながら、どうしたら全能者の陰に宿ることができるのでしょうか。
どうしたら、異なる次元に生きることができるのでしょうか。
ナバルの妻でありながら、ナバルに染まらずにあのような人物になった、その秘訣は何だったのでしょうか?
 
日本には、まだご主人が救われていないで苦しんでいるクリスチャン女性が沢山います。
ご主人のせいで、霊的な生活ができないと思っている女性が沢山います。
 
あきらめないで下さい。まだまだ希望があります。
アビガイルはナバルの妻であったのに、あのような女性に創りかえられたのです。
 
あなたも今の環境の中でこの秘訣を身につけませんか?
 
②に続く