ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

主のために「むだにする」②

私には尊敬するクリスチャンの兄弟がいますが、その方の聖書の解釈と解説でどれだけ助けられているか分かりません。この方はもっと用いられてしかるべきと常々思っているのですが、ご本人は大変謙虚な姿勢でいつもおられます。その事に対する答えも、主のために「むだにする」の続きに書かれていたので載せたいと思います。

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しかし私はユダに関して、余り多くのページをさきたくありません。次に他の弟子たちの態度について考えましょう。彼らの反応のほうが、ユダのそれより、私たちにとっては重大な意義をもっているのです。私たちは世間の言葉に対しては、大きな注意を払う必要はありません。私たちはそれを忍ぶことができるのです。しかし、当然理解を持つべきである他のキリスト者の言葉に対して、私たちは大きな注意を払います。しかも弟子たちは、ユダとその意見を共にしていることがわかります。それだけではなく、彼らはそのことについて心を乱し、憤慨さえしているのです。「弟子たちはこれを見て憤って言った。『なんのためにこんなむだ使いをするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに』」(マタイ26:8,9)

もちろん、「最小の労力で最大の高価を挙げよ」という態度は、キリスト者の間にも一般的なものであることを、私たちは知っています。しかしここではそういうことが問題であるのではなく、もっと深い所に問題があるのです。例をあげてみましょう。

「あなたはじっとすわっており、多くのことをしないから人生を浪費している」とだれかがあなたに言わなかったでしょうか。それらの人は言います。「あの人達は出て行ってこれこれの仕事をすべきだ。あのひとたちは、あの群の人たちを助けるために用いられることができるはずだ。それなのに、どうして彼らはもっと積極的でないのか」と。このように言う人たちの中心思想は、用いられるの一語に尽きます。彼らにとっては、すべてのものが彼らの理解している方法で十二分に用いられなければ、気が済まないのです。このような見地から、主に愛せられているしもべに関心をいだき、その人が多くのことをしていないと考える人たちがいます。彼らは、もしその人がどこかの団体に入ってそこで大いに受け入れられ、指導的な地位につくならば、現在よりはるかに大きなことをなし得るだろうと考えます。長年の知己である婦人宣教師のことは、前にも述べました。この人は私を最も助けて下さった人であると思います。この人は、私が親しくさせていただいた年月の間、非常に現実的な方法で主に用いられていました。もっとも、当時のことは私たち一部の者にとって、あまりはっきりわかりませんでしたが。ところで、私の心の中には「この人は用いられていない」という思いがあったのです。そのため私はいつでも自分自身にたずねていました。「どうしてこの人は、出かけて行って集会を開かないのか。どうしてどこかに出て行って、何かしないのか。あの人が、何事も起こりそうもない小さな村に住んでいるということは、あの人にとって生涯の浪費だ。」時には彼女を訪ねて、まるで叫ぶようにして言ったものです。「あなたほど、主をよく知っているかたはありません。あなたは、もっとも生きた方法で聖書を知っておられるではありませんか。あなたは周囲の必要がわからないのですか。どうして何かなさらないのですか。ただ何もしないで、ここでじっとしているなんて、時間の浪費、力の浪費、金銭の浪費、あらゆるものの浪費ですよ。」

しかし、主から見れば、用いられるということが第一のことではないのです。確かに主は、私たちが用いられることを望んでおられます。もし私が、消極的な態度で説教したり、世の必要に対して自己満足的な態度を正当化しようとしたら、主はお許しにならないでしょう。主イエス御自身、ここで言われているように、「全世界に福音は宣べ伝えられる」べきであります。しかし、問題は何を強調するかということにあります。しかし今日かえりみると、主は事実上、いかにその婦人を用いて私たち少数の青年に語りかけておられたかが分かります。当時私たちは、福音の働きのため、神の学校で訓練を受けていたのです。私はこの婦人のことを、どれほど神に感謝しても足りません。

では何が秘訣であるのでしょうか。それは明らかに次の点にあります。すなわち、ベタニヤでマリヤの行いをほめられることによって、主はすべての奉仕の基礎として、一つのことを制定されたのです。それは、あなたの全所有、あなたそのものを主に注ぐということです。そして、もしそのことが主のあなたに課されたすべてであるなら、それで十分ではありませんか。「貧しい人々」を援助するか否かの問題は、第一義的なことではありません。第一の問題は、主の御心が満たされたかどうかということなのです。

私たちが説教することのできる集会は多くあり、私たちが仕えることのできる修養会は多く、また私たちが責任をとることのできる伝道会は多くあります。私たちが、それらのことをすることができないというのではありません。私たちは十二分に用いられるまでに労することができます。しかし主は、私たちが主のための働きに絶えず携わっていることについては、それほど関心をもたれないのです。そのようなことが、主の第一の目的ではありません。主への奉仕は、目に見える結果によってははかることはできません。私の友よ、主が第一に関心を寄せておられることは、主の足下における私たちの立場であり、また私たちが主の頭に油を注ぐということです。私たちが「石膏のつぼ」として秘蔵しているいかなるものも、すなわち私たちにとって最も貴重なものであり、最も大切なものであっても・・・それらのものは、十字架そのものによって造られた私たちの生涯から溢れ出るものです・・・私たちはその全てを主にささげつくすのです。そのことは、よく理解しているはずの人々にとっても、浪費と思われるでしょう。しかし、このことこそ、すべてにまさって主の求めておられるところなのです。

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冒頭に書きました尊敬するクリスチャンの兄弟は自分の全てを主にささげつくしておられるので、主の心が満たされているのです。だからこそ、その兄弟を用いて、主は私やブログ読者に語りかけておられるのが分かりました。私もこの兄弟のことを、どれほど神に感謝しても足りません。