ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

四福音書における主の御姿

神は大きな恵みをもって私たちに四つの福音書を与えてくださいました。一つの福音書のみでは、主イエスの栄光を充分に現すことができません。主は四つの福音書をもって私たちにご自身の生涯を示してくださいました。四つの福音書はそれぞれ異なる面をもっていますから、私たちはこれによって初めて主の全き栄光を見ることができます。

たとえばナポレオンの人物を知ろうとすれば、その戦争の様子を見ることによって大将としての彼を見ます。その立法行政がどうであったかを研究することで、皇帝としての彼の栄えを見ます。また私人としてのナポレオンを知ろうとするならば、彼の家庭の様子を探らなければなりません。

このようにイエスはご自分の全き栄光を示すために、私たちに四つの面を残してくださいました。四つの福音書の目的は何でしょうか。ある人はそのことを考えないで、四つを一つに組み合わせて主の生涯を漏らさずあらわそうとしました。これは確かに有益なこともありますが、それと同時に大きな不利益をももたらします。聖霊は主イエスの御生涯を四つの書物に記させなさいました。同じ一つの行為が繰り返し記されているのは、ただ重複しているということではありません。それぞれが異なる面を示そうとするためです。

たとえば、主の死について見ましょう。レビ記の初めに四つのささげ物が出て来ます。これは四つの面から主を現したものです。すなわち、主の死は芳しい全焼のいけにえの香りです。神を喜ばせる犠牲です。神の前にのろわれた犠牲、そして神より追放された犠牲であることを見ます。主の死を深く味わおうとするならば、このように種々の面を研究しなければなりません。主の四つの生涯は、異なる四つの意味を教えるのです。

最も幸いなことは主を知ることです。人は自分が無学であることを恥ずかしく思います。けれども実は、天の宝を知らないことほど恥ずかしいことはありません。最も素晴らしい学問は何かというならば、それは主を知ることです。天における学問の中心は主イエスです。

聖書の中で最も美しい部分はどこでしょうか。旧約聖書にも新約聖書にも、福音書にも書簡にも黙示録にも、主が示されています。けれどもそのうち主のことが最も明白に示されているのは四つの福音書です。もちろん、聖霊によるならば、聖書の中のどこにでも主イエスを見ることができます。とはいっても、聖書の神髄は四つの福音書である、四つの福音書の神髄はヨハネ福音書であると言えるかもしれません。

四つの福音書は、それぞれ独自の特別な使命を帯びています。ヨハネの黙示録4章7節は四つの福音書を示していると二世紀ごろから言われていますが、これは誤りではないと思います。四つの福音書を研究するうえで、これは真実のように思われます。

 

第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。(黙示録4:7) 

ヨハネの黙示録四章七節はもともとケルビムの四つの形を示しています。ケルビムは目に見える形で神の力を示しました。ですから、時として天使はケルビムです。人もまたケルビムです。そして神の子もまたケルビムです。

ここに第一の生き物は獅子のようであるとありますが、マタイの福音書に、主イエスは獅子として示されています。ヨハネの黙示録五章五節に、主は「ユダ属から出た獅子、ダビデの根」とあります。そのように獅子は常に王を示します。すなわち、マタイの福音書に「獅子」とあるのは、王を示すのです。ヨハネ福音書十九章十四節でピラトがユダヤ人に「見よ、これがあなたがたの王だ」(口語訳)と言いましたが、私たちはマタイの福音書によって主イエスが王であることを見たいと思います。

マタイの福音書二章二節で、東方の博士たちが王をたずねて来たとあります。マタイは、主イエスが彼らの求める王であると記しました。マタイの福音書五章には、主が王のように命令を与えておられるように読むことができます。これは天国の憲法です。モーセの律法ではこう言われているけれども、「わたしはあなたがたに言います。」と主は王の権威をもって言われました。またマタイの福音書十一章二十八節で、「わたしのところに来なさい」とお命じになりました。このように天国を示し、これを明らかにし、最後には、「わたしには天においての、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(28:18-20)と大きな権威をもつ王のことばでこの福音書を結ばれました。

マルコの福音書では、主は第二の生き物である雄牛のようです。雄牛は、忍耐をもって人のために働く動物です。イザヤ四十二章一節に、「わがしもべ・・・を見よ」(口語訳)とあります。雄牛は「しもべ」を示します。このように、マタイの福音書には「王を見よ」、マルコの福音書には「しもべ(すなわち雄牛)を見よ」とあります。主は神のしもべとなり、また人のしもべとなり、神と人とのために力を尽くされました。私たちはマルコの福音書において、命を惜しまずに労されたしもべとしての主イエスを見るのです。

ルカの福音書に現された主は、第三の生き物で「人間」のようです。すなわち、そこに「人の子」である主イエスを見ます。ヨハネ福音書十九章五節で、ピラトは人々に向かって「この人を見よ」と言いましたが、ルカの福音書ではこのことを見ます。マタイの福音書の初めには王の系図があります。ルカの福音書の三章では、人としての主の系図を見ます。旧約において、多くの預言者は人である神と交わることができませんでした。けれどもルカの福音書で、人となられた主を見ます。どんな人でも、人となられた主と交わることができるのです。

ヨハネ福音書には、「鷲」のようなお方として主が現されています。天に属するもの、神の子である主イエスが現されています。ですから、ヨハネ福音書には、地に属する主の系図がありません。その最初にある系図は、王ではなく、人ではなく、父母も祖先もない、永遠の初めより存在される道である主、神の系図です。主はいかなる御方ですか。三章十三節には「鷲」の姿が現れます。「天から下った者」とあるのです。けれども、常に天におられる飛ぶ鷲です。ですから、主はまた天使のようでもあります。ご自分を父より遣わされた者であると言われました。ヨハネ福音書はその意味が最も深遠であると言う人もあります。けれども、さらに大きな悟りを啓かれるならば、ほかの福音書にも同じ深い奥義が示されていることを見るかもしれません。ヨハネ福音書には黄金が明らかに現されています。ほかの三つの福音書にはこれが幾分か隠されています。

さて、主はだれに福音書を書かせたでしょうか。主は各人の性質に応じてこれを書かせられました。マタイは帝国あるいは王国の取税人でした。それで主は彼に王の福音を記させました。マルコはペテロの僕です。それで僕である主を示しました。ルカは異邦人で、広く人類という思想をもっていると思われます。それで、彼は人の子としての主を示しました。また、天の父のふところにあるお方を書くには、主イエスのふところにいたヨハネが適当でした。神がこのように四種の福音書を与えてくださったのは、主の栄光を四つの面より見せるためでした。私たちを、この主に倣わせるためです。

四つの福音書を研究することは実に大切です。四つの福音書の四つの面は、また私たちの経験です。主はそのように現れました。私たちもまたそのように現れなければなりません。マタイの福音書における主のように、私たちは主によって王とされました。悪魔の上に立って力ある者でなければなりません。ヨハネの黙示録一章六節に、王とされる約束があります。(新改訳欄外注参照)また、王となって悪魔の上に立って力ある者となったときには、どのようにして神と人とに仕えるべきかを学ぶことが大切です。マルコの福音書に示された主に従って、人々のうちにあって全き人であるべきです。主は深く罪人と交わられましたが、絶えず父の恵みに浴して潔くあられました。汚れた世の中にあっても汚されませんでした。私たちもこのように完全な者でありたいと思います。そして、すでに全き人であるならば、またヨハネ福音書に示されているように、神の子また天使であらなければなりません。神より遣われた使者、天にある者、イザヤ四十章三十一節のように「翼をかって上る鷲」のようにならなければなりません。

また、四つの福音書の順序も偶然ではありません。進む道筋です。第一より第二は、恵みによって進むのです。「王を見よ」、これは第一です。「しもべを見よ」、これは第二です。すすんで人である全きイエスを見、またすすんで神の道である主を見ます。私たちの立場はどこにありますか。私たちは主を見て、だれであるとしますか。マタイの福音書十六章十五節の問いかけは大切です。その答えによって、その人の信仰を知ることができます。ある人は「王の王、主の主」としてのイエスを見ます。ある人は、人のため神のため自らを捧げた僕としての主を見ます。ある人は、人の子とし、また神の子とします。けれども、私たちは四つの面から見ることによって、全き主を知らなければなりません。(バックストン ヨハネ福音書講義上 緒論 第一)