ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

聖化

 私たちの中に築かれている性格は、良いものであれ、悪いものであれ、いずれにしろ、キリストにあって十字架に付けられて死に、そして再び形成されなければなりません。

聖化とは、人の全人格が何か美しく輝くまで、汚れた行いの一つ一つの部分を取りのぞいていくというプロセスではありません。(以前私はそう考えていましたが)

私たち自身が完全になるというところに達するにはとうてい及ばないことですから、「わたしたちはこの宝を、土の器の中に入れている」(Ⅱコリント4:7)ことを覚えておく必要があり、このことをイエスのもとに来て受け取り、安息を得るようにならなければなりません。 

 パウロは、その働きの終盤において、彼の身に着けていた手ぬぐいを病人の上に当てると病人が回復した時期に(使徒19:12)、このように書いています。 

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:15) 

これは、パウロが以前は罪人であったが、今は罪のない聖徒であるということではないのです。そうではなく成熟とは、自分が罪人のかしらであると知るに至るほど、現在の罪に対する認識が増すということなのです。

その結果、パウロは、「私はまだまだ達していない。今でもまだ自分が他の人よりもましだと思うことがあるからだ。」と言っているのです。

パウロは、まず、自分が死に値する罪を犯した者であることを知り、その後、自分の死は、罪の故に、事実であるということに気がつくに至ったのです。 

「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、-あなたがた救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)

パウロは、イエス・キリストは、単に個々の罪のために死なれたのではなく、罪そのもののために死なれたということを知りました。私たちは単に罪を犯した罪人なのではありません。

私たちのすべての存在が、罪によって犯されているということです。

ポーゴーが言ったように、「私たちは敵と出会った。敵は、ほかならぬ私たち自身であった。」ということです。 

「私は、私のうち、すなわり、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいとう願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7:18) 

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

私たち自身のこのような罪深さを悟る時に、その結果として、私たちの砕かれた心を通して神ご自身の性質が輝きだし、その栄光を現すのです。

 

 ジョン・サンフォード 内なる人の変革P14-15より抜粋 翻訳 ベネディクト恵湖