ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた

 イザヤ書61章

:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。

 20年間、罪責感という牢屋に入れられた囚人であった私を、主は釈放、解放して下さった。イザヤ61章の御言葉を今も日夜休む事なく行っておられる主の働きを共に行っていきたいと思っています。 

「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」 

そのように祈っていたので、主は心の傷ついた方を私の所に送り続けて下さっている。その方達に共通するのは「両親の愛」を受け取る事が出来なかった事、それによる自尊心の欠如、不完全な両親による育て方によって沢山の傷も受けて苦しんでいます。

 イザヤ書53章

:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」の御言葉は地に落ちてしまい、現実のものになっていない方が多い気がしています。

キリストの十字架と復活を通して与えられているはずの、癒しと勝利を受け取る事が出来ていないのです。 

そういう私自身、段階的に主は癒しを進めて下さって来ましたが、一番大切な「神の愛」を心の底から実感として受け取る事が出来ずに今年まで苦しんでいました。

「MIKUさんは神さまから愛されているって思う?」と心の傷ついた友人に聞かれて、実は私も「私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)の御言葉を自分の事としては受け取れていないと伝え、二人で「神の愛が分かるようにしてください」と祈ったのでした。

主はその祈りを聞いて下さって、2つの事を教えてくださいました。

一つは今年、ローマ6:3-6,ガラテヤ3:20,コロサイ2:12にあるように、私の古い人は良い面も悪い面も全て十字架に付けられてイエスさまと共に死んだのだという事が分かってはいたのですが、私の全ては十字架に釘付けられるほど悪いとしたら、どこに主から愛される要素があるのだろう?と分からなくなってしまったのです。それに対する答えは 

視点を変えて考えると、主なる神は罪のゆえに本来神を愛することができなかった私たちの心のうちに、『アバ父よ』と叫ぶ御子の霊を与えて下さったのです。それはまさに純粋な霊による愛であり、また信仰の本質であり、人間の行為や個人の特性によらないもの。だからこそ、私たちはいつでも、どんな状況においても父なる神を呼び求めることができ、また父なる神の変わらない愛に信頼することができる。御子が十字架の上で見捨てられた状態にいても「父よ」と叫んだ絶対的信頼の霊が私たちの心に与えられているのです。 

というものでした。この事を知った時に、数年前に「聖霊の内住」の啓示を受け、既に三位一体の神と交わる事ができている事自体が神に愛されている事なのだと分かったのでした。

2つ目は、それでもまだ感じる空虚感のせいで「神の愛」が分かっていないのかと思っていましたが、クリスチャンであっても、「自分自身の感覚に意識を置く」なら、やはり空虚感というのが入り込んでくる事。人々から、そして弟子たちからさえも見捨てられるのを知りつつも「わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」と言われた御子の霊によって平安と勇気を受け、保つことによって、その空虚感から解放されると知りました。

そして「信仰」という「パイプ」をいつも「キリストの十字架の愛」に繋ぐ事によって、「神の愛」がいつでも川のように流れてくるのだという事も分かりました。

『彼の打ち傷によって、私たちはいやされた』 全ての癒しは「キリストの十字架の愛」を受け取る事なのだと思います。そして個人の信仰によって癒しと解放は必ず起こり、たとえ現在それが実現していなくても最後まで信じるように私たちには求められていて、それは信仰者としての責任でもあると知り、心から同意しました。

 ローマ書8章 (信ずる者の勝利の凱歌

:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、

:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 

 エペソ書3章 (神に満つるものの満たんことを)

:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、

:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。