ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

トランスフォーメーションの原則

聖書には、弟子たちはペンテコステを経験する前、疑いと落胆でちりぢりになって逃げたと書かれています。
 
ところが、彼らはペンテコステの日には、一つの場所で一つの心で祈っていたとあります。どうしてそんなことが起こったのでしょうか。
 
使徒の働き1:3には「イエスは・・・数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒達に示された」とあります。
弟子達は主イエスが復活されたことを理解したのです。
だから弟子たちは主イエスを拝し、大きな喜びを持ってエルサレムに帰っていきました。
ルカは「いつも宮にいて神をほめたたえていた」と記述しています。
 
ところが今の私たちは「いつも宮にいて神をほめたたえて」いませんよね?
 
これには二つの理由があります。
一つは、私たちは驚くべき奇跡にまだ遭遇していないからです。
二つ目は、私たちは特に待っているものがないからです。
だから毎週毎週「宗教的行事」に出かける人になっているのです。
 
復活の後、弟子たちは教義とか信条などという律法的なものから解放されていました。
伝統も組織もありませんでした。
だから、ペンテコステの場所に集まって一つ心で待つことができたのです。
 
今日、教会に人々か来ないのは、神が生きていることを知らされていないからです。
使徒の働き4章33節には「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」と書かれています。
彼らの存在自体が復活の証拠となっていったのです。
 
しかし今日、人々は私たちを復活の証拠だとは見ていません。
人々は私たちが単なる宗教的ないい人ということでは教会に来てくれません。
自分たちと違うものを持っているからこそ、惹きつけられるのです。
 
彼らは、備えられたものが欲しいのではなく、驚きが欲しいのです。
神の臨在がはっきりと感じられる場所に行きたいのです。
 
私が訪れた教会には、霧のように神の臨在が見える場所もありました。
教会に入ると「神の臨在を左の肩に感じることができる」ような、想像もできないほどの神の臨在です。
他のことはどうでもよくなって、すべての人の目が大きく開かれ、誰も次に起こることを予測できません。
人々が本能的に求めていることは、予想もできないほど素晴らしいことです。
 
そのような教会の礼拝では、髪の毛が逆立ってしまいます。
別次元の神の臨在があります。
 
私はトランスフォーメーションが起こっている各地を訪れ、そこで人々の態度や行動を観察した結果、そこに一つのパターンがあることを知りました。
非常に単純な公式です。
 
それは、「何かに期待を持っているから、喜んで何かを捨てる」ということです。
彼らは喜んで自分の優先順位を捨てたのです。
主の道を備えるために悔い改め、祈り、断食し、互いに赦しあい、一つになって待っていたのです。
 
あるとき、私の妻がいつものようにリバイバルを下さいと祈っていました。
 
「神よ、来て下さい。来てください」と。
すると神は語られました。
 
「あなたは、私をただ便利な者として呼んでいるのですか?
それとも愛すべき存在として呼んでいるのですか?」。
 
私たちはリバイバルを求めてお願いをしますが、その仕方が最初から間違っていることがあります。
 
20世紀半ばに、スコットランドのヘブリティという場所ですごいリバイバルが起こりました。
それは90代の二人の老夫婦が家で祈っていたところから始まりました。
 
婦人は盲目で、ご主人は足が衰えていて、日曜日の朝に教会へ行くことのできない人たちでした。
しかし彼らの心には、神の臨在へのものすごい飢え渇きがあったのです。
 
老夫婦は牧師を家に呼んで、
「神さまは、この町にリバイバルを起こそうとされていますよ。しかし、人々は準備がなく、飢え渇きがありません。
私たちは、教会の牧師であるあなたと長老たちが祈るならそれが起こると信じています。」と言いました。
 
この牧師たちは二人の提案を受け入れ、日常的な仕事をすべて捨てて祈り始めました。
細かく計画されていた祈祷会を開いたのではなく、朝も昼も夜も、神が来るまでは絶対に祈りを止めないという姿勢で祈りました。
 
「神よ、人々を刺激して、あなたの臨在を求める飢え渇きを与えてください」と。
 
当時、その地の人々は8時になると床に就くのですが、この牧師たちが祈って待ち続けると、町の明かりが9時まで灯っているようになりました。
そのうち10時まで、そして、深夜にまで、さらに午前になるまで明かりが灯るようになりました。
最終的に、一晩中明かりが灯るようになりました。
人々の心に飢え渇きが起こったのです。
 
そして想像できないほど濃厚な神の臨在が溢れ出しました。
人が道路の真ん中で突然自転車を降りて、ひざまずいて手を挙げて、主に憐れみを叫び求め始めるのです。
 
漁をしている最中に神の臨在が突然降ってきた漁師たちは、漁を止めて網を捨てて主に叫び求め始めました。
 
小麦を刈り取っていた農家の人は、鎌や鋤を捨てて主に叫び求め始めました。
 
酒場でビールやウイスキーを飲んでいた人も、ひざまづいて主に叫びました。
 
特別な集会もラジオ宣伝もトラクト配布もないのに、数週間の間にこの小さな町にどんどん人々が集まってきました。
 
ただ神の臨在に引き寄せられて集まってきたのです。
 
私たちが、本当に飢え渇きがあるかということが問題なのです。
 
この日本の地にトランスフォーメーションリバイバルが起こると、私は大いに信じています。
私は宗教的なものには、もはや興味がありません。
 
始まりは、皆さんの祈りからです。
 
「神さま、私を刺激してあなたへの飢え渇きを増して下さい」と。
 
私たちは、神によって飢え渇きをもっと大きくしてもらう必要があります。
すべてのトランスフォーメーションの実例の中で、初めに祈り始めた人数は
最大でもたったの10人、多くの場合は6人以下です。
 
トランスフォーメーションへの道は簡単ではありませんが、複雑でもありません。
私には、皆さんがそれを起こすことができると100%の確信があります。
 
ジョージ・オーティスJr