ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

聖霊の力

 

 「私は神の幻を見た」(エゼキエル1:1)

 

「その中から四つの生きもののようなものが現れた。その姿はこうであった。彼らは人のような姿をしていた。おのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、磨かれた青銅のように輝いていた。その翼の下から人の手が四方に出ていた。その四つのものの顔と翼は次のようであった」(1:5-8)  

 

「さて、私が生きものを見ていると、見よ、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつ輪があった。それらの輪の形と作りは緑柱石のようで、四つともよく似ており、それらの形と作りは、ちょうど、一つの輪が他の輪の中にあるようであった。それらは進む時、自分の面する四つの方向に進んだ。進む時、それらは向きを変えなかった。その輪のわくは高くて、恐ろしく、その四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。生きものが行く時には、輪もそのそばを行き、生きものが地から上がる時には、輪も上がった。霊が行くところにはどこでも、輪もついて行った」(1:15-20)

 

「彼らの頭上にある大空の上に、サファイヤのように見える御座の形をしたものがあり、その御座のようなものの上には、人のように見える姿をしたものがあった」(1:26)

 

「彼は私を宮の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が宮の敷居の下から東の方へと流れていた」(47:1)

この聖書箇所を自分で読んでいて、ケルビムを表している事は分かっていたけれど、ただ文字を読んでいるに過ぎませんでした。

けれど、スパークスの以下の文章を読んで、全く変わりました!

まずケルビムに関する文章です。 

今、「御座の行政の執行手段」と私が呼ぶものと、いのちの川の流れ、御霊の豊かさに来るにあたり、単純ですが非常に重要ないくつかの点に注意する必要があります。

ですがまず、ケルビムとして知られている存在について、一言、二言、述べることにしましょう。聖書中、ケルビムは少なくとも八回、明示的に述べられており、さらに多くの箇所で言及されています。

創世記では、彼らは園の外にいて、いのちの木への道を守っています。彼らは外側にいます。

出エジプト記では、彼らは聖所の内側にいて、安息しています。彼らはもはや外側ではなく、内側にいます。後の章で見るように、これには意味があると思います。

列王記では、彼らは立って待っています。彼らは王を待っています。

イザヤ書では(六章)、彼らは燃えさかって飛んでいます。

黙示録では(四章)、彼らは歌い、賛美しています。

エゼキエル書では、彼らは一章と一〇章で二回明示的に述べられています。彼らは見つめ、走ります。これは幻と行動です。彼らは全体の状況を見つめ、それに関して何かを行います。

彼らの力が聖霊の力であることに注意して下さい。御霊は彼らの中におられます。「生きものの霊」です。そして、御霊は「輪の中」におられます。その活力と力は、御霊の活力と力です。すべてを見わたし、見たことにしたがってすべてを行います。

ケルビムの力は聖霊の力なのです。 

エゼキエルの預言のこの一章に記されている光景をすべてご覧なさい。

活動の様子や生き生きとしている様子をご覧なさい。

豊かないのち、激しい風、音を立てる輪、多くの目、走る足、向きを変えたり進路から逸れたりすることなく、まっすぐ進み続けるひたむきさ、ひらめくいなずま、燃える炭、雲とつむじ風。これらはやむことのない活動です。これはみな何を意味するのでしょう?途方もないエネルギーを意味します。

「行う方」の「行う」という単語は、ギリシャ語の動詞エネルゲオ(energeo)です。これからエネルギー(energy)という単語が派生しました。ですから、パウロの言葉はこうなります、「みこころの御計画にしたがって、すべてのものにエネルギーを与える方」。

これは現在のことであり、この経綸のことであることを、私たちはパウロを通してはっきりと理解します。私は信じていますが、私たちが回復すべき多くのことの一つに次のことがあります。

私たちは、「神は前進しておられる」という確信、信用、信念を回復する必要があるのです。物事がどのように見える時でも、神は今もこのように前進しておられます。神は、万物を通して、万物の上で、万物の背後で、御計画を遂行しておられます。止まることなく、進路から逸れることなく、途方もないエネルギーを用いて、神はみこころの御計画にしたがってすべてのことを行っておられるのです。

外を見る時、「神はいったい何をしておられるのだろう」と怪訝に思い、神に何かをさせようとして祈ることがしばしばあります。

私たちに必要なのは、神が働いておられることを理解し、神の働きと協力することなのです。おそらく神は、私たちの願いや要求とは異なることを、私たちが考えている方法とは異なる方法で行っておられるのでしょう。

神は、私たちの方法や私たちの働きといった、私たちが当然視している方法を用いておられないのでしょう。神はそのようなしかたで来ておられないだけなのかもしれません。しかし神は、止まることなく、絶えることなく、逸れることなく、御旨を遂行しておられます。

神の民に必要なのは、永遠からの神の歩みのまっすぐな道に導かれることです。

以前、「神を体験する」という本の以下の文章を読んでいました。 

「神を体験する7つの事実」

1.神は常にあなたの周りで「働き」、「みわざ」を行っておられます。

2.神はあなたとの「愛の関係」を継続することを強く求めておられます。それは現実的で個人的な関係なのです。

3.神はあなたをご自身のみわざに参加するように「招いて」おられます。

4.神は聖霊により、聖書、祈り、身の周りの出来事、また教会を通して「語られ」ます。それは神ご自身や、神の目的、神の道を示すためです。

5.神がご自身のみわざに参加するようにあなたを招かれる時、あなたは信頼と行動が要求される「信仰の危機」に常に直面します。

6.神のみわざに参加するために、あなたの生活を大きく「修正」しなければなりません。

7.あなたが、神に「従い」、神があなたを通してご自身のみわざを完成される時、あなたは「体験」によって神を知るようになります。 

この中の

1.神は常にあなたの周りで「働き」、「みわざ」を行っておられます。

3.神はあなたをご自身のみわざに参加するように「招いて」おられます。

をいつも念頭に置いていたので、聖霊が生き生きとしている様子、豊かないのち、激しい風、音を立てる輪、多くの目、走る足、向きを変えたり進路から逸れたりすることなく、まっすぐ進み続けるひたむきさ、ひらめくいなずま、燃える炭、雲とつむじ風。これら、やむことのない活動をリアルに感じる事が出来ます。

そして、神は、万物を通して、万物の上で、万物の背後で、御計画を遂行しておられ、止まることなく、進路から逸れることなく、途方もないエネルギーを用いて、神はみこころの御計画にしたがってすべてのことを行っておられるのも分かります。

自分が考え出した何かをイエスさまの為にするのではなく、このような生き生きとした、すごいエネルギーを持って、すべての人を救うべく日夜、休むことなく働いておられる主の働きに気付いて、それに参加していく人生を送りたい。