ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

立ち止まって(追記あり)

私が聞いて、信じている福音、伝道する時に人々に伝えている福音

今一度、立ち止まって、その一つ一つを確認し、味わい、不足しているものがないのかを考える必要があると思っています。

頭で理解し、口で人に説明していても、実際それを啓示として受けているかどうかは別問題だと思いました。

私は一番肝心の、「私の全存在がキリストを十字架につけるほど呪われたもの」だと聖霊に示されたことがあるだろうか。

20年の間、確かに罪責感には苦しめられ、自分は生まれつき「悪」であり、信じた後も自分は「毒麦」ではないかと思っていた時期もあったけれど、それは自己憐憫の延長線にある状態で、本当の罪の示しではなく、真の赦しも受け取っていない気がする。

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒2:36)  

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいのでしょうか。」と言った。(使徒2:37)  

この箇所はユダヤ人達が、神である御子を実際、十字架につけてしまった事を聖霊によって示され、心を刺された箇所であるけれど、キリストを十字架につけたのは、「すべての人」であり、「私自身」なのです。

私はまだ「心を刺された」状態、「自分の全てが罪」「完全に身動きがとれずに死んでいる、呪われている、終わっている」に至っていないと思っています。

そこを通らなければ、「十字架体験」「復活の命」「異言を伴う聖霊の満たし」には至らないと分かりました。

だから未だに「イエスさまの愛が分からない」なんて、寝ぼけた事を言い続けているのだと思います。

「心を刺された」状態、「十字架の死」に導かれますように。 

その時に、本当の意味で癒される。癒しは、そこにしかない。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:4~5)