ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

原型の教会

私が救われた教会は単立のハウスチャーチ(家の教会)で、牧師夫妻と私を含め信徒が4人の計6人の小さな群れでした。

その教会ビジョンは

①教会堂を持たない。

②人を教会に「連れてくる」のではなく、自分達が普段いる場所や人(職場、学校、友人、)の所に「出て行って」福音を宣べ伝える。

③伝道して信じた人の家族が全員信じて、その「家族が教会」になる。

④そういう教会を500作る。(牧師はイエスさまからこのビジョンを与えられた時に500という数は人間には到底無理なので神さまからのものだと思ったそうです。)

現在、私は娘と家庭礼拝を持ちつつ、プリスカとアクラのようなご夫妻が開かれている家庭集会に月に一度、集っています。そこには聖霊の導きと臨在があり、御言葉と祈りと交わりのみのシンプルなものですがこれこそ教会ではないかと思っています。

「教会堂」か「家(個人宅)」かという場所へのこだわりはありません。

ただ「教会堂」は、取得するにも維持するにもとても巨額な献金が必要になることが問題だと思っています。

現在の教会は神学校を卒業した牧師による牧会が一般的ですが、使徒達の時代はどうだったのかが使徒の働きを読むと分かります。

使徒達の時代、パウロや無名の信徒達は宣教のために出て行きましたが、短いところでは3か月でその場所を迫害のために去らなければならず、断食と祈りを通して長老を指名して別の地へと異動しました。

断食と祈りを通して長老を指名するプロセスは『信頼して主のケアのもとに委ねる』という結果に結び付きました。 

また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。(使徒14:23) 

23節の最後の部分は、新たな長老たちは『主に信頼することを学んだ』ことを示唆しています。バルナバもバウロも主に信頼していました。彼らは十分な訓練を受ける時間はありませんでした。神学校もありませんでした。新しい牧師をかかえる教団も教会もありませんでした。人間関係の上にのみ成り立っていたのです。 

現在のように、教会堂を建てるという問題、牧師給をどうするかの問題、牧師になるには神学校に行かなければならないというような事は一切ありませんでした。その為、短期間で沢山の教会が生み出されて行ったのです。 

私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。(テモテ1:5)

私はこのような原型の教会に戻ることが必要だと考えています。

今ある教会、教団が上記のあり方に回帰していくのが一番最善ですが、変わらない場合は聖霊の導きによって起こされた兄弟が単立教会として起こされるのではないかと思っています。

私が集う家庭集会のプリスカとアクラのようなご夫妻はⅠテモテ3:1-7にある「監督の職につく基準」をしっかり備えておられるので長老、霊的責任者として適格だと思っています。

ただ今後ネックに思うのは「聖餐式」や「祝祷」を行ってもいいのかどうかです・・・。原型の教会なら行ってもいいのは分かっているのですが、他者へのつまずきになるなら控えるべきなのか・・・。

いずれにしても使徒の働きでは「聖霊」が主人公になったように豊かに働いておられるのが分かります。もっと「聖霊」の働き、導きを認め、気付いて行かなければと思います。

それと一番大切な事は教会は主が建てるという事を忘れてはいけないと思いました。 

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)

(「星のように砂のように」 ラルフ・モア著 を参照しています。この本は「教会増殖」を目的にしているようで、本来の目的である「キリストの御名において、キリストの栄光だけを求めて、聖霊の導きによって父なる神を礼拝を捧げること<an east windowのミヤサカさんのブログより>」についての言及が無いのが気になりました。)  

新約聖書における家の教会 - an east window