異なった霊の見分け②
次に、少し前にキリスト教書店でベストセラーになっていた『わたしは決してあなたをひとりにしない』サラ・ヤングの本ですが、
『羽村の風』
というブログに、その問題点が指摘されていますが、私は中でも次の点に着目します。
『キャサリーン・マーシャルやアンドリュー・マーレーといった作家の影響から、ヤングはこの神の「臨在」を追い求め、どのようにしたら常に神の臨在を知り、また感じられるかを学ぼうと探求し続けた。神への愛において成長し、神と共にある時間を過ごしたいという願いにおいて成長し、また祈りにおいて神と語り、御言葉を通して神に聞こうとした。彼女が「呼んでおられる神」(原題God Calling)という本を手にしたのは1992年の事であった。(この本は「ある二人の”聞き手”によって書かれた霊想書」であった。この女性たちは、神の臨在の中に静かに待ち、神とペンを手にし、神から受けたメッセージを記録しようと努めた。それらのメッセージは一人称で書かれ,”わたし”は神を意味していた。この本が宝物となり、彼女の教科書になったのである。』
臨在を求める事は大切だと思いますが、「呼んでおられる神」(原題God Calling 「ある二人の”聞き手”によって書かれた霊想書」)いう本は違う霊とコンタクトする為の手引書的な本なのではないかと思っています。
(著者は何を語っているか)ヤングは一年をかけてとりくむ霊想書を、その全てにおいて一人称、つまりイエスからのメッセージとして記している。各々はそれぞれいくつかの聖句が続く。以下は1月8日の霊想の前半部分である。「わたしは、やわらかに私の臨在を告げる。輝かしい彩りのきらめきが、やさしくあなたの良心に触れ、入口はどこかと探す。わたしは天においても地においても全ての力を持っているが、わたしはどこまでもあなたと共にありたい。あなたが弱ければ弱いほど、わたしはあなたに優しく近づこう。あなたの弱さを、私の臨在の戸のところに置け。足りなさを感じたときはいつでも、わたしがあなたの永遠の助け主であることを思い出せ。」
霊想の大半が命令よりもむしろ確言(affirmation)であることは興味深い。それが意味するのは、この本が規範的であるというより、描写的な傾向に向かうであろう、ということである。我々にどう生きるべきかと語るイエスは少なく、イエスとは誰で、我々は何者で、そしてどうすればイエスの「臨在」を楽しめるかを語るイエスが多い。 以下の点は注目に値する。すなわち、こうした確言が扱っているのはクリスチャンとしての経験の非常に狭い範囲だけである、ということである。さらに、本書イエスの言葉の多くが、聖書においてイエスが語る事とはごく僅かしか類似点がないことも同様に注目に値するだろう。例えば、「わたしの臨在の光を、あなたのただ中へと染み渡らせよ。あなたの思考の焦点をわたしに向けるようにして」とあり、その少し後にはこう続く。「わたしの臨在の神秘の中に隠れることを学べ。この世において、あなたの義務を行うかのようにして」。私にはこれが何を意味するのか分かりもしなければ、どのように適用できるのかも分からない。そこには私が従うべき明瞭なる命令もなければ、イエスとは誰かについての、何の明確なる言葉も無いのである。(結論)
最後に「天国は本当にある」トマス・チュナム著を以前、母教会の信徒の方からお勧めされて読みましたが、この本に出てくるイエスさまの言葉も偽物であると分かります。
著者は自称イエスに連れられて何度も天国に行った事が書かれています。
地獄に自分の両親がいるのを見たり、堕胎された赤ちゃんたちがいる所に連れて行かれ、「わたしは堕胎が嫌いだ!」とイエスさまが怒って叫んでいる箇所を読んで、堕胎は罪だけれど、このような本を通してイエスさまはこんな事は言わない・・・と思い、違う霊だとすぐに分かりました。
その他にも
「チュナムよ、あなたにはなすべき事がたくさんある。わたしはあなたに本を書いてもらいたい。その本は終末に関する重要な本だ。その本はたくさんの言語に翻訳されるだろう。わたしはあなたが生まれる前に、すでにこの事のためにあなたを選んだのだ。わたしの力をあなたに注ぐあなたの体をいつも震えさせる理由がこれだ。あなたに聖霊の権能が臨まないなら、わたしはあなたを用いることができない。あなたが初めてわたしに心を開いた時、わたしの力があなたに働き始めたという事を覚えていなければならない。あなたはわたしの働きのために、私が信じて委ねる娘なのだ。」(p111)「私に任された働きを成し遂げるためには、主が私の人生で成すべき事が、まだたくさんありました。過ぎ去った過去が私に劣等感を抱かせ、自分自身を無価値な存在かのように感じさせていました。主は、私がまず自信を持つようにしておられるようでした。『わたしの娘よ、あなたに天国の重要な部分を見せたから、あなたが見た事を、全ての人に伝えるのだ。わたしは今日、以前に見せた多くの事を再び見せた。あなたが受けた召しを果たす時に、多くの人が救いを受けるだろう。この本を全世界の人が読むだろう。』「けれども主よ、私は何者でもありません。どうして私をお選びになられたのでしょうか?なぜ、すでに有名な人を選ばれなかったのですか?」『チュナムよ、わたしはこの終わりの時の働きのために、あなたを創造した。わたしたあなたを有名にするのだ。すでにあなたはわたしの教えを学んでいる。そしてわたしは、あなたが忠誠を尽くす者であるのを知っている』(p149)「あなたは特別な心を持っている。それが、わたしがあなたの祈りにこたえる理由だ。わたしは、あなたの心が純粋で従順である事を知っている。わたしは多くの事について、あなたを信頼している。だから、わたしはその重要な働きのために、あなたを選んだのだ。」(p58)「主は語られました。『あなたは、わたしの尊い娘だ。あなたがどこに行っても、わたしはあなたと共にいるだろう。わたしはそのままのあなたを愛している』(p45)」
チュナムに語り掛ける霊は何度も何度も、「この本を出版しなさい」と語るのですが、それは、サタンがこの世で人々から崇められたいために起こしている事で、
さらに「あなたを有名にする」とか、「あなたの心が純粋で従順であることを知っている」「わたしの尊い娘」のように「自尊心」をくすぐるような事を言ってきます。
自我に死んでいない状態、自己憐憫、セルフイメージの低さ、逆に自己顕示欲などを抱えていると、サタンはそこを足場にやってくるような気がします。
以上、4人の方に語り掛けて来た霊は「神からの霊」ではなく、「前に受けたことのない異なった霊」であり、「光の御使いに変装するサタン」の霊なのではないかと思います。