ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

宣教の言葉のパラダイム・シフト (後藤 敏夫)を読んで

いのちのことば社の「いのちのことば 8月号」に「『神の秘められた計画』福音の再考」の著者 後藤 敏夫さんがこの本の紹介で次のように書かれていました。 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4) 

という今、盛んに語られるみことばを、私は教会生活のある時期まで聞いたことがありませんでした。

それまではヨハネ3章16節が小聖書と呼ばれて福音派の宣教の中心聖句でした。 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

どこかで宣教の言葉のパラダイム・シフトが起こったようです。それはたとえば中高生のキャンプなどで、「あなたは愛されている」とか「あなたは宝物」とか「大切なきみ」といった主題が好んで取り上げられるようになったころ、私の記憶では1970年代の終わりから1980年代にかけてのことです。

その背景には、急速に進行する世俗化、人間の全体性が失われ心理的に切り刻まれるストレスに満ちた競争社会、家庭の崩壊とも結びついた現代人のセルフイメージの低下と自己承認欲求、そしてポストモダンの思想や生活様式の多様化ということがあります。そういう中で、それ以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的メッセージが、この世に生きる信徒の生活に対応しきれなくなり、窮屈で抑圧的にすら感じられるようになりました。

牧会の現場に心理学やカウンセリングが導入され始めた頃、新しい風が吹いて来るようで、あるがままの心と身体が軽くなるような喜びや開放感がありました。しかし、どこかで福音派の講壇のメッセージや信仰がより実利主義的になり、人間中心になりました。それは賛美の歌にも反映します。「きみは愛されるために生まれた」というのは大切な福音のメッセージです。しかし「きみは愛するために罪を赦されて新しく生まれた」という十字架の福音のメッセージを聞くことは稀です。

「イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました」、「イエス様を信じれば一度限りすべての罪が赦されます」、「イエス様を信じて天国に行きましょう」という福音派の宣教の言葉が、救われた者としてイエス様に従う生活を生み出さないという現実があります。

『神の秘められた計画』(著書)は十字架の罪の赦しは何のためだったのか、私たちが救われた目的は何かを再考した本です。それはこの時代を生きるクリスチャンにとって、キリストの福音を宣べ伝えるために切実な課題です。

 

と書かれていました。

「きみは愛されるために生まれた」ではなく

「きみは愛するために罪を赦されて新しく生まれた」という表現が聖書のメッセージだと思いました。 

それはイエスさまの言葉でも分かります。 愛されるためだけでなく、愛し合うためにイエスさまは十字架に架かって下さったのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)  

それから

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4) 

の御言葉はバプテスマのヨハネやイエスさまが説いた「悔い改め」には繋がっていきません。

私たちはキリストが十字架で死ななければならないほど全てが罪に汚染されている事、だから私たちもキリストと共に十字架について死んだという事、そしてキリストが復活された時に私たちも共にキリストの内によみがらされたという事です。

それはわたしたちが罪の奴隷から解放され義の奴隷となり御霊の実を結ぶためですが、何より神が求めておられるのは私たちと交わりを持つことなのだと思います。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20) 

あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。(コロサイ2:12)  

 ローマ書6章(塚本訳)

:3 それともあなた達は知らないのか、キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達はみな(彼のものになって、)彼の死へと洗礼を受けたのである。

:4 だからこの死への洗礼によって、彼とい一しょに(死んで一しょに)葬られたのである。これはキリストが父上の栄光によって死人の中から復活されたように、わたし達も(復活して)新しい命をもって歩くためである。

:5 なぜなら、わたし達が(洗礼によって)彼と合体してその死にあやかる者になった以上、復活にもあやかるのは当然だからである。

:6 わたし達はこのことを知っている。──(洗礼は十字架をあらわす。)古いわたし達は(キリストと)一しょに十字架につけられたが、これは罪の体がほろび失せて、わたし達がもう二度と罪の奴隷にならないためであると。

:7 死んだ者は罪から解放されるからである。

:8 しかしキリストと一しょに死んだ以上は、一しょに生きることをもわたし達は信じている。 

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:3)