信じていても感じる空虚感
『さがしていた どんなものも満たすことのできない心の中を
永遠に満たし続けるその愛を
尽きることも変わることもない愛が確かにあるならば
信じよう
人のいのちは輝きはじめる』
LYREの「永遠にあなたを満たすもの」の歌詞の冒頭です。
20年に及ぶ罪責感に苦しみ、助けを求めている中で
イエスさまに出会い、
新生し、
罪の赦しを受け、
長年の罪責感からも癒された。
聖霊の内住の啓示をも受けさせてくださった。
その時は「どんなものも満たすことのできない心の中」がイエスさまの愛によって満たされた。
でも、ふと心を覗くと、私の心の中には、まだ埋めることのできない空洞があって
時にそれは痛みを伴います。
聖霊に満たされた方が書かれたブログや書籍を読んだ時は神の愛に涙するのに
一人になると、やはり空虚感が残るのです。
聖霊のバプテスマを受けていないから、この空洞が埋まらないのかと思っていましたが
クリスチャンであっても、「自分自身の感覚に意識を置く」なら、やはり空虚感というのが入り込んでくるそうです。
では、どうしたらこの空虚感から解放されるのか
:29 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。
:30 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。
:31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
:32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
人々から、そして弟子たちからさえも見捨てられるのを知りつつも「わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」と言われた御子の霊によって平安と勇気を受け、保つことによって、その空虚感から解放されると知りました。
塚本訳 ヨハネ16章
:31 イエスは(いとおしげに彼らを見やりながら)答えられた、「いま信ずるというのか。
:32 見ていなさい、みなちりぢりになって自分の家にかえり、わたしを独りぼっちにする時が来るから、いや、もう来ている。しかしわたしは独りぼっちではない、父上がいつも一しょにいてくださるのだから。
:33 これらのことを話したのは、あなた達がわたしに(しっかり)結びついていて、平安を保つことができるためである。この世ではあなた達に苦しみがある。しかし安心していなさい。わたしがすでに世に勝っている。」
御父が御子といつも一緒にいて下さったように、私にもいつも一緒に居て下さる御子の霊が内におられる。自分自身の感覚に意識を置かず、御子から目を離さないで、しっかり結びついていて平安を保っていたい。