祝福を追い求めたヤコブの背景と動機
ファミリーフォーラムジャパンの記事に夫婦、親子間における祝福する事の大切さについて書かれている文章がありました。
その文章を読んで、ヤコブがどうして祝福を求めて格闘したのか、その背景と動機が分かったような気がしています。
本来の記事の趣旨とは着眼点が違いますが、一部抜粋(編集)したものを下記に載せます。
創世記32章
:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。
日頃の生活において人々を「祝福」することはどのようなことでしょうか。
特に夫婦や親子関係においてどうなのでしょうか。それは感謝、称賛や感嘆、そして愛情を表現し、受け取ることから始まります。
家族の誰であろうとその存在と努力に感謝を表すことは「祝福」の重要な要因の一つです。
夫も妻も子供もお年寄りもみんなお互いから肯定される必要があるのです。この「肯定」という言葉に相当する聖書の言葉は「祝福」。それは私たちみんなが欲しいものなのです。
創世記1:26−27で神は男女をご自分の形に創造されましたが、その直後の1:28に「神は彼らを祝福された。」とあります。
つまり、神は人を肯定し、彼らに笑顔を輝かせ、彼らを元気付け、彼らを喜んだということです。神がしたことから私たちも見習うことができます。
創世記の続く章において神は繰り返し、人々に祝福の言葉を与えています。そしてこれは聖書の大切なテーマの一つとなります。この点で目立つ聖書の人物はヤコブですが、彼がどのように祝福を追い求めたかを理解してみましょう。
名前が「侮る者」と言う意味だったことに関連し、そして父親の愛情と肯定がなかったことにも関連し、しかし同時に神から与えられたアブラハムの契約に対する情熱のためにヤコブは夢中になって「祝福」を恋慕いました。しかし、特に若い時には、それを不適切な方法で追い求めたのです・・・偽りや操りで。しかし、叔父のために働き始めたら、自分が騙されたり、操られたりする側になってしまい、喧嘩だらけの家族生活に呪われてしまったのです。
そんな人生を送ったヤコブがどんなに肯定されること、祝福されること、身近な者たちから愛情と称賛と感謝を経験することに飢えていたかを十分想像できます。
しかし、その願いは、人生のクライマックス・・・すなわち受肉前のキリストとの夜通しの格闘の時まで叶えられなかったのです。
格闘の相手だった「人」(受肉前のキリストと思われていますが)が立ち去ろうとした時、ヤコブは彼に必死にしがみつき、「私を祝福してくださらなければ、あなたを去らせません」と要求したのであります。(創世記32:26)
それに対し戻ってきた言葉は、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)
神の子ご自身がヤコブに新しい名前を含んだ、これ以上もない祝福と肯定の言葉をくれたのです。
私たちの学ぶべきことは、私たちがこの人生において最も必要としている肯定は神の祝福であると言うこと。
しかし、それは耐え忍んで求め続けなければならないものであると言うことです。
旧約聖書には「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ29:13)とありますし、イエスも「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と言われました。
また、ペテロは次のように言っています。
「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(1ペテロ3:8−9)
これによるとこの世での人間関係の大切な目標は相手を祝福することですが、私たちはキリストに従う者であり、家族のメンバー(特に結婚関係)を祝福することが一つの目的になります。※(最後の3行のみ編集)
以上になります。
ヤコブが夢中になって祝福を追い求めた背景は「父親の愛情と肯定がなかったこと(父イサクはエサウを愛した)、同時に神から与えられたアブラハムの契約に対する情熱」の為であった事が分かりました。
ヤコブがどんなに「肯定されること」「祝福されること」「身近な者たちから愛情と称賛と感謝を経験すること」に飢えていたか。
だからヤコブは必死にしがみつき「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と夜明けまで受肉前のイエスさまと格闘したのです。
私もヤコブと同様に両親から「肯定されること」「祝福されること」「身近な者たちから愛情と称賛と感謝」を経験した事がない為、未だに神さまからの愛を感じられないところがあります。既にキリストの十字架と復活によって祝福は豊かに与えられ、注がれているのにそれが見えていない状態です。
昨日は月に一度の家庭集会でしたが、何かの話の流れで、神さまの愛が未だに分からない事を伝えると、主催者のJさんが「その気持ちとても良く分かる。私も10代で救われたけれども、母親から受けた心の傷が原因で、頭では神の愛は理解できるけれど実感として分かるようになったのは、母親から受けた扱いがDVの一種だったのだと分かり、癒しを体験した50代になってからだった」と話して下さいました。そしてすぐに「祈りましょう」と言って祈って下さったのでした。
その祈りの中に次の御言葉がありました。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)
これまでずっと「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」という御言葉を読んでも理解できませんでしたが、Jさんの祈りと、この御言葉が心の深いところに届いて心が温かくなり涙が出ました。Jさんも一緒に泣いていました。
神の愛を知る基礎として親から「肯定されること」「祝福されること」「愛情と称賛と感謝を経験すること」は大切な事なのだとあらためて思わされました。
けれど何より一番大切な事は
「私たちの学ぶべきことは、私たちがこの人生において最も必要としている肯定は神の祝福であると言うこと。」
人からの祝福(肯定)ではなく、ヤコブが求めた主の「祝福」(肯定)の啓示を受ける事が出来ますように。