ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

セルフイメージ vs 古い人を死に定める

多くのクリスチャン・カウンセラーが、心理学によって得られた洞察を正しく用いながらも、心理学の考え方にとどまってしまうという誤ちを犯しているため、結果として多くの混乱が生じていることに気付きました。

心理学ではセルフイメージを修正することで、自分に自信が持てるようにします。

しかし、キリストは私たちの肉的な自信を葬り去ることで、私たちに唯一残されたセルフイメージが、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)となるようにされるのです。

セルフイメージとは、私たち自身が建て上げ、誤って頼るようになるものです。

セルフイメージは必然的に私たちを、そのイメージを守るため、またほかの人が見て褒めてくれるためという自己中心的な努力に駆り立てます。私たちはそのイメージを守り、築き上げ、建て直さなければならなくなるのです。

しかし、クリスチャンのアイデンティティは賜物として与えられるものであり、神が私たちの内に建て上げてくださるものなので、人から見られたり、認められたりする必要も、自分の力で守っていく必要もないのです。

 

クリスチャンのいやしは、壊れたものを何とかもう一度使い物になるように修復するのではなく、その壊れたものによって支配されることから私たちを解放し、壊れたものは壊れたままで、その中に、またそれを通して主の義が輝くのだということに信頼できるようにするものです。

この世の考え方では壊れたものを修理し、プライドや自信を建て直そうとします。しかし、主はこう言われます。「我々は一切の手を加えることなく直そう。その壊れたものを神の栄光を顕すために用い、その罪を知ったことから、神の御霊が我々を通してキリストの御性質の麗しさを褒め歌い、全ての人がそれを知るようになるということに、日々新たに信頼していこう。」

「あなたにすべての栄光を帰するように気を付けます」などどわざわざ言わなくても、自分がすでに罪の中に死んでいることを充分に理解すれば、当然すべての栄光は主のものとなるのです。私たちは何一つ、良いことなどしません。神がすべてを成し遂げてくださるのです。

その意味では、魂にはいやしなどあり得ません。死と再生があるのみです。

旧約聖書では魂の回復というものが語られていますが(詩篇23:3.19:7など)クリスチャンはたえずそれを、死とイエスの義による再生という意味に置き換えて捉えなければなりません。

ローマ書

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 

 まさにこの神学上の転換点において、クリスチャン・カウンセラーの多くは、相談者の船を座礁させてしまっています。他人のセルフイメージを(私たちの内におられるキリストから離れたところで)建て直そうとする人は誰でも、十字架に逆らって働いていることになるからです。

ガラテヤ6:12-14の「割礼を強制する」という部分を「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」に置き換えて、この箇所を読み直してみてください。

 ガラテヤ書

6:12 あなたがたに「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。

6:13 なぜなら、「セルフイメージのために生きる」人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに「自分のセルフイメージを見出し、そのセルフイメージのために生きることを強いる」のは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。

6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 良いものも悪いものも、私たちの中に築き上げられた性格はすべてキリストにあって死に、再形成されなければなりません。聖化とは、堕落した習慣を一つ一つ取り除き、やがてはその人の性質全体が美しく輝くようになる過程を意味するのではありません。

自分自身が完全な姿に造られているどころか、実は完全に堕落しているのだということを知り、イエスにあってそのことを安心して受け入れられるようになることなのです。 

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ7:18)  

5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)  

私たちがこのように、自分が完全に堕落した存在であることを悟るとき、私たちの砕かれた心を通して主のご性質が輝き、その栄光を現すのです。

エスの十字架での死は単なる肉体的な死ではありませんでした。イエスはあらゆる面において私たちの罪そのものになられて、心と頭、魂と肉体の全てにおいて、死を体験してくださったのです。このような完全な死の状態からイエスは私たちを、主にあって新しく造られた者として甦らせてくださるのです。ですから私たちは新しく造られた者なのです。 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)

それでもまだ危険性が残ります。それは、イエスという光輝く新しい塗装の下に錆のように存在する自己の堕落した性質が、私たちが主に背を向けるやいなや、再び自己主張しようと待ち構えていることを忘れてしまう危険です。

私たちは結局のところ、自分がそこそこ良い人間であると思いたいのです。「確かに悪いことも多少はしてきた。しかし、その代価はイエスによって支払われたのだから、これからは神によって本来造られた『いい人』になれる」と考えているのです。

けれども皆さん、そうではありません。表面の皮を剥がしたら中から良いものが出てくるのではなく、全体が堕落しているのです。ですから、しなくてはならないことは、「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着る」(コロサイ3)ことです。身にまとうことによって、私たちは新しい性質を得るのです。

 

教会にこれまで欠けていたのは、日々キリストにあって死に、再生することでした。

この死と再生がもうすでに成し遂げられたと私たちは勝手に歌ってきましたが、本当はまだその過程が始まったばかりなのです。

救いは私たちの行いによるのではなく、神からの無償の賜物である。(エペソ2:8-9)と書いた使徒が、別のところでは「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と書いています。

エスの血潮は罪を洗い清め、十字架は贖い、義とし、罪の代価を払います。

そして復活は回復をもたらし、新しい命を与えます。

しかし、私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことが出来るのです。

この継続的な聖化の過程が日々十分に起こってこそ、一人一人のクリスチャンとしても、またキリストのからだ全体としても、成熟した信仰の人が現れるのです。(エペソ4:16)

【内なる人の変革 ジョン&ポーラサンフォード】

 

以上、長い引用になりましたが、大事な事はセルフイメージを建て上げることではなく

【私たち自身が日々自分の十字架を背負うことによってのみ、古い人を死に定めるという必要不可欠なことを、継続して行っていくことが出来るのです。】

の部分だと思います。

 

聖霊は私たちの古い人(古い生き方、古い考え方、偽り、罪)を日々、色々な状況を通して示してくださいます。

それらは既に十字架上で「死刑になったのだ」と認識し祈る時に、解放され、新しいいのちに生きていけるのだと最近教えて頂きました。

私たちクリスチャン一人一人が、また教会の群れが成熟した信仰の人になるためには、この過程を日々通る事が必須であると思います。