ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

「主の祈り」で一番大切な事

 

出エジプト記  

6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。

6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。

6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。

6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。

6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。

6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」 

4節で、神はアブラハム達と契約を結ばれたことを確認し、5節では、神は契約を思い起こされたと言明します。

続く6節から8節でエホバ(YHWH)なる神が語られた言葉を注意深く見ると、「わたしは主(YHWH)である。」という言葉ではじまり、それで終わっています。

ヘブライ語もそうなのです。

『はじめ』と『終わり』に契約者の名前が来る場合、その中にある文章は『契約文』と読むのが当時の文書の習慣でした。

すると6-8節はエホバ(YHWH)の契約文です。

エホバ(YHWH)という言葉の概念は、イスラエルの民が約束の地で神の民として生きるという契約と深く結びついているのです。 

もしエホバ(YHWH)というタイトルがイスラエルの民との契約に結びつけられた神のお名前であるとするなら、その契約に与っているわけでもない私たちが、そのタイトルを使うことはふさわしいのでしょうか?

むしろ、新しい契約にふさわし名前を使用すべきではないでしょうか。 

キリストの贖いを受けて、新しい契約に与った人々は、イエスと弟子たちが使われた『父』『神』『主』という表現を祈りに使えばよいのではないでしょうか。 

『主の祈り』を確認します。 

マタイの福音書

6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 

6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。  

 この祈りはイエスさまが、弟子達にどのように祈ったらよいかを教えてくださったものです。ここでイエスさまは『エホバ(YHWH)よ。』とは言っていないのです。

『天にいます私たちの父よ』と言っています。

エスさまは弟子たちに、『神との新しい関係』をお教えになりたかったのです。

旧約聖書の時代、神を父として親しく呼ぶことはできませんでした。

イスラエルの民が民族として神を父とみなしている例はいくつかあげることはできますが、個人として神を父と呼びかけることは許されていませんでした。

ところがキリストは、神を父と呼ぶことができる関係に人々を招き入れて下さったのです!!

私は『主の祈り』で一番大切な要素、イエスさまが一番伝えたかったことは、『私が十字架に架かり復活するので、あなたがたは、神を父と呼ぶ事ができる関係になるんだよ』と言うことだったのではないかと思います。 

 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。(ローマ8:15) 

 

以下は私の現在の葛藤です。

「主の祈り」をベースにキリスト教会のフォーマルな祈りは

「天の父なる神さま」で始まり、祈りの内容があり、「イエスキリストの名によって祈ります。アーメン」で閉じると思います。

イエス・キリストの名によって」という言葉は本当に大切で、罪ある人間は本来、義なる聖い神と交わることができない者であったのに、イエスさまの十字架の贖いによって神と和解し関係が回復した為、祈りを通して交わる事ができるようになったからです。

けれど現段階の私はどちらからと言うと、「イエスさま!」「主(イエス)よ」と祈る事が多いのです。

勿論、主なる神は三位一体なので、父なる神に祈っても、イエスさまに祈っても三位一体の神に祈っているのだと思います。

でも、もし「主の祈り」を教えて下さったイエスさまの一番の目的が、

「神を父と呼ぶことができる関係に人々を招き入れて下さった。」という事なら、フォーマルな祈りとして形式的に「天の父なる神さま」と祈る事に固執するのは違うのではないか・・・と思い始めました。

今朝は、イエスさまの昇天後、弟子達は誰に祈っているのかを使徒の働きを読んで確認しています。

父に祈っている箇所もありますが、イエスさまに祈っている箇所もあり、祈りの応答として直接言葉を通して答えておられるのは、今の段階ではイエスさまなのです。

ユダヤ教の人も、イスラム教の人もエホバの証人もヤーウエーなる、エホバなる神に祈っています。

けれど私たちクリスチャンはイエスさまの贖いにより与えられた聖霊によって、イエスさまのご人格を通した交わりの中で、祈ることが決定的な違いなのではないかとも思っています。 

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(Ⅰコリント1:9)

異言での祈りはこのような形式的な祈りや考え方から解放されて祈れるので素晴らしい事だと思います。