ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る

 

マタイの福音書

25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 

25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

この箇所は新共同訳聖書の小見出しのタイトルは「すべての民族を裁く」となっていて、他にも「人の子の裁き」というタイトルがつけられているものもありました。

「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)であり、イエスさまは救い主ですが、次にイエスさまが来られる時は裁き主として来られます。 

救われてすぐ、聖書を読んでいて怖いと思った箇所の一つです。

エスさまの十字架と復活が自分の罪の為であったと信じて救われても、ここに書かれている事を行っていないなら、最終的には永遠の刑罰に入ることになるんだ・・・。

私にはできないかも・・・。 

この箇所の解説として次のように聖書に書き込んでいました。

「この愛のわざが救いの条件の功徳となるのではない。ここに列挙されている愛のわざは、彼らが正しい人であることの根拠なのではなく、その証拠であることを示す。

それは彼らが知らずにした彼らの信仰から生じた「良い実」である。

愛のわざは、その人にほんとうの信仰があったことの目に見える証拠となる。

そういう証拠が最後の審判の時に本当の信仰と見せかけの信仰を区別するために必要になってくる。

私たちが救われるのは、まことの信仰によってである。」 

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。(ガラテヤ5:6)  

ヤコブ゙書

2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」 

ヤコブ書の上記の箇所を最初に読んだ時には 

救い=信仰+行い!? 

と思ってしまいましたが、これは異端のグループになります。 

ヤコブがここで何を言っているかというと

「本物の信仰には必ず行いが伴う」と言っているのです。

クリスチャンは信仰によって救われます。 

救い=信仰のみ 

罪が赦され、

永遠のいのちが与えられ、

心が新しく造りかえられる。

これを経験したなら生き方が変わります。

「行ない」は、救われた「結果」であり、救われるための「手段」ではないのです。

 

さらに今日はヨハネ10章の良い羊飼いの箇所を読んでいましたが、そこからエゼキエル34章を開いてみました。

前半は自分を肥やしているイスラエルの牧者たちにに対する主の糾弾が語られます。 

エゼキエル書

34:1 次のような主のことばが私にあった。

34:2 「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

34:3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

34:4 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

34:5 彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。

34:6 わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。

34:7 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。

34:8 わたしは生きている、――神である主の御告げ。――わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。

34:9 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。

34:10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。 

後半は良い羊飼いについて語られます。

34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

34:12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

34:13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。

34:14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。

34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――

34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

 この箇所を読んだ時に、羊に対する主の「愛」と「憐れみの心」を強く感じました。

特に「34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」のところです。

何だかマタイ25章の「愛のわざ」と同じ事を語っているようです。 

 この良い羊飼いはエゼキエル34章23-24にイエスさまであると預言されています。

 34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。

34:24 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。

  主の霊に満たされた者は、主の「愛」と「憐れみ」が心に注がれて、主にある兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりに「愛のわざ」を自然に行うことができるのだと思いました。

羊として右側に選ばれるか、選ばれないか、永遠の火という「裁き」に遭うか、遭わないかの「恐れ」など無しに。

ヤコブは言っています。

2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

そして、この人たちは永遠のいのちにはいるのです。