新しい歩み、生き方
ヨハネ8章を読んでいます。姦淫の場で捕らえられた女の話から始まります。
塚本訳を読んで、小さいけれど新たな発見がありました。
塚本訳1963
7:53 【人々はそれぞれ家にかえったが、
8:1 イエスはオリブ山に行かれた。
8:2 次の朝早く、また宮に行かれると、人々が皆あつまってきたので、座って教えておられた。
8:3 すると聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押えられた女をつれてきた。みんなの真中に立たせて、
8:4 イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押えられたのです。
8:5 モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」
8:6 こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。
8:7 しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪(をおかしたこと)のない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」
8:8 そしてまた身をかがめて、地の上に何か書いておられた。
8:9 これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、(最後に)ただイエスと、真中に立ったままの女とが残った。
8:10 イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」
8:11 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」】
この文章中の以下の箇所に目が留まりました。
8:9 これを聞くと、彼らは皆(良心に責められ、)老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、
民衆が自分達は「罪のない者」ではないと理解はしていて立ち去ったという事は分かっていましたが、その時に「良心に責められ」るような強い「悔い改め」の心が生じていたとは気が付きませんでした。
そして
この一文を読んで、地面に字を書かれているイエスさまだけが、大きく目に飛び込んで来ました。
イエスさまだけが、ただお一人「罪のないお方」なので、その場に一人留まられることが出来た事が深く心に迫りました。(Ⅱコリント5:21,Ⅰペテロ2:22)
民衆は「罪のない」神であるイエスさまに直に会い、直にその言葉を聞いたので「悔い改め」の心が生じたのではないかとも思いました。
それから、人を裁くことが出来るのは、罪のない神ただお一人であって、私たち人間には人を裁く権利はないのだとあらためて理解する事ができました。
8:10 イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」
8:11 「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」
以下は、どこからかの解説を読んで聖書に書き込んでいました。
「なぜイエスさまはこの時、婦人を裁かれなかったのか?彼女の罪をご自分が背負われて、彼女が受けなければいけない刑罰をご自分が引き受けることによって、彼女を赦して下さるためだった。
「イエスはこの女の罪を見過ごし、軽んじたのではなく、イエスは彼女を罪から救い、姦淫の女に変えられた新しい生き方をするように告げた。」
「キリストの十字架」によって私の数々の罪が赦されたこと、そしてその罪を行っている「古い人」がキリストと共に十字架に付けられた事によって初めて、「罪の奴隷」「罪の支配」から解放されて自由になる(ヨハネ8:32)こと、そして御子が「復活」された時に私も御子の内に入れられているので、御霊の導きによる「新しい生き方」ができるようになるのだと思いました。
私は「新しい歩み、生き方」が出来ているだろうか?(ローマ6:4)
まだ自分は「罪の奴隷」になっている部分があることを認めます。
罪には何らかのメリットがありますが、それは一時的なメリットで、最終的に滅びに至るものです。(ローマ6:20-21)
サタンの策略に騙されないようにしなければなりません。
イエスさまご自身がいのちを捨ててまで、「この世」から私を取り出して下さった(ヨハネ15:19)のに、それなのにまだ、「この世の罪」と手を切らない自分は、イエスさまをもう一度十字架に架けるような者(ヘブル6:5)になってしまうのだと深く悔い改めに導かれた朝でした。
このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(Ⅰペテロ4:1-2)
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ2:9)