ナルドの香油

あなたは私の隠れ場(詩篇32:7)

主のために「むだにする」①

父は私の受洗に大反対で、教会に押しかけて来たり、「目を覚ませ!」とビンタされたりしましたが、半年後に奇跡的に受洗出来ました。

その後、うちにやって来てはキリスト教に対して否定的な事を時々語りました。

今でも覚えているのは、職場に東大出身のエリートで、いずれ局長になるのではないかとみんなに噂されていた同僚がいたそうなのですが、奥さんがクリスチャンで、その影響を受け、キリスト教に「かぶれて」退職してしまった事。数年後に見かけたらとてもみすぼらしくなっていて、キリスト教になったって何も良い事がないというような話でした。

その時は何も言い返せませんでしたが、ウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」の中にそれに対する答えが書かれていました。 

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最後の章の出発点として、十字架の影において起こった福音書中の出来事を取り上げてみましょう。それは、その内容において、歴史的でありしかも預言的である出来事でした。

エスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に効果で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスに注ぎかけた。・・・イエスは言われた・・・『よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう。』(マルコ14:3,6,9)

このように主は、高価な油を注いだマリヤの話が、常に福音の物語に同伴するように定められました。すなわち、マリヤのなしたことは、常に主のなされたことと切っても切れない関係にあるのです。これは、主ご自身の声明です。では、主はこのことから、私たちに何を理解させようとなさっておられるのでしょうか。

私たちはだれでも、マリヤのなしたことをよく知っていると思います。ヨハネによる福音書十二章に出ている記事から見ると、(この出来事は、マリヤの兄弟ラザロのよみがえりからほどなく起こりました)その家庭は特に裕福ではなかったように推察できます。姉妹たち自身が家事の仕事をしなければならなかったのです。というのは、このもてなしのとき「マルタは給仕をしていた」と書いてあるからです(ヨハネ12:2,ルカ10:40と比較のこと)。明らかに彼女たちにとっては、わずかなお金も大切でした。それにもかかわらず、姉妹の一人マリヤは、自分の貴重な財産の中から、三百デナリの香油が入った石膏のつぼを取り出し、そのぜんぶを主のために使いはたしてしまったのです。人間の理性は、これを実に行き過ぎであり、過分なものを主にささげたと言いました。そのため、ユダは真っ先に、マリヤのやったことは浪費であるという不満をぶちまけ、他の弟子たちもこの意見を支持したのです。

【「むだにする」こと】

「すると、ある人々が憤って互に言った、『なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに。』そして女をきびしくとがめた」(マルコ14:4,5)

この聖句は、最後に私たちが共に深く考えることを主が望んでおられると私の信じること、すなわち「むだにする」という小さな言葉に表されているものに、私たちを導きます。

「むだにする」とはどんなことでしょうか。「むだにする」とは、まず第一に、必要以上を与えることを意味します。一シリングでいいのに一ポンドも支払ったとすれば、それはむだ使いです。二オンスで足りるところを一キログラムも与えてしまうなら、それたむだ使いです。ある仕事を終えるのに三日間ぐらいで十分なのに、五日間も一週間も使うなら、あなたは時をむだ使いすることになります。「むだにする」とは、あまりにも小さなものに、余りにも多くのものを与えることを意味します。もし、ある人が自分の価値以上に受けたとすれば、むだになるのです。

しかし今ここで私たちは、福音の行く所ならどこへでも、その福音と共に宣べ伝えられねばならないと主が言われた事柄を取り扱っているのです。このことを忘れないでください。なぜ主はこのように言われたのでしょうか。それは福音の宣教が、この場のマリヤの行動の線にそったものを生み出すことを、主は意図しておられるからです。すなわち主は、人々が御自分のもとに来て、主のために自己を「むだ」にすべきことを意図しておられるのです。これが主の求めておられる結果なのです。

私たちは、主のために「むだにする」というこの問題を二つの観点から見なけれななりません。すなわち、一つはユダの見解(ヨハネ12:4-6)、一つは他の弟子たちの見解(マタイ26:8,9)です。そして私たちの現在の目的のために、この両方の記述を一緒に考えていきたいと思います。

十二人の弟子たちは、一人残らず、それを「むだにする」ことだと考えました。イエスを一度も「主」と呼ばなかったユダにとっては、もちろん主に注がれたすべてのものが「むだ使い」でありました。香油が浪費であったばかりでなく、たといただの水であったとしても、浪費だったことでしょう。ここでユダは、この世を代表しています。世の評価をもってしては、主への奉仕とこのような奉仕のために自己に献げることは、全くむだなことであります。かつて主は、決して世の者から愛されたことがなく、世の人々は主を心にとめませんでした。そのため、どのようなものでも、主に献げることは浪費にほかならないのです。「○○さんはもしクリスチャンでなければ、出世したことでしょうに!」と多くの人は言います。なぜなら人は、世の人の目からすれば、なんらかの才能と財産を持っているものであり、そのため彼が主に仕えることは、世の人の目から見れば恥と思えるのです。世の人は、このような人材は、主にはもったいなさすぎると考えるのです。そして「意義ある人生をなんとむだにすることか!」と言うのです。

私の個人的な例をあげさせて下さい。1929年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまで眺めてこう言いました。

「ねぇ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみに随分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは、今、この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」彼は私を射抜くような眼差しで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間・・・それは私にとって、初めての経験でしたが・・・私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽すことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。

ユダはそれをむだと感じました。「私たちは金銭を、何かほかの方法でもっと有益に活用できるでしょう。貧しい人々も随分います。どうしてそのお金を慈善のために献げ、貧民の生活向上のための社会奉仕をするなり、何か実際的な方法で貧しい人々を援助するなりしないのですか。どうしてそれをイエスの足許に注ぎ出してしまうのですか」(ヨハネ12:4-6参照)。これこそ世が常に説きつけてくるやり方です。「あなたは、もっと生甲斐のあるすぐれた職場が見つけられないのですか。あなたはもっと良いことができないのですか。あなた自身をすっかり主の献げてしまうなんて、ちょっと行き過ぎですよ。」

しかし、もし主がそれに価するかたであれば、それがどうして浪費と言えるでしょうか。主は、そのように仕えられるにふさわしいかたです。主は、私を御自身の囚人にさせるのにふさわしいかたです。主は、私が彼のためにのみ生きるにふさわしい価値を持つおかたです。主は、私たちのすべてを受けるのにふさわしいおかたです。それについて世間がなんと言おうと、問題ではありません。主は「この女のするままにさせておきなさい」と言われました。だから、私たちも思い悩まないようにしましょう。人々は勝手なことを言うかもしれません。しかし私たちが、主が「それは良いことである。すべての真のわざは貧しい人々のためになされるのではない。すべての真のわざは、私のためになされるべきである。」と言われたその基盤の上に、立つことができるのです。ひとたび私たちの目が主イエスの真の価値に目覚めたならば、主に対して良すぎるというものは、何一つとしてなくなってくるのです。