ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

真理への愛

今朝はⅡテサロニケを読んでいます。次の聖句を読んでいたら、ローマ書の聖句が思い浮かびました。

Ⅱテサロニケ2章

:9  不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

:10  また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす霊を送り込まれます。

:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。 

ローマ1章

:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、

:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、撮り、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

:24 それゆえ、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン

:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことをするようになりました。 

 ローマ書の1章では異邦人(未信者)が「彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」とあり、その結果「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され」たと書かれています。

Ⅱテサロニケ2章ではクリスチャンになった者について書かれていますが

「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」その結果、「それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす霊を送り込まれます。」と書かれていて、救われたと思っていても「真理への愛」を受け入れないなら、惑わす霊を送り込まれ「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」とあり、とても厳粛な気持ちと悔い改めの気持ちが生じました。

「真理への愛」とは何でしょう。また私たちはどうしたらこのような者にならないでいられるのでしょうか。 

Ⅱテサロニケ2章

:13 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたががたを、初めから救いにお選びになったからです。

:15 そこで、兄弟たち、堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。

:16 どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、

:17 あらゆる良いわざとことばに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。 

私たちは主イエス・キリストの十字架と復活故に「御霊による聖め」を受けていること。その御霊は日々、働きかけて私たちをイエス・キリストに似た者とする「聖化」の過程へと導かれます。もし、宣教だけを念頭に置いて「聖化」の過程が疎かになり、「御霊の実」が成っていない状態なら、一度立ち止まり「真理への愛」を受け入れているのか確認した方がいいのだと思いました。

私たちは旧約聖書の「律法」からは解放されていますが、新約聖書に書かれている多くの「私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝え」があります。

その御言葉を守り行い、聖霊のかすかな声を聴いたなら「悔い改め」ていきたいと思います。

 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように・・・」(ヘブル12:14~15) 

 私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなたがたに授かったかを、あなたがたは知っています。

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。(Ⅰテサロニケ4:2-3)