ナルドの香油

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(エレミヤ9:24)

イシュマエル(3)

【イサクとイシュマエルをどう理解するか】

先回においてイシュマエルという名が欧米で忌避されている理由を探ってみた。欧米のキリスト教成立の歴史とイスラム世界との対立事情がイシュマエルを解釈するうえに投影されているのではないかというのが僕の推論であった。

それは聖書が本来伝えようとするメッセージを歪めているのではないかという疑問が湧いて来たのである。むしろその歴史過程の外にある私たち日本人の日本人的心情やセンスによって、このイシュマエルとイサクの関係を読み解く方が聖書本来の主張に肉迫できるのではないかと言うのが僕の思いである。

欧米の神学を極めた方々から見れば、僕などの素人の意見など片腹痛いという感じであろう。しかし僕なりに言わせて頂ければ、日本のキリスト教の牧師、聖書学者はバルトやブルンナーについては詳しくても、日本の文化や歴史、日本人の心底に流れる感受性や心理、その納得の仕方について、どれほどの研鑽を積んで来ただろうか。

「福音の土着」ということが叫ばれて久しい。イエス・キリストの福音が理知的に受け入れるだけでなく、心の深い琴線に触れて、心から納得し、悟るものでなければらないと思う。

【北森神学からイサクの意味するものを探る】

幸いにも僕は日本が世界に誇ることが出来る、独自の神学をうち立てた北森嘉蔵博士の神学に、若い時触れることができた。早稲田大学の4年生の時、大学の文化祭の特別企画で北森嘉蔵と亀井勝一郎両氏のジョイント講演「宗教と文学」を大隈講堂で聴いた。北森博士の肉声に接したことは、僕の人生で実に幸運であった。その時の話しはピリピ2:6-11からのもので、若い僕の心に福音の神髄が心底にしみわたるのを覚えた。以来、北森師の著書に親しんで来た。特に「神の痛みの神学」「日本の心とキリスト教」「自乗された神」などを精読した。中でも「旧約聖書物語」は神の痛みを根底にして、アブラハムとイサクのモリヤの山の体験を、イエス・キリストの十字架のあがないが、神の義と愛の交差し、成就する場として、日本人の心情からも深く納得を迫るものであった。

その本の中で最も僕を感動させた所は申命記22:6-7の神の命令「たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて子を取らなければならない。それはあなたがしあわせになり、長く生きるためである。」を北森師は引用され、主はこれほどまでに母鳥の心情を大切にされている。親の心の痛みに配慮されている。この聖書箇所は、神が痛みに敏感な感受性豊かな方であることを、われわれに示しておられる所だと師は指摘されている。この聖書箇所を発見された北森博士のセンスにも深い感動を覚えた。そんな小鳥の心にも配慮される神が、最も忌み嫌われたのがカナンの地方で専ら行われていた、モレク神へ、自分の子を供儀する礼拝であった。「またあなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ記18:21)と厳しく禁止しておられる。

この二つの聖句は、いずれも神の愛とあわれみ、それゆえの痛みを深く覚える心情を表わしている。その神が人間の罪を解決されるためには、御自分が最も忌み嫌われる異教の方法を採用されねばならなかった。それがモリヤの山で、アブラハムがイサクをささげる行為であった。それはゴルゴタの十字架にご自分のひとり子をささげられる行為に通底する。

その神の痛みを私たちに感じさせる実例の物語を北森師は提示されている。

それは士師記11章のエフタの物語である。遊女の子であったエフタは期せずして、イスラエルの指導者に選ばれた。彼は強力な敵、アモン人との戦いを課せられる。エフタは戦いの前に、主に誓願を立てる。「もしあなたがアモン人に勝たせてくださるなら、私が戦いから無事帰還したとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」と約束してしまうのである。やがてエフタは勝利の帰還をはたして、自分の家に帰ると、なんと自分のひとり娘がタンバリンを鳴らして踊りながら迎えに出て来たのである。エフタは彼女を見るや、「あぁ娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめした。」と言い、自分の着物を引き裂いた。エフタにとって思ってもいない悲劇であった。しかし神と約束した勝利のいけにえは果たさねばならなかった。ここにも神が忌み嫌われるはずの人身御供が表わされる。

北森師はこう解説される。一人娘を見て打ちのめされた父エフタの心は主なる神の心そのものである。神は人類を敵サタンの支配から解放するため、自ら誓願を立て給うた。しかし、はからずもそれは、御自分の独り子を犠牲として献げることに他ならなかった。そこに父なる神の痛み、深い悲しみがある。北森師は、このテーマは日本人なら最も理解できることとして、日本の伝統的文化である歌舞伎の演目「菅原伝授手習鑑」の中の「寺子屋」の段を挙げている。菅家の家来松王は、一人息子を菅原道真寺子屋で学ばせている。道真は謀られて謀反人にされてしまう。彼の一人息子菅秀才を捕らえて、殺して首を差し出せとの命が下される。松王は主人への義理(忠義)から、自分のひとり息子をその身代わりとして差し出す物語である。主人の息子、実はわが子の首に対面する「首実験」の場において、松王が妻に言うセリフ「女房喜べ。せがれがお役に立ったわやい!」しかし、つぶやく「せまじきものは宮仕え」と。

このことばは日本人であれば、義理の上での忠義の行為も、情においては忍び難い、心の痛みを、観る者も感応して涕泪(なみだ)をしぼる場面である。

アブラハムがモリヤの山でイサクを献げる心の痛み、神がひとり子をゴルゴタで献げた痛みを日本人は理解できる。

アザゼルのやぎとは誰か】

さて僕の本論に戻すと、このようにアブラハムとイサクの物語は、イエス・キリストの十字架の型として、古来から引用されて来た。ではアブラハムとイシュマエルはどうであろうか。ここで僕は最初の稿で指摘した、イシュマエルとイサクの物語の同等性と並列性に目を向けたい。北森師の影響を受けてレビ記を読み進むうちに、この創世記の記事と呼応すると思われた箇所にぶつかった。それはレビ記16:7-10である。

「アロンは、二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。」さらに、21-22節に「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であってもこれを全部それの上に告白し、これらをやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼のすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」

このアザアゼルのやぎは正にイシュマエルの姿ではないか。彼自身には何の咎もないのだ。主に女主人サラの利己的保身の動機、アブラハムの気弱さ、またねたみや虚栄心、ライバル意識、いつわりやあらゆる不合理や理不尽さ。つまりアブラハムとサラの不信仰故の罪の重荷を、少年イシュマエルの肩に負わせ、わずかばかりの食料と、皮袋いっぱいの水を与えられ、当然、疲労と渇きと飢えで荒野で早晩死を運命付けられているアザゼルの荒野に放逐されたのである。そしてその姿はイエス・キリストの姿でもある。あらゆる人類の醜い、汚れた罪咎が、ゲツセマネの祈りの時、イエスに負いかぶせられたとき、「父よ。どうかこのにがき盃をわたしから取り去ってください。しかしわたしの思いではなく御心のとおりにしてください。」とイエスは血の汗をひたたらして祈られたではないか。

またゴルゴタの十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが父よ。何故わたしを捨てられたのですか)」と悲痛に叫ばれたのではないか。人類の罪、わたしの罪がイエスの頭上に置かれた時、神は一とき我が子を見捨てられた。その悲しみの故に天地は暗くなったと記されている。その悲痛さの故に、エフタが自分の衣を裂いたように、あの神殿の分厚い至聖所の幕が上から下まで真二つに裂けたのである。そしてその裂け目から私たちは、はばからずして、神の聖所に入ることができたのである。

(4)に続く