イシュマエル(1)

今朝はベエル・シェバの荒野をさまよい歩くハガルのような心境で、彼女が声をあげて泣いたように私も泣いた。(創世記21章14-16)

神学校で教えて頂き心に残っていた「イシュマエル」についての説教を思い出し、ここに残しておきたいと思います。書き起こしつつ神の愛に涙し、私の心の叫びを聞いて下さる神に感謝しています。

【聖書研究余録 聖書の中の気になる人物「 イシュマエル 」】 臼井 勲

創世記の講解説教を永く続けて来た。創世記の中に登場する人物はそれぞれ個性豊かでつきない興味を抱かせる。中でも僕にとってイシュマエルという人は特に僕の心に何事かを訴えかけるものを持っている。そして、ただ単にこの人物の生涯を考えるだけでなく、聖書の中で彼が占める役割、あるいは長いキリスト教史の中に、彼が占める問題点。これは僕の生涯の研究課題になるであろうと思う。

まだJTJ神学校で学びながら母教会の平塚聖契教会で、月一回の説教奉仕をさせて頂いていた頃、15年ほど前になるが。このイシュマエルが出て来る創世記21章に来た時、イシュマエルについて聖書の注解や講解、説教集等と調べていて、このシュマエルに対する、何とも言えない冷淡さを感じた。ある方は全く無視した形を取っていたし、ある方はタブーを恐れるかのように、おっかなびっくりの態度が感じられた。「いったいこれは何だ!」という思いを持った。

僕は説教を準備するとき、とにかく原典である聖書を、真っ新な頭で、先入観や他の人、それが高名な学者や説教者であっても、その神学や説教を脇に置いて、今、神が自分に語られている手紙を読むように、あるいは初めて新聞の記事を読むように聖書を読もうと心掛けて来た。そうすると今まで見えなかったものが見えて来ることがある。

そのように創世記の16-17章、21-22章を読んでみると、イシュマエルとイサクに関する記事がほぼ等しい長さ、分量で書かれているのに気付いた。何でもない発見のようであるが、中々重大な意味がある。聖書を読んでいると重要な記事は長く、内容豊かに描かれ、そうでない記事は簡単に数行で記されている。「某は何年生きて、何歳で死んだ」のように。

イシュマエルもイサクも共にアブラハムの子どもである。そして聖書は昔は羊皮紙(パーチメント)の巻物に書かれていた。その巻物を開くと、特に21-22章でイシュマエル、イサクに関する記事は21:22-34に唐突に出て来る。アブラハムがアビメレクからベエル・シェバの井戸を買うという物語の記事をちょうど扇の要のようにして左右にほぼ均等に振り分けられているのである。

【声なき声を聞かれる神】

創世記16章には、ハガルの物語が語られている。アブラハムの正妻サラに、アブラハムの世継ぎが生まれるという約束が神の使いによってアブラハムに語られるのを、サラはテント越しに立ち聞きして、夫と自分の高齢の故と生理的にも不可能であることを思って、不信仰の笑いをもらす。それは神の約束と聖なる計画を「嗤う」行為であった。

そして神の約束を待てなかったサラは当時としては当たり前で常識的であり、合法的でもあった方法で、自分の子を得ようと策をめぐらす。それは自分に仕える若いエジプト人奴隷ハガルによって子を得るという方法であった。つまり自然的生殖によらず、法的に母になる手段であった。一時的な公認の夫の浮気という不快を忍べば、自分は母になれると思い込んだ。これは神の約束を待つ「先ず神の国と神の義を求める」のではなく、己の知恵を第一にするものであり、神が定めた人倫の法にも適わないものだった。サラにとってハガルは人格的な存在ではなく、いわば生む機械に過ぎず、単なる使い捨ての道具であった。その道具、マシーンに過ぎないと思った者が妊娠した途端、自分が見下されるという屈辱を味わった。誇り高いサラは我慢がならず、ハガルをいじめぬいて逃げ出さざるを得なくしたのであった。ハガルは生まれ故郷エジプトへと向かうが、主なる神は荒野の井戸の傍でハガルに会い、やがて生まれる子を祝福し「イシュマエル」と名付けよと主御自身が命名され、その子孫の祝福を約束された。主御自身が命名された例はイサク、サムエル、ヨハネ、イエスの他にはないほど希少である、それだけ重大な名前であることを私たちは心する必要があるのではないか。そして主はハガルに、主人のもとに戻るよう促された。

彼女は主なる神のことばに従い理不尽な女主人のもとに帰るのである。神は、この理不尽なアブラハムとサラよりも奴隷のハガルと胎内の子イシュマエルに多大の同情を向けておられることが感じられるのである。そしてイシュマエルは生まれ、アブラハムの長子として育つのである。

イシュマエルが15才になった時、主の約束の通り、サラに待望の息子イサクが生まれる。イサクの2歳の祝いが盛大に催された時、イシュマエルがイサクをからかっている姿をサラは目撃する。人間は自分が日頃思っている幻想や恐れを事件として投影するものだ。ただの兄弟同士のふざけ合いを、いじめと取る。「写真は正直だ」などとよく言われるが、自分もよく写真を撮るものとして、作意によりどのように撮ることもでき、撮った人のコメントが付けば、その映像が世界を動かすことだってある。

「二人以上の証言がなければ証拠として取り上げてはならない」と別に聖書は云っている。

サラの故意の証言は夫アブラハムを言いくるめ、ハガルとイシュマエルを遂に追放することに同意させてしまうのである。「めん鳥すすめて、おん鳥ときをつくる」である。しかし、これが初めから神の計画のように大手を振って行われることに人間のあさましさ、罪深さがある。これは神の計画ではない。自分がまいた結果である。「もう用は済んだからいらない。ポイ!」のようにハガル、イシュマエル母子はわずかの水と食料を持たされ荒野に遺棄された。ハガルが目指す故国エジプトまで男のキャラバンで一週間、女子共では10日以上の道程である。アブラハムが苦しんだという描写はないが、苦しんだはずである。後のイサクの場合と同様、神に激しく祈り、神からの赦しと保障を頂いた後の決断であった。

【イシュマエルの心身症

イシュマエルはこの時16歳になっていた。この歳の少年の体力は大したものがある。山登りや水泳でも大人以上に力を発揮し疲れを知らない。しかしこの場面、母のハガルより、彼の方が先にまいってしまっている。ハガルは息子の死ぬのを見るに忍びず、絶望の中で泣いた。なぜ母より体力のある少年イシュマエルが声も上げられず、死ぬばかりになったのか。それは彼が「父に捨てられた」という深い悲嘆に心がズタズタに裂けた為ではなかったか。人は心のダメージが肉体に現れるのである。

イシュマエルは昨日まで法的にも習慣的にもアブラハムの長男として、皆に傳ずかれ、尊厳を持って遇されて来た。それが一夜にして野良犬のように放逐されたのである。心と魂の痛みが体に出ないわけがない。もう最後!と思った時、神の声がハガルに響く。

「神は少年の声を聞かれた。」不思議なことに、声を出して泣いたのは母ハガルであって、息子イシュマエルではない。彼は息も絶え絶え、声も出ない。しかし主はその少年の声なき声、叫びを聞かれたのだ。

「父よ。なぜ私を捨てられたのですか!」十字架上の神の子イエスの叫びと同じ声を。

さらに神は「(あそこにいる)少年の声を聞かれた」からだと再び言われた。

「この少年の声を聞かれた」はヘブル語で「イシュマエル」である。神は「イシュマエル」「イシュマエル」と二度呼ばれた事になる。聖書の中で二度個人名を繰り返すことは最も重要な神の関心事に限られていた。主は「アブラハムアブラハム」と声をかけ。「モーセモーセ」と言われ、「サムエル、サムエル」と少年サムエルを呼ばれた。我に返ったハガルは自分のそばに泉があるのを発見した。そして母と子は助けられた。

(2)に続く