神の憐れみ

「神の憐れみ」について思い巡らしていたら、以前とても有益な文章を読んだ事を思い出しました。以下、「影の国にわかれをつげて」より 

【「憐れに思う」(スプランクニゾマイ)にみられるイエスの「共感」について】

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/427004/415506/60770002

エスの語った「善いサマリア人のたとえ」の本文には「その人を見て憐れに思い」というサマリア人の「共感」を表わした言葉がある。
 この「憐れに思う」の原語は「スプランクニゾマイ」というギリシア語であり、「スプランクノン(はらわた、腸)」から来ており「はらわたを突き動かされる」「内臓を引き絞られる」という意味である。
 この語はイエスの「真正のことば」と考えられる他の 2 つの「たとえ話」と、イエスの活動を報告する文書の中にも用いられている。
 それらの記事の中で、イエスは当時の社会に根強くあった、病気や血液、死を「けがれ」と見なす因習をものともせず、患者たちに直接触れることで、その痛みを癒された。
 この他者の痛みに共振して自らの内臓をもうち震わせるイエスの共感こそ、彼のあらゆる宗教的・社会的活動の源泉であり、キリスト教信仰において忘れてはならない基本姿勢である。
 ここには、聖書においてイエスの示した「憐み」の感情を表現する語であり、またイエスが「たとえ話」において「憐み」を表現するために用いた「スプランクニゾマイ」という語に注目して、キリスト教における「憐み」が、援助者が困窮者に対して上から下に、或いは遠く離れて、客観的に眺める行為ではなく、援助者と困窮者という両者を隔てる時代的、文化的な偏見、或いは現実的な立場の違いを飛び越えて、まさにその苦しみを「共に感ずる」こと、すなわち「共感」であることが語られている。
 ここから私たちに提供される課題は、第一にイエスは、彼の時代の因習・精神に逆らい、如何にしてこのような「共感」を感じ、その「共感」に導かれて行動しえたのであろうかという点、次に、私たちはイエスと同様に「共感」し、行動することが可能であるのかという点である。
 上記の「スプランクニゾマイ」が用いられている聖書箇所を、代表的な英語訳聖書 New King James Version では適切にも「 compassion 」と訳している。この「 compassion 」とは日本語では「思いやり」や「深い同情」と訳される語であるが、語源的にはラテン語の「 con (ともに)」と「 passus (苦しみを受けた)」の合成語であり「共に苦しむ」とか「苦しみを共にする」という意味である。また英語には、ニュアンスが若干異なるものの、同じく「共感」や「同情」を意味する「 sympathy 」という語が存在するが、こちらも語源的にはギリシア語の「 sym (ともに)」と「 pathein (苦しむ)」の合成語であり、語源的な意味は全く同一である。
 ここで、注目すべき点は、英語において「情熱」を意味する「 passion 」もまた、語源的に上述のラテン語「 passus 」とギリシア語「 pathein 」と関連することである。すなわち「 passion 」において表現される情熱とは、元々は他者の苦しみに向かう「情熱」を意味しているのである。またこれらの事実は、他者に向かう「情熱」と「共感」が密接に関係している事を意味する。
 上記の内容から、イエスにおける「憐み」=「スプランクニゾマイ」は、イエスの困窮者たちに対する「情熱」に起源を発すると私は考える。またここから、現代に生きるキリスト者である私たちにおいて「スプランクニゾマイ」を実現するものもまた、困窮者たちに対する「情熱」であるとも私は考える。

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人間が思う「憐れみ」はどちらかというと「同情」「憐憫」的な要素が強い気がする。

けれどイエスさまの「憐れみ」は「はらわたを突き動かされる」「内臓を引き絞られる」ような、ご自身がその苦しみ、悲しみと一体になって下さり、尚且つその救済の為に即行動に移されるという点も人間の思う「憐れみ」とは違うと思いました。

「スプランクニゾマイ」の英訳「 compassion 」が語源的にはラテン語の「 con (ともに)」と「 passus (苦しみを受けた)」の合成語であり「共に苦しむ」とか「苦しみを共にする」という意味である事も知ることが出来て良かったと思う。

内におられる聖霊は、私たちの思いの中に「スプランクニゾマイ」(他者の痛みに共振して自らの内臓をもうち震わせるイエスの共感と他者の苦しみに向かう情熱)と力を与えて、良きサマリヤ人のように隣人とならせて下さる。