キリストを見る

 

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。                   (黙示録1:17) 

振り返って、一目この栄光の主を見るだけで、このような結果になります。この栄光は並外れたものです。だれの目がその光景に耐えることができるでしょうか? 

ヨハネはかつてイエスの胸に寄りかかりました。しかし、この栄光、威厳、力、聖のゆえに、彼は主の足もとに倒れて死人のようになりました。

キリストが来られて、教会とこの世を裁かれる時、だれがこのような光景に耐えることができるでしょうか? もしヨハネがそうであったなら、他の人々はどうなるでしょうか? 不忠実な信者たちはどうなるでしょうか? 主の敵はどうなるでしょうか? どうかすべての聖徒たちと罪人たちが、この来るべき裁きの厳粛さを認識しますように!

もし私たちが真に主の栄光、主の聖、さらには主ご自身をも見たのでしたら、私たちは昔の聖徒たちのようになるでしょう。私たちは、みずからを深く恨み、自分自身を最も憎悪すべき、最大の敵であると見なすでしょう。あらわにされている高ぶりであれ、隠されている高ぶりであれ、両方とも私たちがキリストを見ていないことによって起こります。いずれにせよ、私たちは自分自身を知らないのです。

自省は益になるかもしれませんが、それは完全な導きにはなりません。心はよろずのものよりも偽るものであって、だれがこれを知り得るでしょうか? もし主がなければ、私たちは自分自身さえも知らないのです。もし私たちが主の光の下にいなければ、どうして私たちは自分自身の光で見ることができるでしょうか? 私たちが主の前にやってきて、自分自身を吟味する時こそ、私たちは真の自己を見ることができます。

自分は何かを持っていると考えたり、自分自身を他の者よりも強いと見なす者たちは、自分自身を知らないからです。主は私たちの生活におけるあらゆることを案配し、導いて、私たち自身の完全な失敗を私たちに見させます。私たちがこの学課を学ぶことは、何と難しいことでしょう! 

私たちは失敗する時は、少しへりくだるかもしれませんが、私たちが神の恵みで満たされ、働きにおいて成功する時は、私たちが自分は役に立たないことを認めることはとても困難です。もし私たちが常に主イエスを見て、絶えず彼の足もとに倒れて死人のようになるなら、それは何と驚くべきことでしょう! 

どうか主の栄光と聖が、私たちに自分自身を憎ませ、そして私たちが地にひれ伏し、自分自身を死にゆだねますように。その時のみ、主はご自身を私たちの生活において現わされます。

『啓示録を黙想する』ウォッチマン・ニー全集  第4巻P98〜100